麻生太郎「戦う覚悟」発言を許せない人達に送る言葉

簡単に言えば、「小沢一郎の話など聞く必要が無い」と言う話。


反発するのは原理的「平和主義者」

「いざという時には戦う覚悟を持つ」と「戦いたくてうずうずしてる」の違いが分からない人達

いわゆる「平和主義者」理想主義者だ。
理想主義者は理念先行型の思考をする。
「絶対的な結論」を先ず信奉する
つまり「絶対的な結論に向かって辿り付けるように理屈を探す」と言う思考様式になる。
そして、「結論ありきで考え始め、理屈を探す」との思考は当然ながら論理的思考ではない
だから、「平和主義者」は論理的思考が出来ないのだ。

※これは「平和を望むと論理的思考を失う」と言ってる訳では無い。
「平和」の捉え方から独善的で、現実世界で人間がどう振る舞うかに正面から向き合わない、向き合えないタイプの「平和主義」を信奉すると、非論理的になって行くと言う話だ。
論理的思考で「如何に平和を実現するか」を論じる事は当然可能であり、それが出来るのは結局のところ、「戦争と平和」を冷徹な現実主義で論じる現実主義者だけとなる。

「平和主義者」の頭の中では、「非武装中立」こそが平和への道だと言う事になってる。
つまり、
武装を無くす = 自衛隊すら持たない
国際的に中立 = 日米同盟も要らない
と言う事になる。
実際、彼らの主張を追ってみると、そういう話をしてるのだ。

武装を無くしたがる理屈はこうだ。
「戦争とは殺し合いだ。
殺し合いを出来ないようにすれば、戦争は無くなるのではないか。
じゃあ、殺し合いの道具となる兵器を持たず、軍事活動を担う軍隊もなくなれば、少なくとも日本から戦争を仕掛ける事は無くなるはずだ。
だから、日本から武器を無くそう、そして、自衛隊を無くそう」

だが、日本が仮に非武装になったところで、日本が攻撃に晒されない保証など誰もしてくれない。
実際、チベットは軽武装中立を志向していたが、国共内戦に勝利した中国共産党、人民解放軍から圧迫を受け、最終的に侵略されてしまった
武装を減らしたり無くしたりする事で、日本が戦争を仕掛けられないようになる事は絶対に無い。
(ちなみにチベット亡命政府のトップであるダライラマ14世・法王は、たびたび日本を訪れている。紅茶花伝がお気に入りのようで、訪日の度に美味しそうにペットボトルのミルクティーを飲んでる様子がSNSにアップされ話題になってる。
ネットの話題を日々さらってる人なら、国際情勢について詳しくなくとも見掛けた事があるかも知れない)

だが、「平和主義者」にこの正論は届かない。
「武装を解けば、戦争が起こらない」
との結論が何より先にまず存在しているからだ。
そして、論理的に正しい現実主義者からの指摘に対し、
「そんなに武装解除を否定するなんておかしい。
武装解除こそが戦争回避の正しい道なのだから。
そこを否定するって事は、さては戦争回避を望まない勢力だな?
皆さーん!!この人は戦争をしたがってますよー!!」

と更なる非論理的思考を展開する。

SNSで平和主義を強烈にアピールしているアカウントに
「貴方の言ってる事、論理的に正しくないんじゃないですか?」
などと絡んだが最後、此方の事を戦争を望む悪の手先と認定し、これでもかと大量の罵詈雑言が返って来るだろう。
そうじゃなければ即時ブロックだ。
どの道、会話が成立する事はまず無い。

そして、「平和主義者」が好んで使うフレーズ、
まずは話し合おう
真摯に話し合えば、戦争を回避する道が必ず見つかるはずだ
が如何に現実離れしているか、良く分かる。
現実主義者からの論理的指摘に対し、議論もせずにレッテル貼りしたり、罵詈雑言を躊躇いなく書き募る攻撃性を見せる界隈が「平和主義者」を自称するのだ。

