見出し画像

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(28)

〈前回のあらすじ〉
 年末年始で世間が浮足立つと、人々が一年の災厄を清算しようと躍起になっているように思えて、我が家に振りかかった災厄が最早僕や母親の足枷になって離れないものだと諦めている僕の気持ちを重くした。竹さんが暮らす敬光学園での忘年会に向かう道中でカーステレオから流れる音楽を耳にしても、僕は心を溶かしたり潤わせたりすることができなかった。

28・純粋な人ほど傷つきやすい。でも、傷ついた分だけ強くなれるの

 敬光学園の忘年会は十時に開き、午後二時には終わる。入所者の中には、そのまま家族と実家に帰宅する者もいるため、帰宅準備を考慮したスケジュールになっていた。

 僕らは九時には催しのある講堂に着いていた。自ら焼きそば係だと僕に伝えてきた竹さんは、自活できる入所者と職員によって営まれる露店の一つで、宣言のとおり、焼きそばを焼くための準備を整えていた。佐藤かおりはその手伝いも見越して、開催時刻の前にやってきたのだ。

 竹さんは刻んだ食材の入った大きなタッパーや焼きそばの麺が並べられたトレーを指差し確認したり、随分と使い込んでいる鉄板の上にヘラを丁寧に並べたりしていた。その様子は、飼育棟での生真面目さに輪をかけた緊張感を帯びていながら、とても竹さんらしく映り、僕にとっては微笑ましい光景に見えた。

 露店に歩み寄った僕に気づくと、竹さんは嬉しそうに笑って、僕を迎えてくれた。佐藤かおりは顔見知りの女性職員と挨拶を交わしていた。

「来たよ、竹さん」

 竹さんは通勤のときも飼育棟でも帽子を被っていたが、講堂の中では帽子を被っていなかった。だから、ごま塩の坊主頭を見慣れていない僕にとっては、着古したチェック柄のシャツに前掛け姿の竹さんがとても新鮮に見えた

「らっしゃいっ!」

 その気っ風のいい言い方は、任侠映画には欠かせない俳優の雰囲気を醸していた。

 体育館も兼ねた講堂は、バスケットボールコートを十分に取れる広さがあったが、天井や壁にバスケットボールのリングは備わっていなかった。ぐるりと室内を見回すと小さなステージの脇に自立型のバスケットゴールが二つ置いてあったので、やはり体育館としても使われている場所なのだと合点がいった。

 会議用の折りたたみ式の長テーブル連ねて、その上にチェック柄や花柄のビニールのテーブルクロスを掛けてあった。そこに車椅子に乗った何人かの入所者やその家族たちがすでに着座し、談笑を始めていた。そのテーブルの間に、いくつかの円筒状の灯油ストーブが点在していた。

 開催時間が迫ると、ヘッドギアを着用した少年やダウン症と思しき少女とその家族たちが、次第に講堂に集まり始めた。

 露店は揚げ物を販売する店と竹さんが仕切る焼きそば店の他に、饅頭やパンを販売する店があった。そこに陳列されている商品は、敬光学園の施設内にある工房で作られたもので、日頃はそれらを市役所や病院などで販売して、入所者の生業としているのだと、挨拶を終えて戻ってきた佐藤かおりが説明してくれた。どうせ毎年余るからと、佐藤かおりと立ち話をしていた白石という施設職員が大福やサンドイッチをプラスチックバックに詰めて進呈してくれたが、その出来栄えは街のパン屋にも見劣りしない玄人はだしで、とても美味しかった。 

「品質がいいのだからもっと高い値をつけて売ってもいいと思うんだけど、国や地方自治体から補助金をもらっていることもあって、利益追求が第一になってはいけないんだって。入所者にやりがいを持たせて社会参加させることが大切なんだとは思うけど、私的には働いた報酬をきちんともらうことも大事だと思うけどね」

 持参したエプロンをいつの間にか纏った佐藤かおりが、僕に向かってそう言った。

 何もかもが新しい体験だった僕は、様々な理由で山の中腹の小さな施設に囲われた人々が、それでも和気あいあいと催しを楽しんでいる様子を、温かい気持ちで見ていた。

 会場が賑わってくると、竹さんがねじった手ぬぐいを頭に巻いて、ダイナミックに鉄板の上に野菜を広げた。その場にも、僕には馴染みのない音楽が小さな音量で鳴っていた・・・・・が、熱せられた鉄板の上で野菜が焼かれる音が上がると、たちまち会場に歓声が響いて、その音もあっけなくかき消されてしまった。

