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深夜テンションで書いた私の死生観の話

お久しぶりです。すみとゆきです。1月から始めたこのnoteですが、1ヶ月に1度の更新ペースになっていますね。3日に1度でもと思っていましたが、継続とはなかなか難しいものです。
気づけば4月。2022年の3分の1が終わってしまいました。やりたいことに対して体力や気力が追いつかずに4月が終わろうとしているからか、出会いや始まりの季節だというのに、なんだかすでに喪失感に襲われています。

さて、このnoteを書いているのは深夜2時半。
騒がしい雨音のせいで寝つけず、久しぶりにnoteを更新しようと思い、キーボードを叩いています。雨の日って、気持ちが落ち込んだり体調が悪くなったりして苦手なんですよね。というわけで、今日はちょっと暗い話になってしまうんですが、私の「死生観」の話でもしようと思います。




「生きる」ということ

皆さんは「生きること」に対してどのような考えをお持ちでしょうか?
私は、生きることは辛くも楽しいと考えています。月並みな表現ですが、生きていて楽しいことばかりではありません。なんなら、辛いことのほうが多いようにすら思います。人によってはその辛さに耐えられず、体を軽くするための手段をとる人もいるでしょう。死に救いを求めたり道徳から外れた行いに手を染めたりして、辛い気持ちから逃れようとする人がいるのは事実です。
実際に私も自分の許容量を超えるほどの辛さに押しつぶされたことがあるので、そういった行いをする人たちの気持ちには共感を覚えます。「正しい」「悪い」なんて理屈ではなく、とにかく楽になりたくてそんな手段に出るときがあるんですよね。
生きることがとにかく楽しくて、死ぬことなんてみじんも考えない人たちが世の中にはたくさんいるのだと思うと、なんだか違う生命体を見ている気持ちになります。きっと、周囲の環境が良く本人もひねくれることなく育ってこれたから、生きることに前向きなんでしょうね。縁がない生き方なので、見当違いの考えだったらすみません。


「死ぬ」ということ

「生きること」に対する考えがはっきりすると、おのずと「死ぬこと」が自分にとってどのような立ち位置にあるのかがはっきりしてきます。「死は救い」だと考える人もいれば「死ぬのは怖い」「できるだけ長生きしたい」と思う人もいるのです。「死ぬことよりも生きることが辛い」と感じる人もいるでしょう。

私は「生きなければならない」という半ば強迫観念めいた感情で日々を生きています。私にとって、死はおそらく人生最大の幸福です。
終わりの見えないマラソンコースに現れた、ゴールテープのような存在です。だからこそ、私はより充実した人生を過ごして、「死を迎えるに値する人間」にならなければなりません。十分な努力をしていないにもかかわらず、人生最大の幸福を手に入れるわけにはいかないのです。

私は私が生きている間にやりたいことが山ほどあります。自分ができることよりもやりたいことのほうが多く、年々その対象が増えていくので、すべてをやり切ったといえる日は一生来ないでしょう。ですが、できる限り人生を謳歌して「やれることはやった」と思って死にたいのです。せっかく人生最大の幸福を得るのに、悲しい気持ちや悔しい気持ちで終わらせたくないのです。
もちろん、多少の後悔や心残りは生まれるでしょう。それでも、人に胸を張って「私は私の人生を生き抜いた」といえる有終の美を飾りたいのです。

人間に限らず、命あるものはいつ死ぬかわかりません。明日どころか、1秒後だって生きている保証なんてありません。だからやりたいことをきちんとやって、自分が納得できるような生き方をして、1日を終えたいと日々考えています。
まあ、何にもやる気が起きなくて1日を無駄にしてしまうこともありますが!!毎日気を張って生きていられるほどストイックな性格ではないので、それも良いかとゆるく生活しています。頑張りすぎた結果、精神を病んで正常な判断能力を失って今世をあきらめてしまう……なんてことにはしたくないですし。

当分の間は、私より先に旅立っていった親戚や友人、飼い猫たちにも胸を張れるように自らの生を全うする予定です。ただ、万が一の可能性もあるので、それまでの間にできるだけ私が生きた証をnoteに少しでも残せたら良いですね!


さて、なんとなく眠気に襲われ始めたので今日はこのあたりで失礼します。いわゆる深夜テンションで書き始めた文章で推敲もしてないので、恥ずかしくなったら消すかもしれません。ここまでお読みいただきありがとうございます。それでは。


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