「仮に紛争が起こった場合」を論じようとすると、彼らは「紛争を望むのか!?」と激昂する。
「此方が望む望まないに関わらず、相手が仕掛けて来る可能性があるでしょう?」
と言っても、
「それは相手に対し、十分話し合おうとしなかった結果だ」
と返される。
何を言われても、徹底的に紛争を起こされた側の落ち度へ持って行く事で、彼らは彼らの中だけで通じる「平和主義こそが平和に至る唯一にして正しい道」だとのイデオロギーで自己完結するのだ。

「平和主義者」は戦争を回避する為、全人類へ尽きせぬ愛情を発揮しているつもりでいて、その実、「平和主義者」の外にいる誰に対しても全く関心が無い
彼らに異論を挟む者は「平和を愛さない者に違いない」と認定され、「そのような人を相手にする必要はない」と排除される
潜在的な脅威を持つ国・組織に対しては「話し合いをすれば必ず分かり合えるはず」「分かり合えない相手などいない」と無責任な幻想を抱く
この幻想を抱いている時、自分達が異論を差し挟む者を無視した現実は都合よく忘れてしまう。
自分達が現在進行形で証明している「人は必ずしも聞く耳を持っていない事実」は彼らの想定の範囲外になる。
現実世界に平和をどう実現するのか?」を真剣に論じる人達にとって、「平和主義者」は全く以て邪魔な存在でしかない。

自衛隊を否定し続けて来た界隈

第二次大戦で大きな犠牲を払った日本では、戦争忌避の空気に包まれた。
それは至極当然の話だ。

実は、第一次大戦後のイギリスもまた、大きな戦争の損害に見舞われ、国全体に戦争忌避の空気が漂っていた。
その当時から民主政治が敷かれていたイギリスにおいて、世論は政治に影響力を強く持つし、政治家側もそれに応えようとする。
その結果が、ナチスドイツへの甘い対応であり、ヨーロッパ大陸で権益を十分得たナチスドイツがイギリスにもたらしたのがロンドン大空襲だ。
戦争忌避に流された結果、力による現状変更を求めるナチスドイツに譲歩する道を選ばせ、より強大な相手として育てた後に結局戦争する以外の道が無くなったと言う歴史的な皮肉だ。
この事を理解すれば、「とにかく戦争を忌避すれば、平和が保たれる」との期待が如何に現実離れした幻想なのかが良く分かる。

閑話休題、日本の話だ。
強烈な戦争忌避の空気と相まって、戦後日本を統治したGHQは日本の武装を解除した。
日本軍は解体され、警察官の所持する護身用、犯罪者への威嚇用だった拳銃すら没収される徹底した武装解除だ。
当然、それに伴い社会的混乱も発生した。不逞の輩が摘発を逃れた銃器を隠し持って犯罪を行ったり、大挙して警察署を襲撃し犯罪仲間を力づくで奪還しようとするなど、今では考えられない凶悪事件まで起こった。
(丸腰の警察では武装した犯罪者集団に十分対応する事が難しく、時に警察署長が不法に銃器を保有する暴力団・愚連隊に協力を依頼し、勾留中の容疑者奪還の襲撃に対処した事すらあった。1946年に発生した「渋谷事件」がそれにあたる。
戦後の混乱期には、不法な闇市が各所に立ち、それを取り締まる警察と闇市で生計を立てる者たちとの対立が各地で発生し、それを端緒とする警察署襲撃事件が複数発生している。)
だが、とにかく「戦争を二度と起こしてはならない」との前提から国軍を持たない事を許容、または推進する社会的な空気が出来上がり、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」の九条を含む日本国憲法が制定された。

だが、世界はあっさりとその前提条件を変えてしまう。
日本国憲法を押し付けたGHQの理屈はこうだった。
「何はともあれ、日本国がもう二度と連合国へ挑戦する事の無いよう、完全に武力放棄させよう。
ただ、それだけでは日本が他国から攻撃を受けた場合の対策が無い。
なので、もし日本が他国から攻められた場合は、連合国が日本軍の代わりを務めよう