 ヘラを両手に持って鉄板の上の野菜や麺を捌く竹さんの背後で、佐藤かおりが花板をサポートする脇板のように、てきぱきと働いていた。僕は彼らのコンビネーションに割り入ることができなかったので、焼きそばの露店を担当してきた白石さんの指示に従って、紙皿や割り箸の準備を手伝った。

 焼かれ始めた麺を蒸らすために竹さんが水をかけると、鉄板からもうもうと湯気が上がった。すると、それを見ていた入所者や家族たちから拍手が沸いた。揚げ物の露店やパンの露店の職員たちも、竹さんのパフォーマンスに見入っていた。

 竹さんは厳かに「オレは、焼きそば係」とだけ、僕に言ったが、どうやら、毎年行われる敬光学園の忘年会における楽しみの一つは、竹さんのこの実演にあるようだった。

 コンビニエンスストアの前で高校生たちに紙幣を配っていた竹さん。秋の夕暮れに紙パックの緑茶を飲んでいた竹さん。アルバイト先の水族館でマナティーと戯れる竹さん。そして、ねじり鉢巻で華麗に焼きそばを焼く竹さん。僕の中にあった竹さんのイメージに、また新たな一面が加わった。

 竹さんが焼いた焼きそばは、とてもよく売れた。露店を切り盛りしていた竹さんと佐藤かおりと僕、そして担当職員の白石さんが一息つくことができたのは、講堂から散り散りに人がいなくなっていった午後三時頃だった。

 入所者の人数や招待した家族の人数は毎年大きな増減がないそうだが、竹さんが焼いた焼きそばを好んでおかわりをする人や、帰省の道中で食べたり実家へのお土産に持ち帰る人たちが増えたので、竹さんが焼かなければならない焼きそばの量は年々増えているのだと、白石さんが僕に教えてくれた。

「お疲れ様でした」

 思いがけない忙しさにヘトヘトになり、誰もいなくなった会場の一角にあるパイプ椅子に僕が座っていると、佐藤かおりが持ち帰り用の透明なプラスチック容器に入った焼きそばを、白石さんがペットボトルの緑茶を持ってやってきた。その肩越しに、歩きながら頭に巻いていた手ぬぐいをほどいている竹さんの姿が見えた。

「おつかれ……、あれ?焼きそば、完売だったんじやないの?」

 僕はパイプ椅子の背もたれに預けていた体を起こして、佐藤かおりに向かって叫んだ。僕は、まさか開店前に竹さんが指差し確認していた大量の食材が売り切れるとは想像していなかったので、忙しさの中でいつの間にか焼きそばが底をついたことを知り、愕然としていたのだった。

「食いしん坊のわたしに、ぬかりはないわよ」

 そう言って、佐藤かおりはふくよかな胸を張った。例年の経験からか、佐藤かおりが気を利かせて先に僕らの分の焼きそばを引き抜いてくれていたことに、僕は歓喜した。

 僕ら以外の職員がテーブルや椅子の片付けや露店の解体を進めている間、忙しくて昼食も取れなかった焼きそば係の僕らは、会場の隅でひとときの休憩をとった。

「竹さんは、毎年準備から片付けまで熱心に手伝ってくれます……。いいえ、私がこの施設で働くようになる前から竹さんはそうしていたのだから、私が竹さんの手伝いをしていると言ったほうが正しいですね」

 白石さんが少し照れたようにそう言った。その背後にポツンと座った竹さんが、白石さん以上に照れていた。 
 
 佐藤かおりはもちろん竹さんの分の焼きそばも引き抜いていたのだが、竹さんはそれを僕に差し向けて突き返し、頑なに受け取ろうとしなかった。僕が困惑していると、僕の隣にいた佐藤かおりが耳元に口を寄せ「毎年こうなの」と言った。昨年までは、佐藤かおりが二人分の焼きそばを食べていたそうだ。

