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「苦悩と死とが意味をもつならば、私は私の苦悩を苦しみ、私の死を死のうと思った」

■ヴィクトール・E・フランクル『死と愛──ロゴセラピー入門』

「私は私の人生が意味をもつときにのみ生きることができたのである。そしてまた苦悩と死とが意味をもつならば、私は私の苦悩を苦しみ、私の死を死のうと思った」(P.144)

今回はかなり長く、個人的な体験や考えを書いています。例によって本の内容とややズレるかもしれませんがご了承ください。

二週間ほど前だろうか。ある人の死を知った。

その人とは面識などまったくなく、Twitterで一方的にフォローしていたのみだ。フォロワーの多い人で、ある意味、有名な存在だった。

がん闘病者の間で、有名な存在だった。

私自身はがんを患っていないが、父のがんが発覚した際にいろんながん闘病者の方をフォローして情報を集めていた。彼もその一人だった。


その人はいつも元気だった。

──と言うと語弊があるだろう。元気なはずはない、が、明るかった。末期がん(ステージ4)と告げられてからも、複数の抗がん剤治療を切り替えながら、寿命を延ばす努力を続けていた。その内容を語る投稿も明るかった。

時々は弱音もあった。しかしその弱音すらも、運命を嘆いたり誰かに八つ当たりすることはせず、前向きな言葉に変換しようとしていた。

1年……いや2年ぐらいフォローしていただろうか。つまりそれだけ長くの間、余命宣告をされながらも寿命を延ばし続けていたことになる。


しかし年明け頃から、明らかに体調を悪化させていることがツイートから読み取れるようになった。文章のトーンは変わらず前向きで明るいのだが、よくよく読んでみると「声が出ず、動くこともできず、ろくに食べることもできない」という状態であることがわかった。

いよいよ彼の死が近づいていることを、多くのフォロワーが知っただろう。私も。

でも何もできなかった。当たり前だけど。

2、3日投稿がない状態が続き、ある日、妻の代理投稿で死が告げられた。

代理投稿すらも前を向いていた。

その前向きさ、健気さ、明るさが余計に苦しかった。


少し前からずっと考えている「死」の意味、言い換えれば「生」の意味を、ふたたび考えるきっかけとなった。

──なぜ、死にゆくのに、明るくいられるのだろうか。

──なぜ、明るいのに、死ぬのだろうか。

──この明るさやこの健気な人柄は、死の後に、いったいどこに到達するのだろうか。

私の頭はひどく混乱した。

この本『死と愛』は、本来は精神科医やその関連職の人向けなのかなと思う。特に最初と最後の章は専門用語が多く、また、対象が明らかに一般人ではない。例えば「われわれは医師として〜」というように主語が精神科医側にあるようだった。

しかし、第二章第一節に書かれた

「人生の意味」
「苦悩の意味」
「労働の意味」
「愛の意味」

は、一般人向けの哲学書といって差し支えない内容だった。示唆に富んだ濃厚な内容で、咀嚼するにもなかなかの体力を要する。


フランクルは、強制収容所における体験を語った『夜と霧』でも有名だ(むしろこちらのほうが有名。物語調で読みやすい)。

まさに、死の淵へ。肉体的にも精神的にも過酷な運命を辿った人である。その体験が影響しているのだろうか、彼の思想は少し“厳しい”と感じた。

失礼を承知で簡単にその思想をまとめてみる。フランクルは人間の「良心」を生きる意味の基盤として考えている。「人間は良心や尊厳をもって人生を生きねばならない」という感じで、どちらかといえばストイックな思想だ。

これは想像になってしまうが、「その日暮らしで楽しいことばかり追い求める人生は、あまり良くない」とフランクル先生は仰ることだろう。だから、若干窮屈と感じる人がいるかもしれない。

でも私個人としては、先生の言葉に救われた。なぜなら私は、人間の良心や尊厳に価値があると考えなければ、生きる意味がわからなくなってしまうからだ。そして、先ほどの疑問の答えも宙ぶらりんになってしまうからだ。 

フランクルはある例えを挙げていた。簡単にまとめると

──これから死刑になるという人間がいる。その人が、最後の晩餐に美味しいものが食べたいと言うとしたら、その快感はなんのためだろうか?

あるいは、

──ここに自らの死を知った人間がいる。その人が、死の直前でも他人のために良い行いをしようとするとしたら、その善行はなんのためだろうか?

生きる目的を「快楽」に求める快楽主義の主張を鵜呑みにしてしまうと、これらの問いに答えられない。一つ目の問いは、どんなに美味しいものを食べても、経験する快楽が死によってすぐ無意味になってしまうから。二つ目の問いは、死の直前で見返り(快楽)が期待できないとすると、善い行いが無意味になってしまうから。

(少し私なりの説明が入るが)こうして明確な死の直前という例えに変形すると理解しやすいけれど、実は、この状態が人生なのだ。違うのは「死の時期をある程度正確に知っていること」と「死の時期が近いこと」だけである。

本質的に全ての人生は確実に死に向かっているのであり、だとすれば、人生におけるいかなる行いも無意味ではないだろうか?


