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ちんちんを無にして『花束みたいな恋をした』を見た

 さて、ちんちんなのですが、私は『ちんちん短歌』というものを作成し、文学フリマで出店する程度のサブカル面白ケンカ売りにんげんなのだけれど、そんな私が小耳にしたのが、菅田と有村がやってとても評判のいい恋愛映画が上演されていると聞いた。

 よし、ここはひとつ、サブカル者が自虐を交えながら、大メジャー感ある恋愛映画をこき下ろして、ひと笑い取ってやろう。語尾に「でヤンス」とかつけて下卑た笑いを交えつつ、山里亮太のラジオ聞いてますぞー感出しながら売れてる映画の悪口を言うぞー、みたいな。そういう動機で見た。そういう動機で見た。おもしろサブカルが、面白く世相を切っちゃうでござるよーぴょーんぴょーん! うへへぇ、ちんちん丸出しぃー。

 そしたら、本気でキレてしまったという。

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 そんなわけで、見た直後のツイッターに書きなぐったことの、以下がまとめである。こんなにキレてどうするんだというくらい、キレている。もともとの不純な動機はどうした。でもまあ、それも青春かもなあと思い、そんな風に思う自分もまた地獄だなあと思い、なんだろうな、死にたいというか、学生時代に戻ってちんちんを突然露出して、死にたいなあと、いまおもってます。

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 『花束のような恋をして』(※怒りでタイトルを間違えている。正しくは『花束みたいな恋をした』)を見てきた。見たら、セックスができると聞いたので。
 ですが、後ほど、大量の悪口を延々と書くだろうと思います。大量の、悪口を、延、々、と、書きます。
 怒りが、収まらない。
 映画を見てこれほど怒るなんて。むかし恋人の目の前で、あまりにつまらなすぎる作品を見てものすごく怒ってしまったことがあり、当時の恋人をすごく心配させてしまった事がある。怒りがやばすぎると、人は他人に心配されてしまう。
 いやしかし、まだ私もこんなに怒れるんだなあ。作品を見て、本当に頭打ち付けるほど怒りが。
 まだ怒りに震える闘志があるなら、巨大な敵を撃つべきだよなあ。映画作品相手ではなく、政治家とか、電通とか、社会悪に対してとかさあ。それくらい、怒りが止まらない。

 ちょっと落ち着く。
 落ち着く。
 さすがに怒りすぎだ。
 映画の感想を書くのにこんなに怒ってはダメだ。ちんちんを出す。ちんちんを勃起させるためにエロ動画を見る。ちょっと待っててください。必ず映画の感想書きます。怒りはだめだ。ちんちんだ。ちんちんを露出してすこし、すこし休もう。休もう。

 それで休んだ。

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 さあ猫氏、『花束みたいな恋をした』という映画を見てきました。
 とても話題の映画で、「この映画の感想を語り合うカップルは別れる」と評判だ。
 だからこの映画を見て、女性の立場や感性に寄り添った感想を語れば、女性に出会えて、セックスができるに違いない。そう思ったので、見た。
 東宝シネマズで見た。満席だった。すごい。コロナはもういいのか。そして俺以外、全員カップル。そりゃあそうか。そうなるのか。そしてわしの左右、男。カップルはわしの隣に女を座らせない。警戒されているのだろうなあ。気持ち悪い男だからなあ、猫氏は……。

 で、猫氏、激怒。激怒した。
 猫氏はとっくに、もうサブカル者ではと思っていたが、これほどまでにサブカル的なものが安易に、軽く、道具として、ファッションとして、賑やかしとして、恋愛映画の具として利用されているのを見ると、怒りで震えてしまったのである。ふざけるな。
 ……ふざけるな! 大喜利なのか? 

