友だちの話

ここ最近、すれ違っている。

まず私から電話をかけたのが1週間前。その3日後に向こうから電話がかかってきたが出られず。
次の日たまたま彼の住んでいる近くに寄ったので所在を尋ねるメールを送るも、返信は翌日で会うことは叶わなかった。


彼は中高時代の友だちである。
卒業以来、数ヶ月に一度電話で話をするようになった。電話は向こうからかかってくることもあれば、こちらからかけることもある。
いつもお互いに特に用事はないので、近況報告をしたり、思い出話をしたり、共通の友人の話をしたりする。
もちろん、声が聴きたいからなどという理由で電話をするわけでもない。
ただ、気が向いて、というだけ。

そういうわけで、今回もお互いに特に用事がないことはわかっているので何度も電話をかけたり、すぐに折り返したりせずにすれ違ったままなのである。



ところで、今日昔の手帳のメモを見返していたら高校のときの先輩が童謡のやぎさん郵便について考察していたものを見つけた。
内容としては、

中身を確認しない手紙のやり取りは、実際そんなに仲良くないのに「うちらズッ友だよね」という確認を行うためのもの、それによって虚構の人間関係を得て安心するためのものなのではないか

というようなものだ。
当時の私はたしか、なるほど確かにそう読めるなぁ。面白い考え方だなぁ、とたいそう感心してこれをメモしておいたのだと思う。


しかし、そこで私は上述した友人の彼のことを思い出し、不安を覚えた。
だって、この話によると、彼との関係は虚構の友情そのものということになりそうなのである。
特に用事はない。実際に話しても中身のない話が多い。そしてたしかに、お互いに電話をかけあう状態が続くことが彼とは仲がいいことの証明のように思っている節はある。
つまり私と彼との間には本物の友情なんてものはなくて、連絡を取り合うことで仲がいい(実際にそうでなくとも)ことを確認しているだけなのではないか。

なんてことだ。悲しい。
友だちだと思っていたのに、そっちはそうじゃなかったのね。
どころではなく、
友だちだと思っていると思っていたのに、実は思っていなかった。
なんて……。


いやいや、やはりそれは違うだろう。少し大げさすぎた。
どう考えても彼は友だちだ。

だって、彼に電話をかけて話をすることは、たしかに特に意味のないことだが、そこにはたしかに思いやりのようなものが、ある気がするのだ。
心配とか気がかりとかそんなにはっきりした形のあるものではないけれど。
気が向いて、と私は言っただろうか。
たぶんそのくらいの軽さで、なにか、相手に対して向く心があるのだ。

そして、やぎさん郵便についてもこんな風に考えることができるのではないだろうかと、私は思った。
彼らの手紙にはたしかに中身がない。お互いに食べてしまって読まれないことをわかっていながら、手紙を出すのである。決して実際に会おうとはせずに、ただ手紙を出す。それは一定の距離としての友だち関係を保っているだけのように思える。

しかし、中身がなくともやり取りをするという行為そのものに在る友情というのも、あるのではないだろうか。
読まれないとわかっていても彼らは文面を書くのである。それも、さっきの手紙のご用事なあに?と。

人が「うちらズッ友だよね」というとき、そこにいつか自分の元を去られる不安がある。その不安を打ち消すために、“ずっと”友だちであることを確認しているのだ。

このやぎたちの手紙のやり取りには、その不安は感じられない。
むしろ、手紙は返ってきてもこなくてもいい、のんびり待とうというような姿勢すら見える。


やはり、やぎさん郵便にもどこか、私と彼の電話の間にある思いやり(のようなもの)があるのではないだろうか。

ただし、最初のやぎさん郵便の考察をした先輩はものすごーく賢いので、私の解釈が違っていたり、私の論が穴だらけでちっとも合っていない可能性は大いにある。

でも、それでも私は、彼と友だちであると思う。そしてやぎさんたちも同じように友だちであってほしいなと思うのである。


さて、彼には明日の夜にでもまた電話をかけてみようか。まぁ、また明日になったら忘れているかもしれないけれど。

#エッセイ #コラム #思ったこと #友だち #やぎさん郵便

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