見出し画像

『さかなのこ』の目をちんちんが見る。

 わたしはちんちんなのですが、『さかなのこ』という映画を見た。

 うれしかったのは、久々に予告から「見たい」と思い、見たいと思う事ができ、そして実際、封切り直後にちゃんと見に行けた。

 このことが、とてもうれしかった。こころが錆ついてなかったなあと思った。そして、それを刺激してくれるような映画の内容(そして広報もよかったんだと思う)で、それがとても、よかった。

どうして見たいと思ったんだろう

 それにしても、いったい何が、私をこの映画を見に行きたいと思わせたんだろう。理由を考えてみる。

 まず、「さかなクン」という奇特な人物を元にした映画であるらしいこと。これはそそる。なぜああいう人物がこの世に出現したのか、というのはとても知りたいし考えたい。
 そして実在の人物がモデルということなのだから、完全なフィクションにはなりえない、というところで、安心感があった。
 なんかこう、楽しませようとしてゼロから作られたもの、というものが、今の自分にはとてもしんどいのだった。事実を基にしたこと、そして事実から逃れられないという縛りがあることが、今の僕にとって安心感があってみる事が出来た。

 いま本当、フィクションに耐えられない。弱っている人間に、フィクションの物語が、ちょっときつい。フィクションの様々なお約束をいったん飲み込まなくてはいけないことが、とてもつらい。もう、嘘見て笑えない、国葬という嘘を堂々とやられてる社会とか、ほんとう無理。生きてられないくらい、つらいのです。

 二つ目に、男性であろうさかなクンの役を、のんという女性が演じる。そこで目を引いた。そのやり口もおもしろかったし、また予告に出てきたさかなクン役ののんが、とても面白い。
 わずかな予告の演技の中で、これは見たくなる人物がいたなあと思い、見たくなった。
 この嘘は、信頼できると思った。嘘だけど、嘘じゃない。演技という技巧から出現する強い説得力というか。
 単に女が男を演じる珍しさだけではなくて、「あー、さかなクンらしきおもしろい存在が、嘘の世界でも本当に実在するんだなあ」というリアリティが、嘘なんだけど、それが本当で、本当のものなら、頑張って嘘を飲み込まなくても、そのままの目でも見られそうっていうね。

 三つ目、さかなクン本人が自分の自伝的な話に、多分別の人物として出演している感じが予告編の中にもあり、その構造もちょっと面白いと思った。
 見てみたい。
 さかなクンが、おそらく幼少期のさかなクンっぽい子役に、つまり、自分自身に、どう接し、なにを語るんだろう
と。

 大きくはこの三つ。
 他に理由があるとすれば、前田司郎という面白い作家が脚本を書いていることも信頼があった。

 これらの面白いなあと言う予感があって、ようやく映画館に行くことが出来た。
 他の人もそうなのだろうか。これくらいの予感がないと、おれはお外に出られないものなのか。

 前提が長くなったけど、今の自分には必要な前置き。
 いま、こころがとても死んでいる。全然、おもしろいものに心が動かないのだ。まず、映画は見に行かないし。
 それを、動かしてくれるものはいったい何なのか、何で映画に行けたのかとぶつぶつ考え思いながら、映画館にいったんだよなあ。

画像1

第一私の感想「ばか映画で楽しかったなあー」


 で観た。
 おもしろかったーという第一私が喜んでいいる。

 一言でいうと、ばか映画である。全体のトーンが、もうばかで、まぬけで、やさしい。それが面白い。
 その面白さ、何かを面白がらせようと無理をしたやつではなく、この主人公――「ミー坊」(劇中でのさかなクンに相当する人物)の近くにいる人たちは、そうなるよなあという、説得力を持ったばかさ加減の面白さ。
 ミー坊が動き、躍動し、魚をさばき、ちゅるんと食べ、ひょいひょいカブトガニを移動させ、へらへらし、時に自信を見せ、空手で不良を倒し、魚に囲まれて昼寝し、最後、子供たちを引き連れて大行進をする。

 ばかだなあ。たのしいなあ。ミー坊がこの世にいてよかったなあ。そういう風に、「第一レイヤーとしての私」は見る事が出来て、とてもよかった。

第二私の感想「とても怖い、ホラー映画だ」

 で、第二私。
 心を病んでぼーっと映画館の座席にただ座っている第一私ではなく、映画という作品を観る事で、人生の中へ取りに行く、奪いに行く、血肉にするために見ようとしていた第二私は、この映画を「とても怖い、ホラー映画」として見ていた。