「こんなサブカル好きカップルは別れる。さて、どんなサブカル?」

 みたいな……、全編そんな感じの、固有名詞大喜利と化していた。

 こんな悲しいことはない。劇中使われていた「天竺鼠のライブ」『宝石の国』『ゴールデンカムイ』「今村夏子の『ピクニック』」……どれも猫氏の大好きなものたち。
 でもなあ。
 監督はちゃんとそれら、目を通してんのか本当に、って思ってくらい、大喜利の答えとして名前出せば面白いと思ってる感じの、なーんか、すごく、いやだったなあ。

 例えばね、劇中『宝石の国』(漫画)を二人でベットで並んで寝転んで涙しながら読むわけです。

 ……ふざけるのも、たいがいにしろ!
 そんなマンガじゃ、絶対に、ない! 
 少なくとも男の方の役は「イラストレーター志望」、しかもデザイン寄りのだろう?
 そんな、男が、市川春子を、そういう、風に、読む、わけが、ない!

 あの漫画……あの傑作……『宝石の国』は、デザインの領域に志がある者なら、絶対にそうは読まない。
 宝石の国はなあ、「感動して恋人と泣ける」ようなもんじゃあないんだよ。圧倒的な何か。圧倒的な何かなのに、小さく生命に「インクリュージョン」という設定で説明される小さき者たちの……感情が、……魂が……心が・あのね、あのー、ね。
 ……とにかく、違うのよ。恋人と並んで泣くような、「交換可能なサブカル系のマンガで売れたもの」じゃあ、ないんだよ。

 劇中そういう扱いでしかないのだ。「恋人と共有できる面白いカルチャー」。劇中の固有名詞は、全部そうなの。そこに、怒りが、とまらない。

「天竺鼠のライブ」とかもそう、舞台『わたしの星』(再演)もそう。「その当時、サブカル系として目利きが評価してるカルチャー」でしかない。そこに固有の何かがあるだなんて、想像だにしていない。ふざけるのもたいがいにしろというのだ。そんな程度で名前を出すな。作品が汚れる。

 一番卑怯なのは、こと「映画」のジャンルだと固有名詞あんまり出さないのな。自分の扱っている領域だとおいそれと出せないんだろう。押井守やショーシャンクの空や実写版魔女の宅急便なら、ネタになる、出せるなと思っている感性も卑怯者だとしか思えない。その辺に対するリスペクトのなさも腹が立つ。
 本当にむかつく。怒りが収まらない。穂村弘の名前を出して「現代短歌も抑えてます」感も腹立たしい。どうせ、歌集買ってないんだろ。見てもないんだろ。検索結果に出てきたタイトルと名前だけ、出してるんだろう。
 短歌、演劇、漫画、小説の領域に謝れ。

 劇中、社会に染まった菅田が「ゴールデンカムイってってもう13巻も出てるんだー」。……じゃあ、ねえん、だよ! サブカル者は。……元サブカル者だった者はなぁ……。
「バカボンドまだ新刊出てないんだ」「一歩はまだ宮田君と戦わないんだ」「冨樫はまだ腰があれなんだ……」なんだよ。
 そのへんの機微が分からない人が脚本描いてるか、監督してる。腹立たしい。
(※注 この辺、勢いで書いてたが、今詠み返すと「どういう機微だ?」と思いました)

 サブカル的なものの固有名詞出しておけばOKみたいな……そんな道具立てでキャラクターを作るな。
 菅田と有村の演技の力だけに頼っている。や、俳優の力に頼るのはいい。よかった点は「変な演出で面白くしようとしてない」点だ。そこはいい。そこはいいのに、サブカル固有名詞で面白くしようとしてるところが……許せぬ。

 あとね、菅田の演じるイラストレーター志望の男の、イラストレート能力が高すぎる。あんないいイラストが描けて、あれで3カット1000円で世の中がほっておくわけがない。世の中、そんなに目利きがいないわけがない。サブカル舐めんな。目利きをなめるな。

 あれは菅田に、もっとダメなイラストを描かせなければだめなんだよ。あれでは才能がある人になってしまうんだよ。
 あのイラストが描けて仕事がないのは、よほど社会性がなく、らんぼうもので、電話を受けるとおもらししちゃうみたいな、そういう人だけ。
 そんなやつが、営業職につけるわけないだろ
 イラストレーター志望の男のリアリティがないから、後半、就職してしまうところにまったく説得力がないのだ。
 菅田が演技で一人で頑張っていた。だけど頑張りすぎて、すごく変。違和感。物語の都合で女性にひどい発言をするようになってる感に、どうしてもなってる。
 菅田には、もっとつまらない、もっと「うわーっ」てなる……露骨に誰かのリスペクトがあるんだろうな感が強く透けて見える、技術が中途半端にある上手いだけのダメなイラストを描かせないと。そういう、世界で一番要らない、アートにもデザインにも人生にもなれない、クズのような、クズのような、クズのような、クズのような、まるで、俺みたいな、俺みたいな、俺みたいな、俺みたいな、中途半端に才能があるばかりに人間性が死んだほうがいいような、そんな俺を、イラストを、登場人物の現在が顕現するような作品を描かせなければいけなかったのに。

