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30歳になる20代最後の私へ

30歳を目前に、これまでの人生のことを思い起こす。今の私になるまでの、過去のいろんな私。その土地その時々で、これだと思ったことを直感に従って何でもやってきた。

今の私は子供のときに思い描いていた大人ではない気もするし、10代の頃に目指していた理想ともまた違う。
それでも不思議なことに、振り返れば振り返るほど、そのときはバラバラにしか見えなかった出来事すべての"点"が、"線"になって今の自分に繋がっていると強く感じる。

そんな自分のこれまでのこと。
忘れてしまわないように、自分のために綴っておこう。

幼少期は人見知りおてんばガール

いつも兄の後をついて歩いた幼少期

山や川、自然の中で遊ぶことがいつも身近にあった幼少期。父がアウトドア好きだったため、週末や連休の過ごし方といえばもっぱらキャンプやBBQ。川や湖で遊ぶことや、ハイキングや登山、と、外遊びが当たり前の家庭で育った。

内向的で恥ずかしがり屋の性格ではありながらも、外で遊ぶことやキャンプに行くことが、中で遊ぶよりも本当に大好きだったと振り返ってみても思う。
自然の中で過ごす時間が今も一番気持ちが安らぐのは、幼少期のそういった体験があるからだと大人になって改めて感じる。

10代から20代前半はアクティブな海外志向

高校生活や大学生活では外国の文化や言語への関心が高まり、海外で過ごす時間や旅行に行くことも多かった。

高校生のときは1か月の語学留学でオーストラリアへ。クイーンズランドのヌーサという、高級ビーチリゾート地として有名な(かなり後になってから知った)地域で現地の学校へ。

美しいビーチや自然豊かな国立公園があり、ゆったりとした時間が流れている小さな海辺の町だった。

大学生になり初めての1人旅はベトナムへ。
日本にいるだけでは知ることのない世界を自分の目で見たかった。現地集合で様々な国から集まるボランティアチームに参加した。ベトナムの孤児院で障がいを持った子どもたちのクラスをサポートしたりアクティビティを一緒にしたり、食事の用意をサポートをしたり、異文化交流をしたり、そんな活動を施設内で寝泊まりして行うプログラムだった。

ベトナムの孤児院での様子

子どもたちは孤児院で暮らしていても障害を持っていても、私たちの何十倍も毎日元気でキラキラしていて、どう見ても幸せそうだった満面の笑顔が忘れられない。むしろ気づきを与えてもらうことのほうが多かったように思う。
その活動の中で生活を共にした世界中の仲間たちは今でも大切な人たちだ。

在学中は、ニュージーランドに留学をした。
ほとんど直感的に決めた行き先だった。英語を勉強することに加えて、自分にとって大切だと思ったのは煌びやかなキャンパスライフや街での夜遊びやパーティーなどではなく、"ただ自然に素朴にいられること"だった。

そしてその選択は正しいものだった。私が求めていたすべてのものがそこにあった。ニュージーランドといえば、羊、自然、他になにが?と思われることは多い。
確かに、大都市にあるような便利なものはないかもしれない。それでも私にとって必要なすべてのものがそこにあった。人が本来求めるべき、すべてのものがそこにある、そんな国だ。

コロマンデルへ向かう途中に出会った風景

初めて目にした美しい景色に、走らせていた車を思わず停めて降り、涙した場所があった。何だかとても懐かしいような、「あぁ、この場所だ」と感じさせてくれる、嘘みたいに温かく優しい場所だった。「ホーム」というものは「生まれた場所」とは限らないし、「ただ眠りに帰る家」を「ホーム」と呼べるわけではない。この初めて見る景色と場所に不思議と「ホーム」という言葉と感覚がぴったりと収まったのだ。

ニュージーランドで過ごす間に、私にとって自然の中にいることは、自分自身も自然のままに飾らずにいられることだと知った。

選択肢の多い便利な国はもちろん刺激があって楽しいけれど、それが少なくて便利とも言えない国では、人との繋がりや自然との繋がりみたいな根底にあるものにいつも目を向けることができた。便利であることが豊かだとは限らない。

