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I'm 汀艷 / 나는 정염이다 / 我是汀艳 2024年5月

メトロセクシャル

「私は田舎の汚いオッサンにはなりたくない。」
これは昔、東京の西の田舎にいたとにかくみすぼらしい子供時代の私が胸に秘めていた思いでございます。本名名義では「音に綺羅錦繍を視る」というのが主要なテーマであるぐらい、音楽そのものにもファッション性が欠かせない作曲家をやらせていただいておりますが、描いている本人がお洒落を楽しめるようになったのは、ここ数年の話でございます。当時は、教育方針で丸坊主(そうそう、まだ地毛があったんですよ。)でございましたし、数百円の縫製も粗末なダサい服をヘビーローテーションでつんつるてんになるまで着ておりました。良いのか悪いのか、私はそんなに成長する方ではごさいませんでしたので、物持ちは昔から良かったです。 (昔はGUなんてありませんでしたし、UNI●L●も高過ぎて成人になるまで買えませんでした。) 靴は店内ではなく店先で叩き売られている得体の知れないメーカーの800円程度のスニーカーを買っていました。それも爪先や靴底が分裂するまで大事に履いておりました。いわゆる貧困世帯でございました。まあ問題の殆どは、私を形成するのに50%必要不可欠だった人と、そっち方の親戚に原因があったのですけれど。私は優しい祖母と数名と無害な親戚を除いて、あの人達が本当に嫌いです。あの人達の会話は、とにかく下品を通り越して、品もへったくれもない内容ばかりだったと子供ながらに感じておりました。私も散々、価値観の相違から罵詈雑言を浴びましたし、語るに及ばぬ嫌がらせも多々ありまして、私は田舎の古い考えのこんな小汚ない野蛮な大人には決してなるまいと心に決めたわけでございます。ノンバイナリーの私がメトロセクシャルを名乗るのは少し定義から外れるのかも知れません。(美意識の高い男性を指す言葉で、現代では美意識を持つ男性は別に奇異でもありませんし、もはや死語でしょうね。) 私は美意識だけは高かったのです。それを叶えることは何もできませんでしたが。

他人事の青春

汎発性脱毛症によって多感な時期にハゲ散らかしてしまった私は、勿論と言ってしまうのは悲しいけれど、青春なんて他人事でした。(マイルドな表現にしますが、)学校では散々からかわれましたし、家は「虐められる側が悪い!」という方針でございましたので、(今の私を守るためのプロテクトでしょうか、殆ど覚えておりません。) なんとかやり過ごしておりました。最初から自虐的に振る舞ったり等々。辛かったのは偏見を持たずに接してくれた少数の人まで私のせいでからかわれてしまったこと。見た目もみすぼらしい、面白いことも言えない、流行りの話題もわからない奴が、青春の一頁に邪魔だったのなら、私だけ排除すれば良かったのに愚かな人達…

綺麗も可愛いも作れる

大人になってしばらくした頃、ようやく私は気が付きました。私は絶望的な外見ではないということに。確かに、何もしないデフォルトは誉められたものではございません。私を苦しめた人がいなくなって、私は自由を手に入れて、音楽もお洒落も興味のある言語も何もかも束縛されなくなって、やっと自分のコンプレックスの数々と向き合えました。ウィッグやメイク、それから安くても自分に似合う素敵な服を少しずつ揃えて、自分らしいファッションを楽しめるようになって、綺麗も可愛いもある程度までなら作れるということを知りました。そこからの巻き返しは早かったです。

ノンバイナリーと言えど

ノンバイナリーと言えど、私は残念ながら中性的で美しい容姿ではありません。自分は汚いオッサンなのだと、痛感する出来事が幾度もございました。はじめは高校時代。結局、私が悪いのでしょうけど「●●(私)に付きまとわれているせいで、学業に支障が出て困っている。」と、その子と特別親しかったわけでもないのに、いつの間にか相談されていたようで、呼び出しをくらってしまったこともございました。瞬時に察しました。私と口をきいてからかわれて嫌な思いをしたのは事実なのでしょう。でも、付きまといなんて事実無根!(そもそも私、男性が好きだし…) それでも、みんなから嫌われている、薄汚れてて気持ち悪い男子の訴えなんて何の意味もありませんでした。同じ部活の人達も日中は極力関わらないように努めましたし、(学校では話しかけるなというお達しも数件ございましたし。) それ以来、特に初対面の女性と関わる時は、「こいつに好意を抱かれたらどうしよう…」なんて不要な心配をさせないように、とにかく人畜無害であること、普通に仲良くしても大丈夫であることをわかってもらう努力は欠かせません。私の場合、大雑把な括りとしてはゲイでもあるので、勿論、初対面の男性(特にヘテロ)へも配慮も欠かさないようにしております。醜くても立ち振舞いを美しくすることは出来ますので、少しでも不快に思われる要因を減らすことに神経を使ってきたのは、今でも根底にメトロセクシャルの私がいるからでしょうか。美しさを求め続けるのは、苦行でありながら私のライフワークのパーツになっております。

ルッキズムなんて

結局のところ、私はルッキズムにまつわる問題から解放されてはいないのでしょう。でも、克服はしました。自分の見た目は夢を諦める口実にはならないのです。「美」は追い続けるものです。ストックもできません。今となっては、私を見た目で間引いた人達と、お友達にならなくて良かったとすら思えます。最近、本当に思いきりました。私だけが割りを食い続けないと関係がたじろいでしまう人達を断捨離しました。信じられないくらい好調になりました。
いつか、私は誰かの大切な何かになりたいです。
例えば「一緒に歩いても恥ずかしくない友達」なんて素敵ですね。
「自慢の友達」なんてのも素敵ですね。
高望みはしません。期待もしません。でも、もう私は「罰ゲームでメアド聞かれる奴」も「罰ゲームで告白される奴」も卒業しました。

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