政治系の話題では度々語られる事だが、
「実は国際連合、つまり国連とは第二次大戦の組分けであった枢軸国、連合国のうちの連合国そのもの
だ。英語でも国連はUnited Nations、略してUNと表記するが、連合国も全く同じだ
日本国内で第二次大戦の敵対国家としての連合国と、終戦を受け入れた後の国際社会的な意味での国連とではニュアンスが異なるし、ある意味では必要に迫られての意図的な使い分けなのかもしれない。
ただ、この事をきちんと知らないと戦後の国際情勢について理解が進まないだろう。

GHQは、日本の非武装とセットで連合国軍、つまり国連軍の編成を考えていた。
だが、戦後間もなく西側諸国、つまり民主的勢力と東側諸国、つまり社会主義勢力とで国際社会に対するアプローチが決定的に異なった。
社会主義勢力は世界を全て社会主義勢力に変える事が存在意義であり、民主主義勢力は民主主義的政治手法を否定する社会主義勢力を強く警戒した。
体制的な対立が不可避となり、こうして冷戦がはじまったのだ。
連合国内が西と東に二分された環境で、連合国全体が参加する共同軍、国連軍など作りようが無い。
この時点で、日本の非武装の大前提だった国連軍構想は完全に潰えたのだ。

非武装の大前提が崩れた直後、GHQは自分達が押し付けた日本国憲法、九条に真っ向反する日本国軍の編成を望んだ
「誰が日本を守るのか?」が宙ぶらりんになったのだ。
当然、この穴は国連軍以外の何かで埋めなければならない。
しかし、時の総理大臣・吉田茂はこの要求を蹴った。
「貴方たちが押し付けた憲法でしょう」
と。
「自分達で自分達の国を守る」
とのどの国でも当たり前にある感覚が、広く日本人から失われる切っ掛けとなった瞬間だ。

吉田茂がこう判断した理由としては、対米従属で経済復興を先ず目指したかったから、とされる。
しかし後年、吉田はこの時の判断について後悔していたと言う。

吉田茂の思いとは別に、日本国内で「日本の再軍備反対」「9条を守れ」を声高に主張した界隈があった。
それはソ連共産党との繋がりを持つ日本社会党、及び日本社会党を支持する労働組合を中心とする左派勢力だ。
実は今現在、日本で「平和主義」を強烈にアピールする界隈のルーツはソ連共産党と密接な関係にある。

ソ連は継続して日本の政界、労組への働き掛けを行い、日本社会党や労組は正にそれに応えようと活動していた。
親ソ連の界隈だからこそ、日米同盟を徹底的に糾弾するのだ。
※日本共産党の場合、かつてはソ連共産党との繋がりもあったが決別し、親ソ連ではない中で反米を維持していた。
そして、アメリカの世界戦略に対し「アメリカ帝国主義」とのレッテル貼りを行い、「アメリカこそ世界の敵」とのイメージ戦略を行った。

日本の「平和主義」が東側諸国に共鳴する為の道具だった分かりやすい証拠がある。
東西冷戦期、国連常任理事国である五大国では積極的な核開発が進められた。
日本の「平和主義」の大きな柱に「核兵器廃絶」がある。
なので、今では核開発に対してはどの国だろうが基本的に反発姿勢を見せるし、その様子しか知らない人なら昔からそうだったのだろうと思いがちだ。
だが1960年代、70年代に日米安全保障条約改正に対し、左派が強烈な反発を見せ学生運動が激化した時期、「社会主義国の核兵器は帝国主義と対峙する為のもの」「核保有も致し方なし」とのロジックで社会主義国の核保有を容認する言説があった。
ここで言う「帝国主義」とは「アメリカ帝国主義」の事だ。原義的には「より平等な社会を実現する社会主義」との対比で「平等が実現されない専制主義としての帝国主義」となるが、ソ連など社会主義国がアメリカを世界の敵だと言う為の道具として「帝国主義」は頻繁に使われる。
(ちなみに、日本共産党は今現在も「アメリカ帝国主義」のレッテル貼りでアメリカを非難している。)