そんな気づきを得て日本に帰国し、新しい価値観をそのままに、日本での暮らしも出来るだけ変わらない気持ちで過ごしたいと思ったのがこの頃。

学生生活中の旅先にはインド、カンボジア、バリ、台湾、とアジアの国を巡った。東南アジアの熱気や活気が大好きだった。

バリ島

やってみたいことは何でもやりたくて、在学中にスキューバダイビングの免許や中型二輪の免許を取得もした。しばらくはツーリングが趣味だった。

父とのツーリング


仕事第一な20代前半

大学を卒業してからはインテリアに携わる仕事に就いた。ニュージーランドの人たちのライフスタイルに惹かれる面が多くあったので、何かそれに近い提案を暮らしにまつわるインテリアを通して出来れば良いなと考えたからだ。

暮らしに取り入れる家具や雑貨、カーテンやラグなどのインテリア用品をどんなふうに選ぶか、どんな暮らしを理想にどんなものを身の回りに置くか、インドアとアウトドアの心地よいバランスや楽しみ方など、本当に好きだと思うことやその人にフィットするものを提案することが何よりも楽しいと感じる仕事だった。

インテリアショップで販売員として数年働いた後は、アパレルのEC業界で働いた。

数年間は気づけば仕事が第一の生活になっていた。朝早くに家を出て夜遅くに帰る日々が長く続いたし、神戸に配属になったときは一人暮らしをして仕事に明け暮れる毎日だった。
ハンガリーやルーマニア、カンボジア、中国、と海外出張に行く機会もあり、日々の充実感のすべては仕事からだった。

大好きだった自然とは少し距離があった。
お付き合いをした人たちもアウトドアが好きなタイプではない街の人ばかり。私自身も街は好きで、学生の頃から大阪でお気に入りのショップやカフェを巡る休日の過ごし方が多かったけれど、何かが欠けている気持ちがいつもあった気がする。

仕事がとにかくいつも面白かった。辛いときでも面白くないときでも、面白くなるように頑張ることしか知らなかった。仕事が上手くいっていないときはプライベートも楽しむことができなくて、よく会っていた友達ともどんどん距離が出来てしまっていた。

そして、これまでにない悲しい別れを初めて経験した。
仕事仕事の毎日で友達と連絡を取り合うこともほとんどない日々。ある朝、珍しい友達から電話が鳴った。嫌な予感がした。

学生時代の仲良しグループのひとりの友達が亡くなったという知らせだった。

癌で闘病していたということをこのとき初めて知った。

知らせを聞いたときは職場だったので、涙を堪えながらなんとか一日を終えた。会社から出た途端にぼろぼろと涙が溢れて、声を出して大泣きしながら駅まで歩いた。電車の中でも構わず泣き続けた。どうしてもっと早くみんな教えてくれなかったのか、私だってどうして気が付かなかったのか、考えても仕方がないことだけが延々と頭の中をぐるぐる巡った。

その友達とのやり取りを遡って振り返れば振り返るほど、気づかなかった自分を責め、悲しさと怒りみたいな感情と申し訳ない気持ちと後悔の念で、それからの日々は御葬式が終わっても寝ても覚めても毎日のように泣いていた。

人生で初めての"後悔"。あのとき会っておけば、あのときの様子に違和感を感じていれば、あのとき連絡していれば、あのとき大好きだと言っていれば、と、ただただ自分を責め続けた。

そんな中、地元の友達がハイキングに誘ってくれた。自然の中をただ静かにゆっくり歩くという時間がどれほど心を癒すものかということを改めて実感した。

スローダウンすることを知った20代半ば

今でこそ、毎月どこかに必ず登山やハイキングに出かけているけれど、その本来あるべき自分にとっての"当たり前"がそれだと気づいていなかった間は、自然からどこか切り離されているような感覚だったと思う。

自然の中を歩くことが私の日常になかった間は、思い返すと"巡り"がとても悪かった。体調を悪くすることも多かったし、メンタル面でも仕事のことや恋愛のことでよく気を落としていた。

仕事を何よりも優先して生活していた間に、本当に大切なことを沢山見落として、一番大切なことが何も見えなくなってしまっていたから、軌道修正を決意したのがこの頃。


思えば父が私の留学中に癌を患ったときにも、海外暮らしなんて諦めても良いと思えるほど、大切な人の近くにいることを優先しようと思ったはずだった。そんなことがあったにも関わらず、友達のことを大切に出来ていなかったことを長い間反省し続けた。

