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ちんちんがさらに短歌の勉強をし、本を通じて静かに怒られた気がする春

 ちんちんであり、ちんちん短歌という不謹慎なものを作っている私の短歌の勉強は、いまのところまだ続いている。今度はこの本を読んだ。

『短歌の世界』(岡井隆 1995 岩波新書)

 こう、本を読んでるとたまに、「あ、この著者はなんか、信頼できるなあ」と思うことがある。
 この本でいうと、こういうところだ。

 現に知識層とくに、異国の文物に接する機会の多い人たちを見るがよい。その中の短歌作者は、戦争前とくらべて相対的に少なくなっているのである。(厳密な調査はおこなわれていないし、また、なかなか調査できない部分なのであるが。)

『短歌の世界』以降引用は全部同じ著書から

 この、()でくくられている部分の補足に、とても信頼できるなあと思った。「少なくなってきているのである」、という部分について、(これはあくまで主観で、調べたわけではありませんよ)と、カッコでちゃんと言ってくれている。
 ちゃんとしていると思った。
 主観は主観ですよと。そして自明かもしれないと思うところでも、読者が「そうなんだろうなあ」と思ってスルーしてしまいそうなところでも、重要な点で誤解なく伝えようとしているなと、著書のひと――岡井さんという、僕は知らなかったが後で検索をしたら短歌のすごくえらいっぽい人――は、やっているなあと思ったのでした。

 僕のような、「短歌を学ぼうとしているのに、岡井隆も知らなかったような人」に対して、ちゃんとこの人は丁寧に話をしている。自分自身の権威や偉さに安住しないで、「短歌なんて普通は誰も知らない」と思って書いているのが伝わってすごく、信頼できる。
 (特に「歌会」について詳しく書かれた章はとても親切にカッコが連続する。短歌の世界にとって「歌会」の様子なんて、自明すぎて当たり前のものなのだろうけど、僕のような「歌会に出たこともなければ一生参加しない」人を想定して、歌会の用語やルール、用語の読みで重要と思われる一つ一つに、丁寧な補足があったのが印象的だった)。

 というわけで短歌の偉い人であろう岡井隆さんによる、入門書。これを読んだ。そしてこれが一番、スタンダードな短歌の教科書なんだろうなあと思い、ようやく本当に勉強してる感がする。
 全25章。どこから読んでもいいですよ、という構成。そしてそのどれにも、短歌を考えたり、作ったりするうえで必要なことが書いてある、と思う。
 そしてそのどの章にも、なんというか……「すごく丁寧に、冷静に怒られている」感じがしたのだった。

いうまでもないが、ふつうの歌(ヴァース)が作ることができて、はじめて、軽い歌(ライト・ヴァース)がうまく作れるのであって、この逆ではない。このことは、いくら強調しても、しすぎではない。

わたしは短歌が好きだが、歌人という人種が時に嫌いになるのは、かれらの中に、日本語をみにくく使っている人が混じっているからである。

 なんら特権をも持たない者。国文学についてなんら専門的知識を持たない者。それでいて、古典歌人に対しても近代歌人に対しても、ひとしく短歌詩形をつかう創作家として、同一平面で相対してこれを眺め、これを評価する者。身近な物象を歌い、身辺の思想をあらわすのに、あたかも使いなれた道具をつかうように短歌をつかって言い表そうとする者。
 わたしたちがそのような者となることができるなら、その時短歌はまさに正面から民衆と出遭ったといえるだろう。

 引用の一つ一つ、この、ちゃんとした先生に怒られている感じ。
 勉強とは、怒られのことだったのかもなあとふと思った。

 ちんちん短歌を作っていて、怒られたことはない。
 時に静かにブロックされたり、ミュートされたりして、柔らかい拒絶にあったことならある。
 一回も怒られもしないで、物事は習得できるのだろうか。
 「やーやっぱ、ぶん殴られないと鉄棒とかうまくならないですよねー、短歌もおんなじ感じですかねえー」みたいなパワハラおじさんみたいなことを思うわけではない。