「竹さんは、誰かが喜んでいる姿を見たいのよ」 

 佐藤かおりが、言った。

「そうね。見返りとか、報酬とかを求めない人だもん」

 白石さんが、相槌を打った。

 竹さんには「見返り」とか「報酬」といった言葉の意味が今ひとつ理解できないようだったけど、やはり自分のことを褒めてくれているのだろうと察し、恥ずかしそうにしていた。

 午前から働き詰めで空きっ腹だったこともあったが、それを抜きにしても竹さんが焼いた焼きそばは美味かった。誰かの運転する車に乗ることも久しぶりだったが、誰かが作ってくれた料理を口にするのも随分と久しぶりのことだった。それが家族や恋人ではなく、職場の上司である竹さんだったことが、僕にはとても嬉しかった。。

 父親と直が亡くなり、友達とも疎遠になってしまった今では、僕のことを「まこと」と呼び捨てで呼ぶのは、竹さんと黒尾以外にいなかった。未だに心を許せない黒尾のことはさておき、竹さんに名を呼ばれることを、僕は厭わなかった。むしろ僕の内側にあるぼんやりとした核になる部分に竹さんが寄り添ってくれているようで、温かい気持ちになった。その竹さんが焼いてくれた焼きそばなのだ。美味くないはずがなかった。

 それから僕らは会場の片付けに加勢し、日も落ちた午後六時過ぎに敬光学園をあとにした。身寄りのない竹さんは寮に残り、職員や様々な事情で帰省できない僅かな入所者たちとささやかに年越しを過ごすのだそうだ。

 毎年忘年会の手伝いに来ている佐藤かおりからそう聞かされて、僕はどことなく後ろ髪を引かれる思いに浸っていた。そこは竹さんの住まいのはずなのに、訪れた僕らのほうが竹さんを置き去りにしてしまうような後ろめたさに苛まれていたからだ。

「竹さんを連れて帰りたいと思ってたんでしょ?」

 黒い軽自動車を走り出させた佐藤かおりは、暗い峠道を慎重に下りながら、言葉少なに助手席で俯く僕の心を見透かしたように、不意にそう言った。

「えっ!?なんでわかったの?」彼女にそう言われて改めて僕は竹さんともっと一緒に過ごしたかったのだと自覚した。「竹さんの家族代わりになれないことはわかってるんだ。ただ、竹さんはいつも誰かのために尽くしているのに、誰からも施されていないような気がしてならなくて……」

 僕は心の中に空いた大きな穴を埋めようとするように、呟いた。

「私もそうだったよ。でもね、それって、エゴなんじゃないかと思う」

 佐藤かおりは小さな手でハンドルを握ったまま、柱に太い釘を強く打ちつけるように言った。

「竹さんは、私たちが生まれる前から周りの人たちと違う・・とみなされて、あの場所に連れてこられて、ずっと囲われている。そして、今でもその違い・・を埋めることができていない。どうしてだと思う?」

 佐藤かおりの問いに、僕は言葉を失った。いや、いつも温和な佐藤かおりが思いがけない強い口調で詰め寄ってきたことに怯んだといったほうがいい。だが、ぼどなくして、父親と直を失ってから僕が受けてきた向かい風の中に、その答えがあるのではないかと、僕は考えた。

「みんな、自分のことだけで精一杯なのかな」
「うん、そうかもね。中には、自分だけ幸せになろうとして、誰かを疎外したり、誰かの大切なものを奪ったりする人もいる」

 やがて僕らは海岸線に出た。国道沿いのホームセンターやファミリーレストランには、まだたくさんの車が出入りしていて、年の瀬の慌ただしさを感じさせた。

 僕は佐藤かおりの言葉を受け止め、火葬場で昇天していく父親を直と並んで見上げていたことを思い返した。そして、僕や母親の前から次々と姿を消していった親戚や友人たちのことを考えた。あまりにも疎遠になったのでうまく顔を思い浮かべられない人も多くいたが、久しぶりに彼らの顔を思い描いてみると、どことなく彼らの表情に僕と母親だけでなく父親や直まで異質・・・とみなしているような蔑みが浮かんでいたような気がした。竹さんの無垢で生真面目な笑顔の裏側には到底存在しないような、卑しい心だ。

「他人のことを気遣う人の本心は、決して当事者の立場に身を置いた労いではなくて、そうすることで自分はまだその人たちよりも不幸ではないと、安心したいだけなんだ。彼らは」

