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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(23)

〈前回のあらすじ〉
 水族館のアルバイトの帰り道に夕食の食材を買って家に戻ると、父親が心中で使用した車を処分してからずっと空いていたガレージに見知らぬ白いミニバンが止まっていた。それはミネラルウォーターやウォーターサーバーを納品した業者の男のもので、男は直の同級生だと言った。ただ、その素性や振る舞いに諒は怪しさを感じずにいられなかっだ。

23・目も口もないのだが、間違いなく微笑んだ

 僕は海岸の砂浜に座っていた。それは朝だったかもしれないが昼過ぎだったかもしれない。空は十分に明るかったのだが、薄い雲が霞んで太陽の位置がわからなかったから、どちらか判別し難かった。

 海は凪いでいた。細く薄い白線を幾重にも水平に引いたような低い波が、僕の座っている十メートルかそこらの場所で、砕けて消えた。半袖では少し肌寒い頃だったので、季節は春先だったのだろう。風の匂いで季節がわかりそうなものだったが、生憎、夢の中では匂いを感じることができなかった。

 海岸には僕以外にもいくらかの人がいた。波打ち際ではしゃぐ恋人たちもいたし、立ち止まっては歩き、歩いてはまた立ち止まる小さな老犬を連れた人もいた。僕はといえば、なぜ一人で海岸に座っているのかどことなく曖昧なままだったが、そのうち背後から懐かしい声に呼ばれて振り返り、直と待ち合わせをしていたのだと思い出した。

「悪い。待たせたな」

 直は仏を拝むように片手で手刀を立ててから、僕に向かってウインクをしてみせた。

「いや、そんなに待ってはいないよ」

 そもそもいつから僕はそこにいたのか覚えていなかったし、直に呼ばれるまで自分が直と待ち合わせをしていたのだとわかっていなかったので、僕は直を責めたりしなかった。

 直の背後には、白いワンピースを着た女性が立っていた。直の背に張り付くのではなく、二歩か三歩か間を空けて、直に続いていた。彼女が身に纏ったシアサッカー地のワンピースは、長く続く砂浜の海岸線の景色にとても良く合っていた。そのワンピースだけでは肌寒かったのだろうか、彼女はサックスブルーのカーディガンを肩に羽織っていた。

「彼女が僕の恋人だ」

 そう言って、直は後から追い付いて自分の隣に立ち止まった彼女の背に手を添えた。

「そして、彼が僕の弟だよ。諒と言うんだ」
「こんにちは、マコトくん」

 直の恋人として紹介された恋人は、初対面だということに決して臆することなく、風になびいて顔にかかった長い髪を細い指で梳かしながら、僕に向かってそう言った。

 ただ、どういうわけか、肝心な彼女の顔が朧だった。

 柔らかい鼻の突起や小さな目や口のくぼみはあるのだが、そこには眉もなく、眼球も唇もなかった。しかし、何故か恐れはなかった。

 波に戯れる恋人たちにも、苦しそうに立ち止まる老犬にも、しっかりと目鼻があった。それでも、世の中の女性というものは押し並べてそういうものだと受け入れてしまいそうになるくらい、直の恋人の有様は自然で、その立ち姿に全くの違和感がなかった。

「こんにちは」

 僕は砂浜に立ち上がり、尻の砂を払いながら直とその恋人に向き直った。

 直が唐突に僕に恋人を紹介したいと言い出したのは、確かその前夜だったと、僕は思い出した。

 深夜に僕の部屋の戸を叩き、直は僕を呼んだ。すでに床に入っていた僕は寝ぼけた意識の中で、直に入室を促した。するとゆっくりと扉が開いた。

 直は廊下の薄明かりを背負い、僕の部屋の入口に立っていた。

「どうしたの?」
「明日、暇か?」

 直が言う明日というのは、大学卒業を確定させ、父親の推薦で父親が勤める原子力発電所への就職の内定を決めたその日の翌日のことだった。カレンダーで言えば平日にあたったが、その頃まだ高校生だった僕も春休みに入っていたので、その日が平日であろうと週末であろうと、大した用事もなく時間を持て余していた。