誤解してはいけないのは、今現在、「平和主義者」を自認している人達が揃いも揃って、かつてのソ連への憧憬を抱いている訳では無い事だ。
そこが直結してるのは相当な高齢者に限られるだろう。
そうではなく、今現在の「平和主義」で掲げられる多くのお題目とは、実は米ソ冷戦構造でアメリカ攻撃の為に生まれた道具だと知らない「平和主義者」が多くいる事を指摘しているのだ。
自分達の掲げる看板がどういう経緯で作られたのかも知らず、自分達の政治活動の行き着く先が現実にどんなものか思いを馳せる事も出来ず、ただただ「平和を大事に」との結論部分だけに共感し、迂闊に乗っかっているのだ。

未だ「国連軍」への幻想を抱く政治家たち

空虚な「国連軍」構想で日本国防論を妨害する「小沢一郎」

国際平和の話題となると「国連軍」の妄言を語る筆頭が、小沢一郎だ。
第二次大戦後間もなく、東西冷戦の兆しが見えた1947年時点でマッカーサーは押し付け憲法である日本国憲法の改正をすべきじゃないかと提案したが、時の総理大臣・吉田茂はこれを拒否した。
そして、1950年にはアメリカ国務省顧問だったダレスが対日講和条約の交渉に訪れ、この時に日本の再軍備を提案されたが、やはり吉田茂はこれを拒否した。
GHQ、そしてGHQの中核であったアメリカは「国連軍構想」をこんなに早くに諦めていたのだ。

そんな捨てられた「国連軍構想」に未だにすがって、「国連軍を日本に駐在させる事で、日本を今より平和に出来る」などと語るのが小沢の持論だ。
その「国連軍」はどんな構成になるのか?
ロシア軍や中国・人民解放軍を含むのならば、民主国家は参加を躊躇うだろうし、民主国家の軍隊主体でロシア軍、人民解放軍を含まない国連軍ならばロシア、中国が敵視する事間違い無し。
仮に両陣営が国連軍構想に乗れるような状況ならば、その時点で国連軍など抜きに国際平和は実現しているのだ。
非現実的な「国連軍」を持ち出して、日本の国防を語るのは質の悪いギャグとしか思えない。

小沢一郎は民主党政権時代、民主党幹事長として訪中し、中国の胡錦濤国家主席と会談した。
ここで、自身を「人民解放軍の野戦司令官」になぞらえ、翌年の参院選に準備していると語った事が報じられている。
1989年6月4日、中国で民主化を求める勢力(特に北京周辺の知的エリートである大学生、若者)が人民解放軍に蹂躙される大規模な白色テロが起こった。これが「天安門事件」である。
中国では今でもネット上のあらゆる書き込みに対し、完全な検閲を行っているが、最もそれが厳しくなされているのが「天安門事件」であり、また、発生した日を示す「64」だ。書き込んで数分以内に削除され、投稿者個人を特定し警察が来るとも言われている。
情報統制の厳しい中国での出来事の為、正確な人数は分からないが、3000人を超える(一説には事件後の粛清含め3万人とも)死者を出したとされる。
天安門事件の発生後、西側民主国家は一斉に中国との距離を取った。
それほど西側諸国にとって重大な意味を持つ悲惨な出来事だった。
このような歴史を持つ、非民主的かつ非人道的行為の象徴とも言える人民解放軍の軍司令官に、小沢は自分をなぞらえたのだ。
圧倒的に政治センスがおかしい。
第三国にそれがどう映るのかを考慮出来ないからこそ、このような発言が出るのだろう。