 おしゃれだからって理由で朝野ペコのイラストを起用してはいけないんだよ。あんな才能のある人のイラストを使ったら、絶対に誰かの目に留まるだろ。

 だから、ただの「男尊女卑の話ね」になるんよ。
 これ、要するに日本が資本主義社会だからって話で、固有の二人の話じゃ全くないんよ。全部「マーケティングで浮かび上がってくる、統計上出現する夢追いすれ違い別れた男女」なのよ。全部それ。サブカルのチョイスも全部それ。
 映画の劇中の要素全て、グーグルで検索したら出てくるものなんだよ。何も生身の人間の、固有の人間の話が、演出がない。

 唯一頑張ったのは菅田と有村の二人の俳優としての身体性だけが、この電通案件みたいな作られ方をしたものを「作品」にしてる。

 いいなと思ったのは、最も後半に出てくるカラオケのシーンで出てきた「菅田の手」。
 別れ話を今日するんだよなあと思いながら行く、恋人とのカラオケで、デュエットする。その時の、絶妙に手を有村に回そうとして、回していいものかと戸惑いが、見え隠れする、いい感じの、あの手の回し方な。最高の手だった。菅田は上手い。
 あと有村もうまい。
 最後半で別れ話をするはずの二人が、菅田が「別れたくない。……結婚しよう」と言われたときの、有村のリアクション。最高だったなあ。魂が口から、ぽわああと抜けてく感じ。あーだめだこの男、と、女が男を見限り、ちゃーんと……嫌いというか……見限り、素になるあの感じ……。
 菅田の手の回しと、有村の魂の抜け。この2つの演技が最高によく、これができる二人だったから、劇映画としてすごくよかった。

 実はプロットも、付き合って別れる二人をじっくり描くいいプロットだった。すごくいい映画のプロット。
 ただ、演出と小道具、セリフ、モチーフの使い方が最低、最悪であり、怒りが止まらない。だれだ。だれがこの映画を貶めた。プロデューサか? 監督か? 映画に金出すポジションの老害の誰かか?

 あとねえ……。菅田は五万の仕送りで、あの家を維持できるわけがないだろう。
 理想の部屋を描くな……というかね、イラストレーター志望がね、モニターの脇に蚊遣り豚を置くわけないだろうが……。ちゃんとあの部屋で生活してみろって……何であんな雑に、バエだけ気にして道具を置けるんだ。
 それからねぇ……それから……それから……

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 映画の話はいいんだ。映画そのものの評価は。映画のクオリティの話なんかしたって駄目だ。
 俺の目的は、「この映画の二人の行動を話のタネにして、女性にウケのいいいい感想を言って、セックスできるかどうか」だ。

 これなあ。出てきた感想が「日本が共産主義国家になってたら、二人は別れなくてすんだのになあ」だった。
 この感想でセックスはできるだろうか?

 ちゃんというなら、「サブカル者同士が同棲したら、現代日本の資本主義社会では、サブカルを維持できなくなる」だなあと思った。同棲したのが全ての悪手だったのだ。

 あれ、有村が実家暮らしを続けて、菅田がボロアパートで暮らし、スニーカーで暮らし、ジョナサン生活さえしてれば、別れなかっただろうに。
 それを、菅田が頑張って生活レベルを上げて二人で暮らしたのがダメだった。生活レベルをあげなければ、イラストの仕事と仕送り五万で生きていけたのに、サブカル者が運よくわかってくれる女ができたのが、サブカルを弱らせた。有村がいい女すぎたのだ。

 この女のために、金と権力といい暮らしをさせてやろうと資本主義に毒された退廃思想が、菅田の才能を曇らせた。サブカルにとって貧乏は前提なのにだ。

 お前は、水木しげる御大を、見習え。 
 朝ドラの『ゲゲゲの女房』を見るんだ、日本サブカルの天皇は、食えない貸本漫画をずっと続けていたんだよ。金と権力は、40代以降でついてきたのだ!。
 菅田を堕落させたのは資本主義の責任だ! 資本主義がすべてだめなのだ!

