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μ'sという伝説、理想のアイドル像とは

 はじめに

  μ'sというアイドルを知っているでしょうか。μ'sは『ラブライブ! School idol project』からメディアミックス作品として、2010年にファーストシングル「僕らのLIVE君とのLIFE」でデビューを果たした架空のアイドルグループです。このプロジェクトは2013年にアニメ一期、2014年にアニメ二期、2015年に映画が公開されアニメとしては終わり、2016年に声優たちが歌って踊るライブで一つの区切りを迎えたプロジェクトでした。
  μ'sという概念を語る上で、アニメで描かれるキャラクターとライブで歌って踊る声優の相関性は避けて通れないのですが、本稿はアニメの中におけるμ'sが理想のアイドルの一例だ、という指摘をしたいため、本稿に登場するμ'sという概念はアニメの中のμ'sに限定して議論を進めたいと思います。

  そもそも、理想のアイドル像ってなんだよとツッコまれる方もいらっしゃると思いますが、そのツッコミはもっともです。というのは、そもそも理想のアイドルなんてものは人によって全く異なっていて、理想のアイドルなんてものはただの各人の願望でしかないからです。しかし、アイドル特有の存在意義という観点から考えれば、それはなんとなくは語ることが出来るのではないでしょうか。本稿は、そんな思いつきから出発しています。

アイドル特有の存在意義とは

 一般的に流布しているアイドルとは一体どのような存在でしょうか。wikiを参照すれば、

 アイドルは、英語の「idol」(偶像。崇拝される人や物)から転じ、現在では「恋愛感情を持つ熱狂的なファンが売り上げのメイン層を占めている歌手、俳優、タレント」などをいう。
  「アイドル」である場合は熱狂的ファンからは、女性アイドルには処女性、男性アイドルには「性的接触者が居ない」という理想像を概ね持たれている。そのため、本人の意図を問わず「アイドル」である場合は、熱愛など異性との性的接触系のスキャンダル発覚または既婚や結婚との報道後に売上が激減し、商品価値がなくなる場合がある。

WIkipedia「アイドル」 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アイドル

と記述されており、まとめると、ジェンダー的側面の理想を有している存在であり、その理想を請け負う存在がアイドルであると認知されていると言えるでしょう。しかし、このような理想を請け負うのはアイドルだけなのでしょうか、またはアイドルはこのような理想を請け負っていると言えるのでしょうか。例えば、俳優に熱愛が発覚してファンが減少するということは少なくないでしょう。また、2000年代のほしのあきや恵比寿マスカッツに代表されるようにグラビアやAVをやっている女性がアイドル売りをするという現象も起こっていて、単にジェンダー的側面の理想を有している存在であるとは言えないでしょう。つまり、ジェンダー的側面の理想を請け負うことはアイドル特有の存在意義ではないです。

  では、アイドル特有の存在意義とは何なのでしょうか。筆者は、この存在意義をライブに求めたいと思います。そこで、筆者は生粋のアイドルオタクという訳ではないので、アイドルオタクが書いた記事の一文を参照したいと思います。

  彼女たちのまわりにはたくさんの人たちがいる。汗をかいて、歌やダンスに磨きをかける瞬間を見守るスタッフ。彼女たちの幸せを願い、共に成長していくことを覚悟したファン。彼女たちを本気で後押ししたいと願うメディアの人間など、時に苦しみを味わいながらも、今日も明日も、目をキラキラさせて彼女たちの活躍を心から願っている。

ダ・ヴィンチWeb「アイドル特集【総論】 改めての素朴な疑問「アイドルとは何か?」」https://ddnavi.com/tokushu/232986/a/

  彼ら、彼女らはファン(スタッフ、メディアを含む)の期待を背負って日々レッスンに励み、ステージに立ち、ライブで成長した姿を見せることで、私たちに理想を見せています。そして、ファンは応援する中で彼ら、彼女らに理想を見出すことで、自分たちも成長したいと願っているのです。これはフロイトの唱えた「同一視」というプロセスです。同一視とは、親など重要他者のようになりたいと思い、同じようにふるまったり、その内面を内在化したりすることです。つまり、ファンはアイドルが頑張る姿を、理想を叶える姿を内在化させることで日々の活力にしているのです。
  しかし、この時、アイドルは一方的にそのような理想を見出されているのではなく、ファンにも理想を見出しているのではないでしょうか。つまり、ライブで成長した姿を見せることでファンの日々の活力になりたいと願い、ファンが日々頑張る姿をアイドルも内在化させているのではないでしょうか。実際に、当時アイドル候補生だった方々がインタビューでこのようなことを述べています。