 ただ、この岡井さんという、ネットの検索と本の中でしか知らない人だけど、ちんちんちんちん、セックスセックスーとへらへら笑っていた私は、初めて静かに、怒られた感じがした。
 怒られて、それで少し態度を変えた。この本を読んだ後、僕はツイッターのプロフィール欄に「短歌をつかって女性と出会ってセックスがしたいです」という一文を削った。

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 短歌の世界に足をわずかに踏み入れて、その批評の文を目にすることになって、オヤと思うことの一つに、「短歌の人、特に短歌のおじいさんは、やたら戦争について言及するなあ」と思った。勉強しようと思って、ぱらぱらと何冊か短歌の雑誌(『短歌研究』とか)を読んでそう思ったのだった。

 戦争――特に1945年にいったん終わった、日本がまけた戦争について。もちろん短歌のみならずあらゆる領域の文学、創作物は語るだろうけど、でも、たいていは、そんなに毎回しつこくは、考えたり思い返したりしない。

 短歌のおじいさんたちは、よく戦争についてずっと考えたり、言ったりしてる。この本にも、丸々一章、戦争について語る章がある。

23・これから戦争はどう歌われるか

 こういう章立てがあるということは、これまでも短歌の人たちの中では、戦争については歌い続けられてきて、それが途切れることはなかったのだろう。

 こんなこと……小説ではどうか。漫画では。演劇ではどうだろう。たしかに扱われないこともないが、そんな毎回、戦争が扱われ続けているってことはないっすよね。
 だけど、こと短歌……「主におじいさんがやってる文学っぽい短歌」の領域の人たちは、絶えず戦争について言及してる気がしていた。それはなぜなのか。

 この本の書かれた1995年は自衛隊のPKO派兵がさかんに話題になっていた。岡井さんという短歌の偉い人は、そのことに、静かに、だけど、すごく、怒っている。

 短歌は、戦争に関して、なにかやらかしてしまったんだろうか。

 私は短歌史についてほぼ全く知らない。大卒なのに、無職で引きこもりで宰我のように昼間から女ばかり抱いているせいもあって、ろくに歴史も知ろうともしていない。中学時代は小林よしのりの戦争についての漫画を読んでたくらい、知らない。

 この短歌と戦争の距離。
 ほかのジャンルではありえないほどナイーブな反応は何なのだろう。それは、この本のこの章だけ読んでもまだイメージはつかない。つかないが、どうも何か、短歌というジャンル全体で、戦争に関して、人々の感情とか心や魂に、なにかやらかしてしまった過去があるんじゃないか。

 短歌のおじいさんたちは、そこにものすごい、怒りと、嘆きと、後悔と、悲しみと、そして次こそは、次こそは、言葉の力で戦争を止めなくてはならないと、本気で思っているような感じがする。
 それは、小説や演劇、漫画といったほかの芸術ジャンルでは見られない必死さだ。

 もし、仮に僕が、ちんちんじゃない短歌を作ろうと思い、これ以上「短歌の世界」に近づくとしたら、戦争に対してどう考えているか、問われるのではなかろうか。

 戦争をやめよう、という、小学生みたいな夢想に、冷笑せず、本気の、本気で、言葉を使って命がけで短歌に取り組めるような、文学の徒でいられるかどうか。

 ウクライナとロシアで戦争が起きているさなか、ちんちんで短歌を作ろうとしているような、とるに足らない存在のはずの僕に、岡井さんという静かに怖いおじいさんが、短歌の入門書を通じて、こっちを見ている。

 丁寧に、カッコをつけて補足され、一章一章、ちゃんとわからせようとしている。

征くといふ思ひを持たぬ兵が行き酒冷えて国も冷ゆるこのごろ

岡井隆

 これだけ言っても、まだ戦争について、あなた自身の問題にならないのですか、とでもいうような感じ。

 とても、怒られたなあと、ここでも思ったのでした。



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