日本の左派系政党が衰退する理由(上)

端的に言うと、
「理想」「現実」のギャップに対処できない
「理想主義者」ばかりだから。


まずは55年体制を知ろう

55年体制とは?
1955年(昭和30年)に成立した国会勢力図を指す。
最大勢力で政権与党の自由民主党がおよそ3分の2を占め、野党第1党の日本社会党、及びその他の左派勢力が残りの3分の1を占める。
自民党は国会運営上、問題が無い安定多数を占める事が多かったが、憲法改正に必要な3分の2の議席を得られる状況は無く、逆に左派野党は「自民党に3分の2以上の議席を与えて良いのか?平和憲法を変えさせてはならない」との形式で国民からの支持を訴えた。

時間泥棒・作

で、何時まで続いたのかと言うと、非自民党の連立政権である細川政権が成立した1993年まで。
38年間も続いた与野党の対立構造だ。

自民党 VS. 社会党

自民党と社会党がどのような政党なのかを比較する。

自民党の特徴

  • 親アメリカ

  • 自主防衛

  • 積極的な経済政策

  • 主な票田は経済界、農家、現在の政治環境に満足する人達

社会党の特徴

  • 親ソ連

  • 非武装中立

  • 経済政策より社会保障政策

  • 主な票田は都市部の労働組合員、観念的理想主義者

まず、親アメリカと親ソ連について。
今の若い人はそもそもソ連自体のイメージが湧かないかも知れない。
ソ連を一言で表現するなら、「あらゆる面で自由を制限されまくる、この世の地獄」だ。

日本の左派は、戦後ずっと「この世の地獄」に等しい社会主義国家を日本の進むべき道として主張して来たのだ。
ここだけ聞くと、本当に意味が分からないと思う。
何故、社会主義国のような歪な国家体制が生まれたのかを先ず語ろう。

社会主義が生まれた背景

元々は、ドイツ人カール・マルクスの提唱したマルクス主義がその中核となっている。

マルクス主義を非常に短くまとめると
「資本主義は間違ってる!!
なので、資本主義はいつか廃れて共産主義に至るのだ!!」
となる。

まぁ、誰がどんな考え方を取ろうと、それは自由だ。
また、「資本主義が完全無欠のシステムなのか?」と問われた場合、私だって自信を持って「そうだ」とは言えない。
だからと言って、資本主義が放棄されなければならない程、間違ってるとも思わない。
マルクス主義に対する私の端的な所感は、「前提も結論も、決め付け方が軽率じゃね?」だ。

そもそも、資本主義を採用している国であっても、資本主義はそれ単体で存在している訳じゃない。
「カネさえあれば何でも出来る」的なゴリ押しが安易に認められないように憲法の下に各種人権が規定され、それらが実現するよう立法、行政、司法が回るよう、社会設計がなされている。
「カネさえあれば多くの事が実現可能」なのは確かなのだが、「カネが全て」じゃない社会設計として社会保障制度、医療介護制度が存在し、それをみんなのカネで実現する事で現代的資本主義はバランスを取っている
こういう現実に向き合った時、
「資本主義こそ問題ある仕組みだ!
カネによる格差を生まない共産主義こそ至高!!」

と主張されても、「貴方、随分思い込みの激しい人なのね……」としか答えようが無い。

マルクス主義を土台に生まれたソ連・中国・東欧諸国が直面した問題

一応、カール・マルクスに対するフォローもしておく。
彼は1818年生まれ、没年が1883年となっている。
日本で言うなら、江戸末期から明治初期を生きた人だ。
国家による社会保障制度の先駆けとされるドイツの社会保険制度が生まれたのが1880年。
古くから、統治者、或いは行政執行者によって貧民対策が実施された記録は色々残されているのだが、「国民であるなら誰でも」との条件で最低限度の生活を保障するような考え方はフランス人権宣言以降、為政者と社会全体に「人権」が広く認識された後に、貧困問題解決に向けた様々な政治的アプローチが生まれ、ようやく行き着いたモノだ。
ドイツの社会保険制度が生まれる前は、公(おおやけ)による恒久的な救済制度が無かった事から、生活するだけでいっぱいいっぱいの庶民とそれに対し使い果たせないだけの富を手中にした富裕層との対比に憤り、経済的格差への疑問を抱き、格差がより少ない社会が実現”されるべき”との思いに至った事自体は、それほどおかしな事ではないと思う。
(それでも、前提と結論の両方が極端過ぎて、私は全く付いて行けないのは改めて指摘しておく)

上述のようにマルクス主義が前提としている「資本主義の問題点」は、出発点からして怪しい。
そして、怪しい出発点から始めて彼が辿り着いた「共産主義」と言う終着点は、より露骨に問題点を抱えている。寧ろ、問題点しか無いと言う方が正しいかも知れない。

