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好奇心を後押ししてくれる場所

子どもの足で、家から歩いて10分。

初めて父に連れて行ってもらってから、毎週のように通った。子ども向けが1階、一般書と専門書が2階。入ってすぐの受付で「じゃあね」と手を振り、棚へと走る。

図書館はわたしの「好奇心」がぜんぶ詰まっている場所だった。

インターネットなんて言葉も知らなかった子どものころ、わたしの「なんで?」にいちばん丁寧に答えてくれたのは本だった。親には、わからないことはまず自分で調べてごらんと言われていたので、メモ帳に「気になることリスト」を作った。

「花言葉ってなに」
「星座ってなに」
「なぞなぞってどこから生まれたの」
「火ってどうやって起こすの」
「ヨーロッパってどこにあるの」

たくさん集まった「なんで?」を持って図書館に行く。いちばん教えてくれそうな本を選んでは、その場に座り込んで本を開く。見ていくうちにほかのこともどんどん気になっていく。隣の本のタイトルも気になる。いま生まれたばかりの「なんで?」には隣の棚の本が教えてくれそう。

とめどなく読み漁っていく。わからないことがわかるのは楽しい。わからないことが生まれるのはとてつもなく「わくわく」する。

わたしの「なんで?」はひたすらに生まれ続けて、そのたびに「わくわく」に変わっていく。少し大人になってそれが「好奇心」という名前と知って、さらに育っていった。

すくすくと育った好奇心は大人になっても変わらなかった。今でこそ、実家を離れて生活しているけれど、引越し先の絶対条件は「図書館に徒歩で行けること」だった。

インターネットという最強ツールを装備したいまは、さすがにちょっとしたことならさくっと検索して済ませる。それでも、どうしてもすごく知りたいことができると、図書館へと足を運んだ。

気になる大きなトピックに関連する本をがさりと集めては、席を確保して精査する。これが良さそうと絞り込んだ5冊ほどを借りて家でじっくり読む。ひと通り満足すると、また図書館に行く。今度は、前に行ったときになかった本が返却されてより詳しくわかるかもしれないし、大抵違う角度から調べてみたくなるからだ。

一度気になるといてもたってもいられなくなってしまうわたしは、次から次へと手に取ってどんどん読む。読むことで、好奇心が満たされてゆくのが本当に幸せだ。

満たされた好奇心は、読み切った本を返却することで昇華されるような気がする。借りて読んで、満足して、返却してすっきりさせる。この一連の流れができることが、図書館の何よりもすきなところだ。

人に聞いても限りがあるし、インターネットの世界は正直あまり信用しきれていない。でも、書籍なら(古いものももちろんあるけど)大切な情報がぎゅっと詰まっている。

それを何冊も何冊も集めて「ここにある本、全部読んでいいですよ」って両手を広げてくれている図書館ってすごい。なんてありがたいんだろう。でも当たり前のようにそばにありすぎて、ぜんぜんわかってなかった。

なんだか嫌な予感はしていたけれど、ついに4月のはじめ、最寄りの図書館が休館になってしまった。ほとんど記憶にあるなかで生まれて初めて、わたしは月に一度も図書館に行かない経験をした。

そのあいだに新しい本を読まないという選択肢はなく、ネット書店を大いに利用した。ここ2ヶ月ほどで30冊以上は買ったと思う。もちろん読みたいと思った本だし、手元に置いておきたいと、かねがね望んでいた本が揃ったのだから本棚は潤う。だいすきな書店や作家さんに、ささやかながらお礼ができるのだから、これはこれでとっても幸せだ。

でも欲しい一冊を買うネット書店は、図書館のように「好奇心の後押し」をしてくれるわけではなかった。同じ本を扱っていても、書店と図書館とはわたしのなかで違う存在だったんだと、このとき初めて気がついた。

わたしの「好奇心」は一冊の本だけから得る“答え”がほしいのではなくて、何冊ものなかから自分だけが納得する“考えを見つける”ことで満足されていたんだと思う。

欲しい本を購入することや、偶然の出合いを本屋さんに求めることはもちろんできるけど、図書館が担ってくれていた「好奇心を満たす」ことを本屋さんに求めるのはちょっと違うみたいだった。

図書館に行けないことで、わたしの好奇心は窮屈に閉じこめられていた。わたしにとって好奇心のままに本を手に取っては読める場所があることは、とても心をゆたかに、安らかにさせてくれるものなのだと改めて思う。

6月に入り、わたしの住んでいる街の図書館は予約本に限り、貸し出し業務を再開した。

前と同じように歩きながらあれこれと探すことはできないけれど、それでも「なんで?」に対して優しく後押ししてくれる大切な場所が、戻ってきてくれて心の底からほっとしている。

もっともっと新しい世界を知るために本を買いたいなあと思ってます。