「落ち込んだり、楽しい時、私のことを思い出して元気になる人になりたいと思ったんです」(山本日菜子)

「自分は『アイドルっぽくない』と言われるんです。中間発表で2位に選ばれた時にもどよめきが起きたくらい。『っぽくない人』が、アイドルになったら、きっと誰かの一歩になる気がして」(水無瀬ゆき)

「15歳の時に進路を考えて。その時に、色んな人に輝きを与える人になりたいなと思って、アイドルになろうと決めました」(白崎乃愛)

BuzzFeed「アイドルを5年間続けてわかった「理想と現実」」https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/yumead

  要するに、この理想は一方的なものではなく、相互的なものであり、循環しているのです。相互的な応援と言い換えてもよいかもしれません。故に、アイドル文化にはコール&レスポンスというものが根付いているのではないでしょうか。
  以上を踏まえて、なぜアイドルという概念が生まれたのかということを考えてみるとそこには何があるのでしょうか。筆者は、そこには一歩を踏み出す勇気を持てない時、誰かに応援され、背中を押してもらいたいと願う人々の切なる思いがあったのではないかと考えます。つまり、アイドルはそんな人々の願いによって生み出されたと言えます。このことから、理想のアイドル像とは、アイドルとファンの関係性が相互的であり、循環していることだと言えるでしょう。

  筆者の好きなタイトルで、『Tokyo7thシスターズ』というアプリゲームがあります。このタイトルは、“アイドル氷河期”と呼ばれる西暦2034年を舞台にすることでアイドルの存在意義をリアルに描き出そうとした作品です。そんな作品のテーマは、「だれかの背中を押すために」というものであり、正にこれは先述のアイドル生まれてきた理由であり、アイドルがアイドルたる所以を上手く表現しているテーマであると言えます。

  まとめます。アイドルは一般的にはジェンダー的な側面の理想を請け負うために存在していると考えられています。しかし、このような理想はアイドルだけが持っているわけではなく、またはアイドルは時にそれを持っていないため、この理想はアイドル特有の存在意義とは言えません。では、アイドル特有の存在意義とは一体何か。それは、アイドルが成長という理想をライブで体現することでファンも成長したいと感じ、アイドルは同時にそれを活力としているという「循環」にあります。そして、それこそは、アイドルが生まれてきた理由であり、アイドルの理想像であるということです。


μ'sというアイドルは理想のアイドル(?)

  ではなぜ、μ'sはそんなアイドルの理想像に近いと筆者は考えているのでしょうか。それには、大きく三つの理由が存在しています。一つ目は循環が明らかに起こっていたということ。二つ目は成長が透明化されていたということ。三つ目はアイドルの成長が私物化されなかったということです。どういうことでしょうか。

   一つ目の循環が明らかに起こっていたは、ファンとアイドルの関係性を音ノ木坂の生徒とμ'sの関係性に、アイドルとファンの成長を学校の存続に置き換えて描くことで可視化していたということです。
  μ'sは学校を存続させるという理想のために動き始めました。最初は、講堂の0人ライブからも分かるように学校の存続という理想は、生徒に対して一方的にμ'sから与えられるものでした。しかし、μ'sが存続に向け頑張る中で音ノ木坂の生徒は、その理想を内在化させ、自分たちもその理想に向かっていくようになりました。また、その中で、μ'sは音ノ木坂の生徒の理想に感化されていました。その象徴的なシーンとして、二期の9話で、最終予選の当日、雪の影響で交通機関が麻痺してしまったことから二年生が会場に走っていくシーンで、道の雪を音ノ木坂の生徒が掻いてくれるシーンがあったと思います。このようなシーンは文字通り、循環が可視化されており、アイドルがアイドルたる所以が現れていたと思います。

  二つ目の成長が透明化されていたは、現実のアイドルであると分かり難い成長が、作品内の様々なシーンで困難に立ち向かう様子が描かれることで成長が見えやすくなっていたということです。(先ほど、音ノ木坂の生徒とμ'sの関係性をファンとアイドルの関係性に置き換えたため、ややこしいことになってしまっていましたが、この時の循環としては、視聴者(ファン)とμ'sの関係性を想定しています。)
  先述の通り、成長というのは本来かなり見えにくいものです。ダンスが上手くなった、歌が上手くなったというのはある程度分かり易いものかもしれませんが、一定のレベルを超えるとその成長も分かり難くなります。そもそもの問題ですが、ファンはそのようなパフォーマンスの向上に成長という理想を見出している訳ではなく、人間的な成長に理想を見出しているのであり、それは目に見えるものではありません。しかし、μ'sのような作品内で描かれるアイドルは、本来ファンが立ち会うことの出来ない、困難に立ち向かい乗り越える場面をファンに見せることが出来るため比較的、成長が透明化されている状態にあります。故に、その成長を自分の中に内在化し易い存在になっていて、現実のアイドルよりファンの活力になり易い存在であったと言えます。