「暇だよ」
「紹介したい人がいるんだ。海岸で待っていてくれないか」
「いいよ」

 僕は直感的に、その相手が女性であると理解した。そして、今まで異性の影を感じさせなかった直が唐突にそんなことを言い出したのには、驚かないわけにはいかなかった。だが、何しろその時の僕は落ちてくる瞼に抗うのに必死で、大した受け答えができなかった。

 すると直は小さく頷き、後ずさりをしながら静かに僕の部屋の扉を閉じた。再び部屋が闇に閉ざされると、僕はあっけないほど容易に、眠りに引き戻されていった。

「できることなら、この人と交際していることを、父さんにも伝えたかった」

 直はいつもの優しい笑顔のまま砂浜に立ち、作りかけのマネキンのようにのっぺりとした顔の恋人を振り返りながら、静かにそう言った。

 その様子は決して寂しそうでもなかったし、悔しそうでもなかった。ただ、一日の終わりに指摘されたボタンの掛け違いを虚しく正すように、その機会が自分の身の上に訪れなかったことを、どこか諦めているような印象だった。

「父さんは、直のことが好きだったから、たぶん、喜んだと思うよ」
「そうかな……。オレには、諒のことを気にかけてばかりいたように見えたけれど」
「出来が悪い僕のことを、厄介払いしたかったのさ」
「お前が天の邪鬼なだけなんだよ。お父さんは、オレよりもお前のことの方が好きだったさ」

 直の言い方は、決して辛辣ではなかった。むしろ、僕の奔放さを羨むかのような印象さえあった。

 直は直で、自分が父親の期待に応えようとするあまり、自我を殺してきた道のりを、少し残念に思っていたのかもしれない。

 直は自分の左となりに振り向き、恋人に僕と対峙するように言った。恋人は小さな歩みを踏み出し、僕の前に立った。そして、目があるだろう小さな凹みを僕に向け、じっと僕を『見た』。

「一見似ていないようだけど、よく見ればお兄さんに似ているところはたくさんあるわ」
「そうかな?」

 僕は初対面の年上の女性にそう言われて、くすぐったい気持ちになった。

「えぇ。それが何かって的確に言うことはできないけれど、あなたたちは間違いなく同じ血を分けた兄弟に違いないのね」

 そう言って、直の恋人は微かに微笑んだ。目も口もないのだが、間違いなく微笑んだ。

 それから僕らは、緩やかな海風に吹かれながら、砂浜に立ったまま語り合った。

 僕と直が七つの歳を隔てていることで体験した風変わりな冒険譚や、父親と母親がちぐはぐな夫婦喧嘩を滑稽に繰り広げる様を話し、笑った。

 そして、そのうち、通り雨がなんの予兆もなく上がるように、直が恋人を伴って僕の前から去った。サヨナラも言わず、僕を振り返りもせずに。

 僕はまた、砂浜に一人取り残された。

 それでも、陽は高かった。もしかしたら、永遠に太陽は沈まないのではないかと思わせるような、支配的な明るさだった。

 僕は再び砂浜に腰を下ろし、遠い水平線を眺めた。

 その果ては大きな滝になっていると想像した人がいたという。その日には、凪いだ海に船も浮かんでいなかったので、もしかしたらあらゆる船はすでに奈落に落ちてしまったのではないかとが、僕は想像した。すると、その瞬間、目の前の海がみるみると満ちて、波打ち際の恋人たちや老犬を音もなく飲み込んでいった。やがて、身をすくめて動けなくなった僕をも波が攫おうとした時、風が吹き、無造作に伸びたままの僕の髪が、靡いた。

 僕の夢は、そこで終わった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(24)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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