 怪物がいた。
 この映画は、その怪物が幼少期からどのように育ち、社会の中で異形の存在になっていったかを断片的にとらえていた。怪奇・魚人間の悲哀が、そこにあった
 劇中で魚怪人である「ミー坊」はこう口にする。

「私は働いたり何かをしようとすると、いつも周囲に損害を与えてしまうのです」
(一回観ただけなので正確なせりふ引用ではないです)。

 悲しい怪人はどう育ったか。
 映画を見るに、母の影響がつよいなあと感じた。怪人の母は、怪物の振る舞いに同意し、怪物の望むものを出来うる限り叶え続ける。
 毎週水族館に行きたいと言えば連れて行き、魚図鑑を、ミー坊が欲しいと言う前に先回りして与え、ミー坊がタコ料理をすべて食らいたいと言えば、毎日違うタコ料理を調理して与える。

 同居している兄、父の存在などお構いなしだ。ただ「ミー坊」という怪物の望むものを最優先で、この母親は動いているように見える。

 それは狂気を感じるほどだ。母は、なぜかミー坊にだけ、静かに優しく狂っている。
 怪物と、それに溺愛する母を見て、兄、父の苦しみ、恐怖はいかほどだっただろう。
 同じ兄弟でも、ミー坊兄は何も与えられていなかったように思える。ミー坊兄は無理やり、年下であるミー坊の水族館興味についてこさせられ、毎日ミー坊が食べたいとねだる魚料理を、まきぞえになって食わせられる。

 最後らへんのシーンでミー坊が「家族全員、魚が苦手だった」という告白を母から聞くが、ミー坊はそれを聴くまで、一切そういったことに気づくことはなかった。そのあたり、さすが人間の気持ちの分からない、さかなの子だ。
 こうした家族の苦しみを知る事の無く、怪物はすくすくと、母の静かな狂気を啜って育つ。

 しかし映画中盤で、ミー坊は母からこう告げられる。

「広い海に出てごらんなさい。」

 その時の、映画で描かれたミー坊の目を見て欲しい。ミー坊を演じるのんの、すごい目。
 それは、さかなの目にも似ていた。
 黒く、丸く、おおよそ人間の共感の外にあるような目。
 私には、覚醒した怪物が、初めて人類を見るような目に見えた。

 
そして母は、怪物をこれ以上育てられないと、諦めたのか。あるいは、怪物のさらなる幸せに、自分の愛情が枷になっていると気づいてしまったのか。
 これは「母のために魚を揚げる」などという、人間臭いシーンの後に行われたやりとりだ。
 そこで母は思ったのかもしれない。
「私なんかを愛してる場合じゃないだろう」と。
「もっと、外へ。もっと、広いところへ」
「あなたが、この街を、この世界を、「好き」を貫くことで事で、このつまらない、くだらない、小さな世界から、私たちを開放してくれないか」と。
 ……このあたりは、私が一方的に思った、捏造メッセージです。
 というか母はミー坊に、ジャーナリズムの精神を説いてるんですよ。そういうセリフがミー坊から(半ばギャグとして)語られるシーンがある。母はどこか、静かに挫折したリバタリアンだったのではないか。

 異形の怪物の子は、前半パートは、あくまでも自分は人間であろうとしていた。きっと、母に対しての感謝と畏敬の念が、ぎりぎり、ミー坊を人間の枠内にとどめさせていたのだろう。

 でも、その母が、ミー坊を怪物へと解き放つ。
「広い海に出てごらんなさい。」

 その、獣性を解放されたミー坊の、その次のシーンでは、部屋の水槽が引っ越しでなくなっているカットになる。
 水槽を支え続けた畳や壁が変色しているところで、怪物が社会に出て行ったことを示されてて、セリフや説明的なものを見せず、その表現をなした監督の巧みな演出がとてもかっこいいシーンだったなあ。

 ここに、さかなの子はいた。
 人間であろうとしていたさかなの子は、いた。
 でも、さかなの子は怪物として、広い海に解き放たれたのだ。

 そこからのシーンは怪物にとって苦の連続だった。

 人々の心の中に入り込むが、持ち前の怪物性でことごとく失敗する。
 水族館、寿司屋、金持ち歯医者の水槽デザインの依頼、全てに敗北する。

 そして偶然出会い接しかけた、親兄弟とも違う「他者」との暮らし――小学校時代の同級生で子持ちのシングルマザーの女との邂逅。これはさかなクンの原作にないオリジナルの展開と聞く――それも、破綻し、関係が解消される。

 何もかも失った怪物は酔いどれ、居酒屋でカラフトシシャモを出す店員に「シシャモじゃない!」と八つ当たり、倒れ、シャッターにシシャモの絵を落書きするという器物損壊行為に至る。

 怪物はとうとう、人間社会になじめず、火を噴き、町を破壊してしまったのだ! ガオーと、切ない咆哮を聞いた気がしたぞ!

