短編小説/水たまり行きの切符
雨が降りそうな気配がする。空気が湿ってきた。当たり前か、梅雨の季節だ。道端には、紫陽花が密やかに咲く。時折アガパンサスがにょきり、顔を覗かせる。まさに梅雨の景色だ。
天気予報はやっぱり雨。どうやら今日の雨はしとしと、降るらしい。梅雨は不思議な時期だと思う。涼やかな雨が降りしきっていたと思ったら暑い暑い晴れ間が除く。雨の日はまるで晴れの日なんか無いみたいに空が曇るのに。晴れの日は雨の日が嘘みたいに雲が姿を消す。
今日は日曜日だ。私は散歩をしている。通勤時にはうっとうしい雨。休日の今日は散歩道をうるおす恵みの雨に感じてしまう。住宅街をふらりと歩いていた。毎年、紫陽花が美しく咲き誇る場所に来た。自宅から徒歩十分位の距離にある公園だ。
露が光り、輝きを増す紫陽花達。期待に胸を膨らませてスキップをするように紫陽花へ駆け寄ろうとして立ち止まった。
紫陽花の根本、大きな水たまりがあった。その水たまりの側にしゃがんで、水たまりを熱心に見つめる小さな人影があったからだ。黄色い雨合羽に赤い長靴。うつむいているので表情はわからなかった。うーん、と悩むような声がする。じっと様子をうかがっていると、小さなその人物は何度も首を傾げていた。
「あっ……」
その人物が声を発した。声の調子から女の子のようだった。さっきまで晴れていたのに、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。そのことに気がついたらしい。水たまりにも雨粒によって波紋が広がる。
ぬるい雨が頬を濡らしたので、私は持ってきていた傘をさした。ばさっと傘が開く音がする。途端に女の子ががばっと顔を上げ、私を見た。余程驚いたのだろう、目を丸く見開いていた。
「びっくりしたぁ」
可愛らしい鈴みたいな声で言うと、女の子はほっとしたような顔をした。そしてまた水たまりに目線を戻した。
「びっくりさせてごめんなさい」
私は女の子の側に寄り、同じようにしゃがみこみ、女の子を傘に入れつつ声をかけた。
「ううん、大丈夫だよ」
女の子は水たまりを見たままこたえてくれた。そっか、と私は告げてそのまま立ち去ろうとした。女の子の邪魔をしたくなかったから。私もこんなふうに何かに夢中になった時があったかしら、と微笑ましい気持ちになった。腰を上げようとした時だった。
「ねぇねぇ、お姉さん?」
今後は私が驚いた。まさか声をかけてくるとは思わなかった。
「……うん、何ですか?」
「あのね……うんと、ね?」
女の子は恥ずかしそうにうつむいた。もじもじしている。可愛らしいなと思って静かに続きを待った。
「えっとね、聞いてもいい?」
「どうぞ、何かしら?」
やっぱりまだもじもじしている。しかし意を決したのか口を開いた。
「水たまりの中ってどうやって行くの?」
「え……?」
「水たまりの中ってどうなっているの?」
「え、えっと……」
これは参った。女の子は続ける。
「水たまりの中ってとっても綺麗だと思うの。青いお空が映ってる。海もプールもおんなじ水なのにこんなに綺麗に映らないの。どうしてかなあ。水たまりってとっても綺麗だよね?」
「うん、うん」
女の子に相槌をうつふりをして必死にさっきの質問の答えを探す。頭はものすごい勢いで回っているのに答えがなかなか出せなかった。きっと勇気をだして知らない人の私にきいてくれたんだ、答えてあげたい。
「水たまりはね遠くを映すの。でもこんなに近くに青い空を届けてくれる」
「うん」
「空ってとっても遠くて、とても手が届かないよね。水たまりの中にはもう一つ、青い透き通った世界があるのかもしれないね。でも空が遠くにあるように、水たまりの世界も遠くにあるのかもしれない。遠い水たまりの世界に行くのは今は難しい、私はそう思うよ?」
「そっかあ、難しいのかぁ……」
女の子は素直に納得してくれたようだった。
「水たまりが好きなのね」
「うん、大好き、お姉さんは?」
「そうねぇ……」
目の前の大きな水たまりを見つめる。女の子と同じ目線になって考えた。水たまりには女の子が言うように青い空が映っている。そこであれ、と思った。水たまりには青い空と白い雲、それなのに雨粒がぽつり、ぽつり。突然、眩しい光を浴びた。太陽が雲間から顔を出したらしい。これは、と一つ思いついた。
「うん、私も好きかなあ」
「やったあ、おんなじだね!」
女の子はにっこり笑ってくれた。私も微笑みを返した。女の子はもっと笑顔になってうなづいていた。私はさっきの思いつきを話してみた。
「もうすぐ素敵なことが起きると思うよ」
「えぇ、なあに?」
「水たまりを見ていてね?」
「うん?」
女の子は素直に水たまりに目線を戻した。数分間の時が経ち、女の子が声をあげた。私はにこにこしてしまった。
「わあ、わあ、すごい!」
「ふふふ」
さっき思いついた通り、水たまりには虹が映っていた。七色の輝きが梅雨空を塗り替えた。女の子はすごい、すごい、と喜んでいる。自分の事のように私も嬉しくなった。
「お姉さんって魔法使いなんだね!」
「へっ……?」
「水たまりの秘密を知っていて私に教えてくれた。こんな綺麗な虹も見せてくれた、魔法使い!」
「……うん、そうね。私は魔法使いです」
ぱあっと女の子の笑顔が咲いた。女の子の夢を、心をがっかりさせたくなくて咄嗟に誤魔化してしまった。
「魔法使いのお姉さん、ありがとう!」
「いいのよ、あなたに喜んでもらえて私も嬉しいな」
女の子はお父さんとお母さん、お友達に話さなくっちゃと飛び跳ねている。雨に喜び跳ねるカエルのようにぴょん、と一緒に跳ねたくなった。私にもこの子のように、何にでも疑問を持ち、答えを探して跳ね回った事があったのだろうなあ、と思いを馳せた
梅雨の日の出会い、雨空に咲く女の子の笑顔、晴れやかな私の心。偶然が重なって本当に魔法のようなひと時だった。
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