「共産主義」を簡単に説明するとこうなる。
「個人的な『富(とみ)』なんてものがあるから、貧富の差が生まれてしまう。
だったら、個人的な『富(とみ)』を無くせば良いじゃないか。
『富(とみ)』は全て、社会全体のものとしよう!」

まぁ、「貧富の差」解消の方法論として、このような社会モデルを思い付く事までは否定しない。
だが、やはり実現性が非常に乏しい発想であると言わざるを得ない。
確かに私有財産がこの世から消えるなら、相対的には誰も貧しくない状態と言えるかもしれない。
だが、それは同時に相対的に誰も富む事が出来ない状態でもある。
世の中には様々な職種があり、職種ごとに労働の強度が異なり、専門性や必要とされる知識量も異なる。
この労働の前提条件の違いは、通常その職種で得られる対価の違いに現れる。
難しかったり大変な職種の方が、より多くの対価によって報われるのだ。
「共産主義」との発想は、この当たり前にある「職種による対価の違い」を否定する事になる。
大変な仕事に就く事のインセンティブが失われるのだ。
また、これは職種の違いだけでなく同職種においても、同じ問題を発生させる。
同職種であっても人によってその働きぶりはまちまちだ。
より良い働きぶりを示す者ほど賃金面で報われる事は自然だが、「共産主義」的発想はこれを否定する。
あらゆる労働において、「頑張る程に馬鹿を見る」との状況を生むのだ。

実際、ソ連や東ヨーロッパ諸国の社会主義国家では、同じ職場において「極力手を抜いて働く」事が労働者間のコンセンサスになっていたと言う。
誰かが職場で頑張って通常より高い成果を上げると、これを管理する共産党幹部から、「他の職員もこれくらい働けるだろう」とより高いノルマを要求されるようになってしまう。
飛び抜けた才能を持つ職員一人の成果で要求ノルマがぐんと上がると、他の職員が力の限り努力してもノルマ未達者が続出する結果に繋がりかねない。
そして、ここが一番大事なポイントだが、たとえノルマが上がったとしてもノルマ達成時に給料へ反映される事などほぼ無いのだ。逆にノルマ未達での罰金的な給料削減は躊躇わないだろう。
他の職員に下手に頑張られると、単純な自尊心の問題ではなく、現実的な死活問題に発展しかねない。
この為、空気を読めず頑張る職員は同僚から必ず嫌われてしまうのだ。

社会主義国家は建前上、全ての人民(「国民」の社会主義的な表現。)を平等としている。
だが、現実は「(人民を管理・指導する共産党員を除く)全ての人民が平等」と言う話なのだ。かっこ書きの部分を削って、実態からかけ離れた理想主義を掲げている訳だ。
共産党員は特権階級として、ありとあらゆる面で優遇される。
「平等」を最重要視する社会体制を謳っていながら、「共産党員」「それ以外」完全な階級社会になってしまう。
これは共産党の想定が、
「共産党が国民を指導し、引っ張る事でのみ理想の社会を実現出来るのだ」となっているからだ。
(ちなみに、北朝鮮関連の話題でよく出て来る「チュチェ(主体)思想」とのワードも、この共産党的発想の亜種だ。
「人民は『手足』だ。手足だけではどのように動くべきかを決められない。
「頭」たるべき存在が必ず必要であり、「頭」になれるのは金日成から始まる金一族の血統だけなのだ」
と、共産主義的発想と統治者の血統主義を掛け合わせた考え方によって、北朝鮮統治を正当化している)
このように、共産党独裁によって階級社会が生まれるのは必然なのだ。
そして、最初から生まれるこの共産党の矛盾を指摘するような人間は、共産党独裁国家から必ず排除される。(どう排除されるのかは、言わずもがな)
独善的な上に排他的なのが社会主義国家の常だ

しかも、共産党の内部では熾烈な権力闘争が常に巻き起こっている。
そして、完全に権力を掌握した者は、必ずと言って良いほど政敵の粛清を行う。
この為、社会主義国家「一党独裁」「個人独裁」と言う二重の独裁体制を併発する。
だからこそ、社会主義国家の人民は常日頃から苦しめられ続け、あらゆる機会を捉えて自由主義・資本主義である西側諸国への亡命は絶えず起こり、その逆は非常に稀だった。スポーツの国際舞台は東側諸国から逃亡する格好のチャンスとなった。
このような現実に真正面から向き合うならば、「マルクス主義」から始まる「平等な社会実現」への期待が、如何に儚い夢物語であったのか、を知る事になるのだ。

<下へ続く>

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