 その「破壊」と思われた「絵を描く」という行為が、怪物を忘れなかった人々によって昇華される。

「おれは、ミー坊の事をみんなに知ってほしいんだ」と語る小学校時代の親友のヒヨ。彼はミー坊をテレビの世界にいざなう。
 怪物になることもできず、この街で不良になりながら、破壊をすることもできず、その獣性はせいぜい自分の手をコンパスで刺して眠気を取るくらいしかできなかったつまらない、小さな男。
 そんな、怪物にあこがれた人間が、怪物を救う。
(※このあたり、「総長」というキャラと「ヒヨ」というキャラを混同してるっぽいけど、まあいいやって事にしてください。)

 しかし、おとぎ話のように、彼は怪物をキスで人間に戻すようなことはしない。
 怪物を怪物のままでいていい世界へ、彼は導くのである。
 だがそのあと、ミー坊のその居場所に、彼は決して立ち入らない。
 その、絶望的な距離感。

 劇冒頭、ミー坊は謎の屋敷で目をさまし、水槽のハコフグに歯磨きをさせる。
 おそらく同居している人は誰も居ない。
 クローゼットには、人間の服は一着もない。
 そこには怪物・魚人間としての、「さかなクン」の衣装が五着。
 朝起きてそれをまとい、起きてから一瞬のすきまもなく、魚怪人・ミー坊として、この世界に居る。
 あらためてその冒頭のシーンを思うに、ゾッとするところがある。
 ミー坊は一人だ。
 たった一人。どこまでも怪物は孤独で、縁や友情は感じても、怪物になり続ける以上、もう人には戻れない。
 あの五着しかないクローゼットの衣装から、「さかなクン」としての、そういう生き方を感じたんだよなあ。

 スーパー怖い。本当そう思った。怪物って、ほんとう、こえーって。そう思ったなあ。

 こうしてミー坊はたまたま、怪物として生きることが出来た。
 それはミー坊が幼少期に出会った「ギョギョおじさん」――現実のさかなクンが演じる!――とは対照的なことだ。

画像2

第三私の感想「ちんちんはどうでもよくない」

 
 そして第三の私。
 この映画を、両眼ではなく、肉体を捨てた精神体・概念・この世にあらぬ思念体として観た私の感想は、「男か女かはどっちでもいいが、ちんちんはどうでもよくならないよなあ」という事だった。

 映画で描かれたミー坊には、たぶん、ちんちんがない。概念としてない。
 それは女性ののんが演じてるから、だけではなく、もう、概念として、ミー坊にはないのだ。ちんちんが。もうそういう世界なのだ。その次元なのだ。

 映画の頭、そしてパンフレットの最初のページにもでかでかと、筆書きで示される。
「男か女かはどっちでもいい」
 この宣言。これはきっと、この映画を作るときの合言葉だったんだろう。
 事実、どっちでもいい。ミー坊の人生を描くことにおいて、男か女かはどっちでもいい。

 いや、でもだ。だからこそ。
 どっちでもいい、とされたからこそ、あえて俺、「ちんちんの不在」について、強く強く思ってしまったなあと。

 それは劇中に出てくる「ギョギョおじさん」の存在。いってみれば「さかなクン」のもう一つの可能性によって、さらに想ってしまう。

 ギョギョおじさんは、劇序盤で、街の変わり者として、子供に魚について話しかける変態として表現される人物。
 ギョギョおじさんに出会うと、子供たちは親指を隠す。喪なのだ。ゾンビであり、生きながらえる死者。

 そのギョギョおじさんの正体は「父母の莫大な財産を食いつぶしながら、子孫を作ることができなかった者」であることが語られる。
 そして、これはと思う子供を自分の巣に引き込み、ついには……魚の話をする。魚の絵を描くのである。

 ギョギョおじさんは、大人には話しかけない。子供に話しかける。
 魚の大好きな子供。まるで自分みたいな子どもたち。
 自分のような人間が増えて欲しいなあと。魚が好きな人が、一人でも、一人でもこの世界に、未来に、残そうと。
 まるでつめたく暗い水の流れに打たれながら、魚卵に精子をかけつづける、剝がれかけた鱗の光を纏った、全身傷だらけの魚のような性(サガ)を感じたんだよなあ。