 だから、結論。『花束みたいな恋をした』の感想としては、「次の選挙では日本共産党に投票し、日本を資本主義社会から解放しよう」だ。

 日本共産党への投票をお願いします。日本共産党は文化事業への政策も手厚い。日本共産党が日本の未来を、救います!

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 さらに追加の感想が、以下。
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 昨日の『花束のような恋をした』の思い出し怒りというか、これはあるあるなのかしら。

 劇の中盤で、女の方が、新刊で面白いと思って男に勧める本がある。
 その本が、帯がつけっぱなしだった。しかもかなり状態が綺麗。

 これあんまり自信がないが、そんなことってあるのか。人に本勧めるとき、帯つけた状態ってあるのか? 買ったまんまみたいな。

 なんかこう……帯がすこし折れてたり、よれてたりしたらまだわかる。「ああ、絹のやつ、カバンの中に常に入れて読んでたんだな」とか。あるいはそういう「本そのもの」に神聖さを感じるタイプなら、帯を外して、まあ、中に折っていれとくとか。レアケースでテープでちゃんと固定する派とかもいるとおもうが……あるいは書店のブックカバーつけっぱなしとかさ。
なんかその小道具に、映画としてなんの演出もなかったような気がするんだよな。
 監督は本を「サブカルの女の子が彼氏に読ませ近づきたいがための道具」としか見てなかったのか。
 サブカル者にとって本の扱いって、キャラを出せるヒントというか……本is私、じゃないですか。有村のやってたキャラって。

 面白い物、楽しい物、それが顕現するものis私、じゃ、ないのか絹ちゃんは。そういう奴じゃなくて、結局恋愛の方が強い「彼氏や他人と共感したいがためにカルチャーを消費してます勢」なのか。
 だとしたら、キャラとしての魅力がかなり落ちる。

 あとこの手の映画で、本当に嫌なのが、「登場人物にとって”敵”はどれだけ記号的に描いてもOK」感。
 具体的には絹の両親なあ。「おもしろ&理解してない発言する親」みたいな描き方しか、演じ方しかさせてない。
 サブカル者にとって「親」って、本当に……重いのよ。もちろんそこに尺は裂けないのだろうけど。
「親」や「その他の登場人物」、「地名」、「サブカル固有名詞」が、二人の恋愛を描くためだけの道具にされてる感。表面しか見られていない感。尊厳を奪われている感じ。
 本当に、どれだけ人を見ず、情報しか見てないで、恋愛を表現しようと思ったんだ。本当……思い出し怒りをしている。

 映画は省略の美学という側面もあろう。それは「描かない」というだけで、「内面をはく奪していい」というものではない。
本当に、そういう人の見方しかできない人が作っていると感じてしまった。

 ただ、そういう人の見方している人の作ったものが、これだけヒットし、売れ、話題になっている。

 そこに、猫氏は本当、「この社会が間違っている」と思った。この社会がおかしい。正しく、正さねばならぬ。共産主義革命を起こし人々に革新の時をつきつけねばならないと思った。
 だが、どこで、どうやって武力革命をなせばいいのか。どこで演説をし、割腹すればいいのか。
 わからない……共産党に投票する以外で、革命するやり方がみつからない……。デモをしてもなあ。コロナでできないしなあ。

 しかたない。セックスするかなあ。
 でも仕方ないでセックスするなんて失礼だよなあ。共産主義革命のため、いろんな女性と出会い、セックスをしながら、ちんちんで、命を革めたいんだよなあ。
 すべての資本家の財産を燃やしつくし、悪徳政治家を奴婢に落とし、そして、きれいな花を育てたい。

 育てたいんだよなあ。

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本日の有料記事は、新作ちんちん短歌10首です。
特にタイトルはありません。
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