ここでフランクルは、快楽は行いの「目的」にはなりえず「結果」として得られる作用にすぎないとする。

彼によると、人生の価値は、快楽を増大させることにあるのではなく

(1)創造すること(創造価値)
(2)体験すること(体験価値)
(3)自らの人生に対して責任ある態度をとること(態度価値)

の3つが、その時々によって入れ代わり立ち代わり「価値」として指向されるべきものである。そして、いかなる状態になろうとも最後の瞬間まで残るのは態度価値だ──というようなことを言っていた(要約は私の文章であることをご了承ください。決してコピペなどされないよう……)。

最後の晩餐は(2)の「体験価値」であり、死ぬ直前の善行は(3)の「態度価値」である。個人的な理解として、「態度価値」はつまり「良心」と「尊厳」をもって生きることなのかな、と考えた。

最近知った「死」の話に戻ろう。

私は、その人や家族の「良心」と「尊厳」に心を打たれたのだと思う。平たく言えば

「どうせ死ぬのに、なぜそんなに健気である必要があるのか?」

という悲しみ、(死に対する)憤り、虚しさ。特定の神を信じているわけではないが、神への非難に近いかもしれない。

しかしもし、人間の生きる価値がフランクルの言うような「態度価値」にあるとするならば──つまり、人間は最後の瞬間まで良心と尊厳を失わずに生きねばならないとするならば──あの健気さこそが、素晴らしく人間の模範なのではないだろうか。と感じた。


「〜ねばならない」は窮屈だろうか?

窮屈かもしれない。「ああしろ、こうしろ、こう生きろ、こう死ね、なんて言われたくないよ」と思う人もいるかもしれない。そんなに頑張れないよ、そんなに言われたらキツイよ、病んじゃうよ、と思う人もいるだろう。気持ちはわかる。私は自分に課すものが比較的多いタイプなので、ああしなきゃこうしなきゃとなってしまい、よく「もう少し肩の力を抜けば」と言われる。

でも「〜ねばならない」と言ってくれるから頑張れる。だからこそ頑張る意味がある。とも思う。

例えば、私が鬱になってしまったとする。責任感ではちきれそうになったとする。その時に「『こう生きねばならない』なんてないよ。あなたにはなんの責任も使命もないよ。楽しく生きればそれでいいんだよ」と言われたら、楽になるだろうか?

瞬間的には楽になるだろう。でもいずれ「やっぱり違う、解決していない」となる気がする。

「楽しく生きればそれでいい」のなら、「よく生きねばならない」という当たり前の本能は、どう説明できるのだろう。

私は「楽しく生きればそれでいい」という言葉に、単なる誤魔化しに近いものを感じる。誤魔化さないで「〜ねばならない」と言ってもらえるほうが誠実ではないだろうか。もちろん時と場合によるけれど。

であったとしても、

「なぜ人間はそんなに良い人間である必要があるのか?」

という、もっと掘り下げた疑問が生まれなくもない(「なぜ」は無限に続くものだ)。態度価値の重要性はわかるけれど、きちんと説明されてないような気分にもなる。良い行いをしたほうがいいから良い行いをしろ、と言われているにすぎないのだから。


しかし今、何もかもをフランクル先生に求めてはならないのだろう。

私は「創造価値」「体験価値」「態度価値」という説明に今、しっくりきている。その理由を探すのに急いてはならない。

まずは、生きてみたい。この瞬間も、死の直前までも、良心と尊厳を失わない自分でいたい。

人間が本質的に他者との関わりを絶てない存在であるのならば──他者のためを想って生きることが、施しや偽善ではないと考えたい。

良心をもって死ぬこととはつまり、良心をもって生きることではないだろうか。


運命は大地のように人間に属している。人間は重力によって大地にしばりつけられるが、しかしそれなくしては歩行は不可能なのである。われわれは、われわれが立っている大地に対するのと同様に、運命に対さなければならず、われわれの自由に対する跳躍台としなければならない。(P.83)
或る伝記をわれわれはその「長さ」によって、すなわち頁数の多さによって判断せず、その内容の豊かさによって判定する。(P.73)
職業と家庭が与える具体的な使命を実際に果たしている一人の単純な人間は、その「ささやかな」生活にもかかわらず、数百万の人々の運命をペンの一走りで決定できても、その決定において良心なき「偉大な」政治家よりも偉大であり高貴なのである。(P.48)
不安は動物ももつことができる。しかし、良心の不安あるいは負い目の感情は人間そのものだけがもちうるのであり、その当為に対する存在の責任の中にあるもののみが有しうるのである。(P.228)
或る対象に目を向けることがその対象を生み出すのではないのと同様に、その対象から目を背けることはその対象を失くしはしない。(P.119)

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