民主党政権では、鳩山由紀夫総理大臣が「日本、アメリカ、中国を正三角形とする新たな国際関係を目指す」と言い出した。
本人的には「三カ国が仲良くなれれば」くらいの軽い気持ちだったのだろう。
だが、中国は日本、アメリカを仮想敵国としているのだ。
日本が現実世界を無視して中国との距離を縮めようとした場合、それは日米関係を思い切り弱体化させる。つまり、日本が中国に近付くとアメリカは離れてしまう。これは回避できない現実だ。
結局のところ、鳩山由紀夫が何を願おうが、もし日米中が正三角形の状態になったとするなら、それは三カ国が国防においてお互い反目し合った状態でしかあり得ないし、その時には日米同盟は破棄されてる事だろう。
そして、実際、鳩山由紀夫の空想的国際関係論はアメリカに強烈な不安を与えたし、「トラストミー」で米軍基地移転問題をただただ混乱させた事で決定的な不信感を抱かれた。

鳩山由紀夫総理大臣、小沢一郎幹事長ら、民主党の顔役がこぞってアメリカ軽視の態度を見せた事で、日米関係は近年に無いレベルまで急速に冷え込んだ。
そしてそれは、日米関係弱体化を望むロシア、中国、北朝鮮を喜ばせるだけだった。
地域の平和と発展を望む東南アジア諸国、特に中国からの圧迫に苦しむベトナム、フィリピンなどからすれば、悪夢のような時間だ。
空理空論を唱える連中に、現実の平和をもたらす力など存在しないのだ。

台湾における麻生太郎発言「戦う覚悟」の意味

麻生太郎自身がこの発言の前にウクライナ侵攻について触れているが、ウクライナを見れば「国を守ると言う意味」が分かるはずだ。

アメリカは軍事衛星の映像分析から、2021年10月時点でロシア軍の普通ではない動きに気付き、軍事的機微に関わる詳細は伏せながらウクライナ側に危険が迫っている事を伝えていた。
当時はウクライナ側が正しくこの危機を把握出来ず、十分な対応を取らなかった。
そうして2022年2月24日、ウクライナが迎撃態勢をしっかり取れていない中、ロシアによるウクライナ侵攻が始まる。
この直前、アメリカはロシアの本格的な進行にウクライナが耐えられないと見て、ゼレンスキー大統領らに国外脱出を打診した。
一旦、政権幹部らは自国から逃れ、ロシア軍による要人、高官の処刑を回避し、亡命政府を外国に作り、それからウクライナ奪還を目指すシナリオが提案されたのだ。
そして皆が知っているように、ゼレンスキーは国外脱出を拒み、徹底してロシア軍に対峙し、国を守る事を決意した

仮に大統領が本当に国外脱出した場合、どうなっていただろうか?
大統領は軍の最高司令官でもある。
最高司令官がいなくなった軍の士気が上がるはずも無い。
ロシアに国を明け渡すまいと残ったウクライナ軍も出来る範囲で抵抗するだろうが、遠からず組織的抵抗も諦め全土をロシアに掌握されただろう。
そう考えると、ゼレンスキー大統領の国内向けの徹底抗戦の呼び掛け、そして民主主義を守る為の戦いとして国際社会に支援を呼び掛けた事は、今の膠着状態、そして反転攻勢を生み出した原動力と言える。

しかし、「平和主義者」たちはこの「徹底抗戦」が許せない。
武力を以て侵攻して来る相手国に対抗するには、此方も武力を持たねばならない。
だが、これは「平和主義者」の望む適切な対処法ではない。
「平和主義者」の考えるベストな対応は、「非武装中立」と「無抵抗主義」だ。
「武器も持たない」「抵抗もしない」となれば、「相手だってそう酷い事はしないはずだ」との根拠無き確信を押し付ける。
そして、自分達の思い描く「平和主義」的な動きを見せないウクライナにいらだち、「ロシアよりウクライナに批判的な平和主義者」が生まれるのだ。
普通の感覚を持っていれば、「侵略される側の落ち度を糾弾する平和主義者」を見て、「本当に平和を愛しているのか?」「対立煽りのネタアカウントじゃないのか?」と思うだろう。
私だってこんなバカな事を言う人間が「真に平和を愛する人間な訳無い」と思ってる。

