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記憶を繋いでくれる出合い

少し前まで読んだ本のことをたくさんnoteに書いていた。

わたしの頭の中はけっこうなポンコツで、楽しかったことも、悲しかったことも、怒ったこともすぐに忘れてしまう。

国内も海外も随分旅をしたけれど、それだって今となってはどれもが遠くて、特別印象的だったことはかろうじて覚えているものの、それがどこの場所でどんな風に起きたのかきちんと覚えているものはほとんどない。

忘れっぽいから旅に出るのだろうなとも思う。きっとそれが“非日常”であればあるほど、鮮明に覚えておけるから。

物語をたくさん読むのも、自分が物理的に旅に行くより、ずっとずっと簡単で気軽に違う世界へ飛び込むことができるからなんだろうと思う。

それなのに読んだ本のことをどんどん忘れてしまうのが悲しかった。大人になって、「本がすき」ということを公言できるようになったけど、だからといってどれがおすすめ?と聞かれてもうまく答えられなかった。

気になったものをかたっぱしから手に取っては読んでいくものだから、図書館へ返却してしまうともうわからなくなってしまう。読んだときはきちんと一緒に憤ったり、嬉しくなったり、戦ったり、ひもじくなったりするのに、ぱたんと背表紙を閉じて少しの余韻に浸ったあとは、もうそこでさよならなのだ。

自分で記録をつければいいとわかっていても、すぐに違う本を……と手を伸ばしてしまうのでなかなか続かない。

もっともっと読んだ本のことをきちんと覚えておきたいのに、と思ってnoteを書くことにした。noteはわたしの備忘録としては十分すぎるくらいの場所で、そこでつらつらと読んだ感想を書いていくのは楽しかった。

読み返せば、そのとき読んだ感想が稚拙ながらも綴られていて「こんな本をこういうときに読んでいたのね」と他人事のように感心する。

自分の記憶をきちんと留めておけるってすごいなあと思うようになってからは、今まであまり興味のなかったエッセイも読むようになった。

エッセイは物語よりももっとわたしと地続きで繋がっていて、わたしの感覚と作家さんの感覚の違いを比べられる。なんとなくの言語化をしてもらえることもあってすっきりできるのも良い。

とはいえ物語を通してしか知らなかった作家さんのエッセイを読むのは、頭の中を覗いているようで少しだけ恥ずかしい。全く印象が変わった人もいるし、もっとすきになった人もいる。

そのなかでも江國香織さんのエッセイは、物語通りの雰囲気そのままの、江國さん自身が登場人物の一人かのような不思議な印象を受けた。

江國香織さんのことはかなり独特な色のある作家さんだと思っていて、わたしは恋愛小説はあまり好まないのだけど「江國香織は江國香織だからいいのだ」と思って、たまに無性に読みたくなる。

だから、その「江國香織の世界」がそのままに詰め込まれたエッセイは“無性に”のときに最適なのだ。

なかでもお気に入りなのは2冊。日常にあるさりげないモノについて書かれた『とるにたらないものもの』と、食べ物についてのみ書かれた『やわらかなレタス』は、一つひとつが短く、読みやすいにも関わらず、あっというまに世界へと連れて行ってくれる。

どちらももう何度も読んでいるお気に入りのエッセイだ。わたしの毎日にも登場するものについて、書かれているのを読むたびに「そういえばわたしはああだったかも」とつなぎ止めてくれるような気がする。

『やわらかなレタス』のなかにある『コールドミートのこと』は特にお気に入りの章だ。江國さんの好きな食べ物のなかにハムやローストビーフ、コンビーフにスモークした牛タンなどがある。その理由についての話だ。

コールドミートには、なんていうか、旧い友達のような心やすさがある。だからつい、気をゆるしてしまう。いつたべても大丈夫。満腹になったり、苦しくなったりはしない。さらにすばらしいのは、コールドミートの冷淡さというかそっけなさ、礼儀正しさで、旧い友達ではあっても過剰に親しげな顔をしないところだ。なれなれしくないし、うっとうしくない。

食べものに対して、こんな風に親しみをもつことなんてなかったけれど、冷たいハムやそのままでも食べられるソーセージをちょっとつまんで食べるときの、あの「なんだかわからないけれど許されている」感覚は、そういうことかも、と思い出させてくれる。

このエッセイのなかにはそういうふうに感覚を肯定してくれる文章がたくさん詰まっているから心地よい。

忘れっぽいわたしは、きっとこれからもたくさんのことを忘れていってしまうと思うけど、そのたびにつないで置いてくれるようなとびきりの作品に出合っていきたいなと思う。

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