周りの人を何よりも大切にして生きていきたいと思い、これまでの友人関係にも新しい出会いにも何もかもに全力で応えるようになっていった。

仕事も本来好きなインテリアに関わるEC業界に戻り、再スタートした。大事なことをまた見失うことがないように、仕事は要領良くほどほどに、肩の力を抜きながら、のスタイルにシフトしてみた。

休日には女友達4人で登山をするようになり、自然の中に身をおくことで、身も心もどんどん浄化されて強くなることを知った。

25歳、再びニュージーランドへ

留学中にニュージーランドで知り合った友達が結婚式をするということで、招待を受けてニュージーランドを再訪した。

今回は台湾人の友達カップルと南島のクライストチャーチで待ち合わせし、ミルフォードサウンドへ縦断するキャンピングカーでの旅を計画した。
それは最高に刺激的な1週間で、素晴らしい景色を毎日目に焼きつけた。

ここでまたようやく感じることができたのが、大自然に包まれる安心感と仲間と童心に帰ることができる心地よさ。
不便なことは私にとってはどうってことないことで、物事の利便性以上に求めていることは、素朴で飾り気のないありのままの自分でいられる場所だと改めて再確認した。そこにいれば大切なものをいつも見失わずにいられる気がした。

明るくなったら起きて、お腹が空いたらごはんを食べ、自然の中でエナジーチャージし眠くなったら眠る。

また新たな目標と自分が求める理想の暮らしを妄想して帰国した。

20代後半の人生を変える出会い

その後は休日といえば山や高原、自然の中で過ごすことが更に多くなり、以前のように休みの日に大阪へ出かけることはほとんどなくなった。

高校、大学、職場も大阪だったため、友達と遊ぶときも一人で過ごすときもいつだって大阪に行っていたけれど、この頃には休みの日にまで都会に行こうとは思わなくなっていた。

登山が完全に趣味になった。道具やウェアを揃えて仲間と年中あちこち歩いた。歩くことで心に栄養が行きわたり、悲しい過去も仕事での嫌なことも、上手くいかない恋愛のことも、受け止めて一緒に前に進むことができるようになった。

山に出会えて本当に良かった。

そうしているうちに趣味の登山がきっかけで、ある男性と知り合った。今まで出会ってきた男性とは何かが全然違う、不思議な安心感を与えてくれる山のような人。

登山の話が楽しくて、沢山話をするうちにお互いのことは仕事のことや家族のこと、過去のことや未来のことと何でも話せるほどに仲良くなった。

「この人と結婚する気がする」とふと思って、本当にその人が夫になった。山のような夫と、山の天気のように喜怒哀楽のある私。夫が長野県の人なので、お付き合いを経て私も仕事の都合をつけ、念願の自然豊かな長野県に移住した。

いつか感じた理想の「何もないかもしれないけれど、心が豊かでいられる暮らし」を今の場所で夫婦で実現していきたいと思っている。

すべては繋がっている

何もかも直感のままにそのときの流れに身を任せながらこれまで生きてきたけれど、ばらばらなことをしているようで、振り返ると人としての根本的な部分はいつも変わっていなかったように感じる。

求めているものやそのときの幸せに気付くか気付かないか、気付くタイミングがいつになるのか、そういうことが人生の様々なシーンで良いほうに転ぶか悪いほうに転ぶかを左右するのかもしれない。

それでも必ず、直感を信じて人を信じて生きていれば、遅かれ早かれ正しい方向に進んでいくことができるのだと思う。

失敗からの気付きと学び、人の弱さと強さ、自然の優しさと厳しさ、10代と20代で多くの良いことと悪いこと、悲しいことと出会えたことを糧にこの先も大切なことを見失わないよう、よく目を開けて生きていきたい。

これからまた先の30年に何が待っているかは分からないけれど、最後にはすべてのことが繋がるから大丈夫、というのが自分へのメッセージ。

残りの20代はあと数か月。さて、どんな楽しいことをしようかな。ワクワクし続ける気持ちを大切に30代を迎える準備をしよう。

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