  三つ目のアイドルの成長が私物化されなかったに移ります。μ'sは、学校の存続のため、「だれかの背中を押すために」という、目的のために生まれました。そのため、μ'sの成長は、学校の存続と繁栄のためにありました。そして、μ'sは三年生の卒業のタイミングで解散しました。つまり、その成長は私物化されることなく、終わりを迎え、最初から最後までアイドル特有の存在意義を果たしていました。
  先ほどの章で、筆者はアイドルはファンの気持ちに応えるために成長するという書き方をしました。しかし、実際にそのような気持ちでレッスンに取り組んでいるアイドルがどれだけいるのでしょうか。「誰かの背中を押すために」を体現出来ているアイドルがどれだけいるのでしょうか。実際、顔が優れているから、持て囃されたいから、たまたまネットで人気が出たから、そのような理由でアイドル始める人は少なくありませんし、マーケットとして利用されている以上、それは仕方のないことだと言えます。しかし、アイドルはファンの願いによってアイドルたりえているため、アイドルになった以上その願いに応える義務があるように思います。にも関わらず、アイドルの中にはアイドルを土台としか見ていない人も多くいます。筆者は、このような状況を「アイドルの成長の私物化」というアイドルの良くない例として定義しています。
  一方で、生身の人間である以上、他者より自分の優先順位が高くなることは自然であり、この私物化は当然の状況であるとも言えます。つまり、本来は純粋にアイドルの理想が誰かのためであり、またその理想が還元されるという循環は現実では成立し得ないのです。故に、μ'sは一年という期間で、現実ではなく、アニメの中で循環を疑似的に達成させることで理想のアイドルを実現させていたのだと考えます。

  以上の点から、μ'sは理想のアイドル像なのだと筆者は考えています。しかし、以上で終わると、読者にこのような指摘がされることでしょう。アイドルはファンとの循環がアイドル特有の存在意義なのに、μ'sは音ノ木坂の生徒との循環であり、厳格にはファンとではないじゃないかと。また、視聴者とμ'sの関係性では、同じ時間軸に存在していないため、循環することは不可能なんじゃないかと。ここで筆者はその指摘にこう答えようと思います。その通りであると。そして、次にこう付け足したいと思います。アイドルは「idol」の文字通り、虚像なのであり、作られたイメージでしかなく、実際には存在できないのだと。先述の通り、アイドルの成長はどうしようもなく、私物化されてしまうものです。そして、この成長がひとたび私物化されてしまえば、私たちの応援は一方的なものになり、いつしか理想を見せてくれなくなったアイドルからファンは目を覚まします。そして、アイドルは存在していなかったことに気付くことしか出来ません。
  このことから、筆者はアイドルという理想は最初から破綻しており、アイドルは存在できないのだと結論付けます。そのため、ラブライブはアニメの中でアイドルとファンの関係性を比喩的に描くことでなんとか理想を実現させていたのではないしょうか。

  しかし、μ'sを『ラブライブ! School idol project』というコンテンツの一環として捉えた時、μ'sはテーマ通り、「みんなで叶える物語」であり、これはアイドルの循環が達せられていた場所であったのではないのか、という考察もできます。しかし、これはアイドルという枠組みから外れるものになりますので、今回はこれ以上触れないでおこうと思います。


おわりに

  十年ぶりにラブライブを見たことから、改めてμ'sにドはまりしてしまい、なぜこんなにμ'sが魅力的に見えてしまうのかと疑問に思いはじめました。そして、以前からアイドルという存在に疑問を感じていたことも重なり、本稿を書き始めました。アイドルオタクでもない自分がこんなことを語ってよいのだろうか、という葛藤はありましたが、循環の中に居ない自分だからこそ理想のアイドル像を語ることが出来るのかもしれないと思い、現在に至ります。故に、循環の中に居る方々にとっては、違和感の残る内容でもあったかもしれません。なので、思う所があればコメントしていただけると助かります。今後、自分がアイドルについて語ることがあるかは分かりませんが。兎にも角にも、結構な分量にも関わらず拙い文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。

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