だが、「平和主義」の結論ありきで思考する連中は、「平和主義者」を自認しながら、平和に全く繋がらない主張を平気で行い、疑義を挟む者を「戦争愛好家」と認定するのだ。
在日ウクライナ人で「ウクライナ国民が如何に戦っているか」、「ロシアが如何に卑劣な行為を行っているか」をSNSで積極的に発信している人に対し、信じられない暴言を浴びせる日本人が少なからずいる。
中には愉快犯もいるだろうが、その中心は「平和主義者」だ。
「抵抗するウクライナ人」を見て、自分達の思う「無抵抗でこそ実現する平和」との幻想が揺るがされる。もしここで論理的思考が働く人なら、今まで自分達の考えて来た「平和主義」への疑念が湧くだろう。
「私たちがこれまで唱えて来た『平和主義』とは何だったのだろう?
侵略される側を責め立てる言説が本当に平和を実現できるのだろうか?」
と。

だが、彼らは論理的思考を放棄して来たからこそ、今まで「平和主義者」でいられたのだ。そして、大半の「平和主義者」は自分達の幻想を揺るがす不安の原因となる「ウクライナ人の抵抗」を攻撃する事で、今まで同様の「平和主義」を抱きながら、心の平安を維持しようとする。
「平和主義」を唱える日本人の中に、ウクライナ人への冷たい対応を見せる人が現れたのは、現実の戦争の惨禍に見舞われているウクライナ人の命よりも、平穏な暮らしを送れる日本にいて非現実的な「平和主義」を信奉する自分達の心理的安定を優先した結果だ。

自称「平和主義者」達のその行動原理と詭弁の出て来る心理的背景から、私はロシアのウクライナ侵攻が始まって間もなく、
「遠からず『反戦平和を徹底出来てない』との理由でウクライナ側への批判を我慢できない『平和主義者』が出るだろうな」
と思って見ていた。そしてそれは現実のものとなった。予想よりも早く、予想よりも多くの人がそうなってしまった。残念なことではあるが、それが彼らの語る「平和主義」の行き着く先であり、当然の結果なのだ。

しかも悪い事に、彼らはこの自分達の心の動きを正しく把握出来ていない。「何故か侵略されている側のウクライナ人を責めてしまいたくなる」自分達の心理を正しく言語化出来ないからこそ、彼らは今日も非論理的にウクライナ人の落ち度を元気に糾弾する
現実にやってる事は、「他国を侵攻する平和の破壊者たるロシアへの間接的支援」だと言うのに、彼らの中ではウクライナ人を非難する事で「自分達の望む平和を実現する為の活動に勤しんだ」事になってる。
論理を捨てた人間が希求する「平和」とは、これほどまでに空虚で、人類愛からかけ離れたものになるのだ。

中国の侵攻を懸念する台湾に対しても、彼らは同じように考える。
「中国に抵抗しよう」と言い出す人は、彼らにとって「戦争愛好家」に他ならない。
現実の中国の脅威や近年頻繁に行われる台湾、東南アジア諸国、そして日本への軍事的威嚇行動なんてどうでも良い
そんな現実になど目もくれず、とにかく「脅威に対して無抵抗でいろ」と求め「そうすれば身の安全は守られるはずだ」と無責任な安請け合いをする。
それが彼らの「平和主義」だからだ。

彼らにとって、麻生太郎の語る「いざと言う時には戦う覚悟を持たなければならない」は、「早く戦争がしたい」に聞こえる。
麻生太郎が言ってもいない「戦いたがる精神」を問題視し、「戦争反対!」「平和を守れ!」と糾弾する。
小沢一郎や左派系議員が麻生太郎発言を問題視するのも全く同じだ。
そこには論理性の欠片も無い。
だから私は「小沢一郎の反論など、気にする必要など無い」と言い切るのだ。

日本で「戦争と平和」を論じる事は非常に難しい。
多くの日本人が、「空想的平和」「妄想的平和」の住人であり、現実的な国防を論じる人を「戦争愛好家」と見做す空気が蔓延してるからだ。

(敬称略)
<了>

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