 おそらく一度も正常にはつかわれていないだろうちんちんに突き動かされるように、ギョギョおじさんは必死にどしゃぶりの中、ミー坊に魚の話題で話しかける。
 これを逃したら、もう2度と、この世界に何かを遺せない。
 自分が好きだと思ったことも。
 自分が生きていたという証も。
 広い海に出ていくはずの、人間になれなかった一億の自分の性たちも。

 ちんちんは、どうでもよくならないと思った。この現実に生きている者としては。
 ミー坊にとってはどっちでもよいで済まされても、「ギョギョおじさん」……フィクションの世界ではなく、身体を伴って存在していた現実のさかなクンには、どうでもよくないちんちんがあった。

 そのちんちんの存在の強さが、劇中のギョギョおじさんの悲哀を左右していたと思った。
 男か女かはどうでもいい。
 でも、ちんちんは、どうでもよくあれない。
 あれないんだよなあ。

画像3

 後半、一瞬だけ、映画はその後のギョギョおじさんを映す。
 ミー坊が「さかなクン」として活躍するのを、ギョギョおじさんは漁港のどこかの小型テレビで目撃し、驚き、笑顔になるのである。

 そこには、怪物でありながら人として暮らし、働いて、生きていかなければならなくなった運命の交差点を感じた。

 怪物なのに人として暮らし、そのうえちんちんもつけて生きていかなくてはならないのだものなあ。
 そして、その「ちんちん付きの怪物」という存在に、私は深く、静かに、共感してしまったんだよなあ。

おわりに、あと、脚本家のハラスメント問題についても

 そんなこんなで、映画を見ました。すごくいい映画を初日近くに見て、感想を言う頃に上映が終わりそうになっている。

 すごくいい映画なので、ほんとう、みんな見てほしいなあとおもいます。
 そして、男か女はどうでもいいけど、ちんちんに思いを馳せながらみて見てはどうかなあと思いました。ちんちん。

 と、これで〆られないと思い、追記しました。
 というのは、脚本家のパワハラ・セクハラについての一連のやつ。
 そもそもこの映画を見る理由の一つに「面白い脚本家である」というのがあるわけで、これを無視していいのかどうか。簡単に「作品に罪はない」という話で過ごしていいわけではないだろうし。
 また、私も、「ちんちんで短歌を作っている人」であり、また普段は「ネット上で女性と出会おうとし、実際会って、セックスをしようと頼んでいる人」としてTwitterアカウントに投稿している人でもある。
 こうやって私自身、居直って、セクハラな存在であることは確かで、私が今この瞬間、ここにいるだけで嫌だ、つらい、死んでほしい、この世にいないでほしい、と思う人もいるという事もわかります。
 またそれに対して自分自身が、開き直り、謝り、申し訳ない顔をする以上の何かをしていないことも問題で、とても申し訳ない気持ちです。

 そういう自分が、セクハラをした脚本家を「面白いことに信頼がある」と、能天気に書いていいのか。

 考えた結果、「面白いと思ったことは確かで、見に行く理由、原因の一つになったことは正直に書こう」と思い、書き、訂正はしません。

 ですが、同時並行で、セクハラをやってはいけないし、その謝罪も的外れなのはよくない。脚本家の人はもっとよい謝り方をするまで、謝り続けるべきであると思います。そして僕もまた、セクシャルなアカウントを続けていく限り、気にし続けたい。

 わたしはこの世に存在しており、ちんちんがあり、ちんちんという言葉を入れ込んだ短歌を作り、ちんちん的な目線で映画を見たりし、その感想を書いたり、女性に出会ってほしい、会いたい、あって性的な事をしたいと、ツイッターに連呼する人で、そこには常に「申し訳ない」気持ちを持たなくてはいけないと思っていて、その都度、申し訳ない、ごめんなさい、と謝り続けます。

 セクハラをした脚本家のかかわった作品を面白いと思って、本当にすみませんでした。
 後でいろいろ知ったからと言って、見に行った事を肯定的に書いて、感想を言ってすみませんでした。
 これからも、セクハラした人の作品を褒めたり、面白いと思うと表明することを、「辛いと思う人がいて、嫌だと思う人がいる」という事をしっかり噛みしめながら、そして、ちゃんと何をどうした人なのかを知って、感想を言っていこうと思います。

サポート、という機能がついています。この機能は、単純に言えば、私にお金を下さるという機能です。もし、お金をあげたい、という方がいらしたら、どうかお金をください。使ったお金は、ちんちん短歌の印刷費に使用いたします。どうぞよろしくお願いします。