 熱に浮かされたようにそう呟いた僕は、「みんな」ではなく、僕が脳裏に浮かべた叔父や叔母の特定して「彼ら」と言ってしまったことに戸惑った。その「彼ら」の中に敬光学園の入所者の家族や職員の白石さんも含まれているように誤解されはしまいか、僕は佐藤かおりの表情を伺った。

 だが、佐藤かおりに僕の言葉を深読みした様子は感じられなかった。もしかしたら、佐藤かおりも父親が破産してから静かに離れていった親族のことを思い返していたのかもしれない。

「もともと人は弱いものよ。だから、誰だって自分の身を守るためにエゴは持っている。ただ、弱いからって、困難に立ち向かおうとする前に逃げてしまう人がいることも事実。そんな中で、風車に挑むドン・キホーテみたいに滑稽でも果敢に生きる人だっている。それが竹さんだと思うの。竹さんは無自覚のうちに、自分を異質とみなす人たちとの間にある溝を、コツコツと埋めようとしてきた。断ち切られた兄弟との絆を取り戻すかのようにね。でもね、竹さんを自分とは違う・・とみなした人たちが、その溝を溝のまま残しておきたいと、竹さんを突き放してきたのよ。自分の力で強さを身につけるんじゃなくて、自分より弱いものを虐げることであたかも強くなったような気分に浸るために」

 自分の預かり知らぬところで起こった事象の波紋に飲まれて高校をわずか一年で辞めなければならなかった彼女にも、きっと思い描いていた夢があったのだろう。でも、その夢を語る間もなく、彼女は社会に放り出されてしまった。明るく柔和に振る舞っているのも、彼女なりに周囲との間にできた溝を埋める渡世術の一つだったのかもしれない。

 果たして僕は、親戚や隣人、クラスメイトや母親との間にできた溝を埋める努力を怠ってはいなかっただろうか。また、僕らの知らぬ女と父親が心中に踏み切ったきっかけや、直が粉雪が音もなく舞い落ちて溶けるように死んだ一因になってはいなかっただろうか。竹さんと別れた寂しさが、ニートだった間、ずっと僕の心の中に張り付いていた自責の念を呼び起こした。

 周囲の人たちは、「死にゆく人の心のうちなど、誰にも読み取ることはできない」と気休めを言ってくれたが、僕の苦悩は少しも和らぐことはなかった。むしろ、僕の不甲斐なさを叱責してくれる人でもいれば、僕らの家族を襲った暗雲を振り払うために奮起したかもしれない。そういった意味では、不意に我が家に訪れた黒尾は、その手口がどうであれ、僕に苦言を呈した初めての人だった。もしかしたら、彼は本当に僕と母親に寄り添おうとしてくれていたのかもしれない。

「僕が暮らしている世の中は、すっかり澱んでしまった沼のようなところで、僕はその中で息苦しく必死に泳いでいる鮒みたいなものなんだよな」

 僕は後頭部をシートのヘッドレストに預けて、サイドウインドウの向こうに貼り付けられた夜空を見上げたながら、呟いた。

「だとしたら、竹さんはその沼の底から湧いた泉ね」佐藤かおりは嬉しそうに言った。「その泉で沼がすぐに浄化されることはないけれど、少なくとも私たち鮒にとっては、いつか清く透き通った住処になるという希望になるわ」
「私たち?」
 僕はヘッドレストから頭を上げて、佐藤かおりに振り返った。
「え?私はその沼に住んではいないの?まぁ、鮒よりももっと可愛い魚がいいけど」
 そう言って佐藤かおりは小さく笑った。
 日の光が届かない沼の底でも、愛らしい金魚が側で泳いでいてくれるなら、きっと寂しくないだろうと、僕は思った。

「清い泉は汚れやすい。でも、渾渾と湧き続ける強さがある」佐藤かおりは懐にしまった大切なものの所在を確かめるように、静かに言った。「人も同じ。純粋な人ほど傷つきやすい。でも、傷ついた分だけ強くなれるの」

 雲のない高い夜空に、刀で袈裟切りされたような鋭利な半月が浮かんでいた。その淡い月光で静かな海がキラキラと輝いていた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(29)つづく…

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?