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ちんちんが『怪物』という映画を見たことについて。そして「将来」について。

 『怪物』という映画を見た。

 ネタバレなのですが、小学校高学年(5年生)が出てきます。ネタバレ、すみません。そして、ネタバレなのですが、劇中、小学5年生が歩くんです。
 あー、小学5年生って、登校するとき、こういう歩き方するよなあ、って思った。ぐにゃぐにゃ、ふにゃふにゃ、ケンケンしたり。
 これ、大人になったらやんない、正しくない歩き方だよなあって。

 一般的な意味で言う「怪物」も、こういう足の動かし方、するよなあって、思った。

 だから俺、最近怪物じゃないのかもなあ。歩き方、変じゃないしな。昔はもっとちゃんと、変だったのに、今はなんであんな歩き方してないんだろう。

 ここから、本当の意味でのネタバレです。花の写真以降がネタバレになりますので、ちんちんを出したい人は、ちんちんを出してください。

 劇中、いろいろあって高齢のおばあさん先生(校長先生)が、ホルンを吹くのですが、ホルン。全然いい音しない。いい音しないホルンの音をあれした後、主人公の一人で、いろいろあって大変な小学5年生の男子に、おばあさん先生、突然、「しょうもない」って言うんです。

「そんなの、しょうもない。誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもないしょうもない。誰でも手に入るものを、幸せって言うの」

『怪物』(坂本裕二・2023 ムービーウォーカー)

 なぜこのセリフが、今の自分に響いたのか全く分かんない。文脈も謎。なんでホルン吹いた後、なんで孫殺しを旦那に押し付けた疑惑が強まった後、主人公がいろいろあって精神的に追い詰められた時に、おばあさん先生がこのセリフなのか。まったく、まったくわかんない。

 でもこれ、本当いいなあと思った。
 しょうもない。しょうもないんだ。高齢の、いろんなことを隠蔽する悪い人が、ホルン吹いて……なんか吹き方と音色が、パンクだった気がする。ホルンてあんな汚ねぇ音色なんだなあ――「しょうもない」って言い出すのが、ああ、人がここに居て、ここにしかいない人が、ここで出てきてしまった言葉、それは「この人にしか言えない言葉」であって、それが「しょうもない」って、汚いホルンの音色と共に。

 こういうの、すごくいい。
 なにひとつ、いい事がない。本当、なにひとついい事がない。
 だから、とてもいい。
 このキャラクターの人生も全然よくない。
 そのよくなさから出てきた言葉。しょうもない。すごく、いいなあ。
 全然、この映画のテーマなんかじゃないと思う、このセリフ。関節的には、テーマと言えなくもないっぽいけど。
 でもこのセリフだけ、劇を貫く思想だとか流れとかから、浮いていて、自由で、こういう言葉が聞きたくて、映画見てるのかもなと思った。

 その他のところはあんまり覚えていない。というか、タイトルが『怪物』っで、予告が「怪物だれだ?」みたいな煽りだったから、けっこう肩透かしを食らったんじゃないだろうか。怪物が誰か、みたいな目で見るとちょっといろいろ見え方が違うと思う。
 そもそもタイトルも「怪物」っていうのも、なんかこう、ズレてる。売れようとしてつけられてしまった感じある。なんか違う。

 劇中、小学校の教師は「将来」について作文を書かせる。これも映画本編では、いわいる「謎解き」みたいなシークエンスで微妙に使われて、別に大筋でも本編のテーマでもなんでもないところなんだけど、ふと、「将来」について作文、あるいはコメントを求められるのって、何歳までだろうって思った。
 高齢者に将来を聞かないよなあ。あと、死刑囚にも聞かないと思う。いい年した人に聞かないかも、っておもったけど、キング牧師には聞くかもしれない。彼は39歳で亡くなった。

 30代後半の私にとって、将来とは今なのか。
 劇中の小学五年生たちは、将来を聞かれる。
 劇中の母や、教師たちは、将来を聞かれない。 
 怪物に、「将来」について、誰かコメントを求めるだろうか。

 怪物には将来がない。
 だから聞かれたところで何にもならない。それは訊く側もうすうす気が付いていて、だから、将来を聞かない。
 で、この映画を見たとき、「怪物だれーれだ?」って煽りされるから、必然的に「あいつが怪物だったんじゃないか」と考察しちゃうんだけど、将来を聞かれるような存在、将来がある存在は、怪物じゃないから、除外できるんじゃないかなあと思った。

 だから、いじめられている方の、鏡文字書いちゃう小5の男子の人は、別に怪物じゃないと思った。

 劇中の中村獅童が演じるその小5の人の親は、彼のことをこういう。
「ばけもの」と。
 怪物ではなく……ばけもの。化けるもの。
 なんであのシーン、「怪物」って言わないのか。「ばけものですよ」。
 ……「怪物」だったら、「平成の怪物」みたいにポジティブなニュアンスが出るからか。脚本の、初稿段階では「怪物」だった表記が、現場の演出とかで、より現実の親が言いそうな和語にしたのかなあ。
(※そんなことはなかった。シナリオ本でも「化け物」と書かれてあった)

 ばけものには、将来があるのか。

 劇中の……おそらく私と同年代の、主人公の一人である母親は、「湊(子供)が結婚して、家族を作るまでは頑張るよ」みたいなこと言う。
 ここには将来がある。

 劇中の、いろいろがんばってるけどひどい目に合う教師は、付き合っていた女性と別れたり、週刊誌に追われたり謝罪会見を開かされて辞めさせられたりと、思ってた将来を失い、別の将来になる。将来は変わらずある。
 
 で、母は、その将来の一角の息子を、台風の日に、その教師と一緒に頑張って探す。

 ラストシーン、いろいろあってよくわかんないけど、まあ多分、死んでると思うんだけど、子供たち。つまり、将来がなくなるんだなあと思った。物理的な意味でも。

 だから小5の二人は、怪物じゃなかったけど、怪物になった。死んで、台風で崩れた土砂で、土を被せられ、生まれ変わって、怪物になれた。それは彼らが望んでいた事だったようにも見える。
(シナリオ上ではラストの方できっぱりと、生まれ変わりを否定するセリフがあったけど、映画ではバッサリなかった気がする)

 そして母と教師は二人は、将来がなくなって以後の世界を、歩むんだなあと思った。
 まるで俺みたいだと思った。

 なにひとつ、いい事がない。本当、なにひとついい事がない。
 しょうもない。
 そして自分でしか得られないものを抱えて、何もない将来を、それでもきっと人として生きる。母はきっとクリーニング屋さんで働く。元教師はきっと、頑張って金魚を育てる。

 だから、とてもいい。とてもいい映画だなあと思ったんだけど、どうでしょうか。なぜとてもいいか。生きているからだ。何一ついい事がない世界を、生きているから。そう信じられる登場人物たちだからだ。

 最後半の、小学生同士の友情、愛の感じは、あんまり入って来なかったので、こういう感想になってしまった。たぶんそれがメインテーマなんだろうけど、全然、頭に入らなかった。見たいところしか映画を見てない感じがして、こういうものの観方、きっとよくないと思った。良くない観客だ、俺は。俺はもうだめだ。

 でもさあ、映画だって、見せたいところしか見せてないわけで、それが序盤中盤の叙述トリックみたいな感じで観客をおもしろがらせるわけなんだから、おあいこだと思うんですが、どうでしょう。

 そんなわけで、正しく使われることのないちんちんと一緒に、映画のテーマとは関係なく、見たいものを見て生きていくような、良くない人生を歩むのだと思いました。私は。

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