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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(6)

〈前回のあらすじ〉
 
亡くなった父親と兄の直の墓参りに訪れると、諒は墓前で見知らぬ女と出会う。女は原発で父親の世話になっていたといい、諒は内心でその女が父親の心中の相手ではないかと勘繰る。しかし、その女に掴みどころのない悲壮感はあっても、遺族に対する後ろめたさのようなものが希薄だったことから、諒は困惑する。

 6・海原へ漕ぎ出していく不安と勇気

 柳瀬結子は父親が勤めていた原子力発電所で、父親の部下として働いていた。

 東京の大学を出た結子は、一度は都内のしゅっぱんしに勤めたものの、際限のない仕事量に精神と肉体を病み、地元に戻ってきた。

 しばらくして体調を取り戻すと、親類のつてで原発に就職して。初めて配属されたのは広報課で、その当時、広報課の主任だった父親が、彼女の指導に当たった。

 卵から孵ったばかりのひな鳥が、初めて見たものを親鳥と刷り込むように、結子も右も左もわからぬ現場で、初めて親しい上司となった父親のことを、親密に感じていた。その後、父親が昇格して違う部署に移って行った後も!父親は戸惑うことの多かった結子のことを気にかけたのだそうだ。

 会社という組織の中にいれば、父親に限らず誰しも部下の指導に当たるものだろうが、家の中でもテレビドラマに登場する女優にすら関心を示さなかったうえに、自分の妻とでさえ、必要以上の会話をしなかったような男が、当時無防備な若さを湛えていただろう結子とどのように接していたのか、僕には想像し難かった。未成年の僕から見ても、結子は壮年とは呼び難い瑞々しさに溢れていた。もしかしたら、まだ結婚も出産も経験していないのもしれなかった。

「なぜ、僕らと鉢合わせしないようにと?」

 僕は結子が供えた線香から立ち上る白い煙を眺めながら、そう尋ねた。僕としては、「あなたが心中の相手なのではないのですか?」と暗に問うていた。しかし、その真意を結子が汲み取ることはなかった。

 結子は僕を盗み見るように僅かに視線を向けたが、線香の煙を眺めたままの僕とは目が合わないかった。それに安堵したように、結子がゆっくりと口を開いた。

「誤解されると思いまして」
「誤解?」
「えぇ」

 そう頷くと、改めて僕に向き直った。

「会社の元部下が、それも歳の離れた女が、一人で墓を見舞っていたら、どこか不自然で、いかがわしいでしょう?」
「そういうものですかね?」

 明らかな不信感を結子に対して抱いていたのに、僕はそんな風にとぼけて見せた。

「わたしは、そう思ったんです。かといって、進さんを悼む気持ちの行き場もなくて、こうして足を運ぶようになりました。墓地にやってくるたび、進さんに会える喜びと、ご家族に会ってしまう恐れとの狭間で、いつも困惑していました」
「よほど、父親はあなたを大切に思い、あなたも父親を信頼してくれていたのでしょうね」
「そうとあったと願いたいです」

 結子は恥ずかしげもなくそう言うと、手に持っていたバッグを腋に挟み、改めて墓前で静かに手を合わせた。
 僕はピリピリと頬を凍えさせる寒風に身を晒したまま、結子の横顔を眺めていた。
 
 端正な一重まぶた、低めの鼻梁、赤ん坊の尻のようにぷっくりと盛り上がった頬、厚めの唇。決して美人ではないが、結子の容姿は一つ一つの部位の主張が控えめで、従順な日本犬の印象を僕に与えた。しかし、父親がどのような気持ちで彼女に肩入れし、死後から数年経っても墓参りに来てくれるような信頼を植え付けたのかまでは、その佇まいからは伝わってこなかった。

 家庭の中での父親の振る舞いは堅実であり、同時にもどかしいほどに慎重だった。その父親が、結子とは何故か親密であった。僕の拙い経験値では、そのような男女関係を、理解することができなかった。

 ただ、確信できたことは、結子と母親とでは女としての「種」が明らかに違っているということだった。同じ陶器でも、母親が泥くさい美濃焼であったとすれば、結子は乳白色の美しい有田焼のようなものだった。

「残念なことに、僕はそれほど父親とは親密ではなく、共に何かに打ち込んだり、あるいは父親の行いを手本にして、自分を磨こうとは考えなかったんです」
「立派なお父様だったと思いますよ」
「えぇ、それは認めます」

 僕はそう言って、乾いた頬を指先で撫でた。照れ隠しの時に現れる僕の癖なのだと、直に指摘されたことが思い出された。

「ただ、なんていうんだろう。僕が在来線を各駅停車で走っていたとしたら、父は一段高いところにあるレールを走る特急列車のように、優位に僕を追い越し、追従を許してくれませんでした」
「穏やかな方でしたけど、仕事になると、それは熱心でした」

 乾いた秋風が、向き合った墓石の間に敷かれた石畳を撫でるように吹き過ぎた身体を父親の墓石に向けたまま、顔だけを僕に向けていた結子のキャメル色のコートの裾が揺れた。

「父親は、兄との方が相性がよかったんです。原発に兄を誘ったのも父親たったし、きっと兄は父親から受け継いだ血が、濃かったんでしょう。僕の血には、それほど父親の要素が含まれていなかった」
「早すぎます」
 
 不意に結子が語調を強めてそう言った。

「え?」
「あなたがあなた自身を決めてしまうには、まだ早すぎるわ」結子は僕に向き直り、思いがけない頑固な面持ちでそう言った。「若さの特権は、水平線しか見えない海原へ漕ぎ出していく不安と勇気を、恐れることなく背負えることじゃないかしら」

 その表情は険しく、僕が父親と直と自分自身を安易に区分けしたことを戒めているようにも見えた。それと同時に、強い言葉の裏では、父親と直との違いはあって当然で、その格差に劣等感を感じる必要などないと慮ってくれているような優しさが滲んでいた。

 ふと僕と目が合うと、結子はゆっくりと強張った厚い唇の両端を上げ、菩薩のような微笑みを僕に投げかけた。

「不安と勇気……」

 自ら命を絶った池と直。心を閉ざしたままの母親。高校は卒業したものの、進学する気力も湧かず、父親と直の死亡保険金で無気力な毎日を過ごしている僕。第三者に不安という言葉を突きつけられると、僕は自分が、足元もおぼつかない暗闇を、石の十字架を背負って生きてきたのだと、改めて思い知らされた。

「ごめんなさい。私はあなたのことを何も知らないのですよね。それなのに、図々しいことを言ってしまいました」

 そう言って、結子は一歩退き、腋に挟んでいたバッグを両手で前に持ち直して、僕に向かって頭を下げた。

 僕は、結子が放った「不安と勇気」という言葉を、ぼんやりと思考の中で反芻していた。

 不安とは何か、勇気とは何か。

 父親や直の自殺で家庭が崩壊してしまったことに不安は付きまとった。でも、その不安がいつ誰の手によって解消されるのか誰も教えてくれなかった。だから、不安に打ち勝つ勇気とか、社会に飛び出す決意の意味も、よくわからなかった。僕自身には「不安」や「勇気」など、言葉以上の重みを一切持てなかった。同じように「安心」とか「失望」とかにも、僕はとんと無頓着だった。

 そんなことを考えているうちに、僕の前を小さな影がよぎった。その影は、結子だった。

 柳瀬結子は何も言わず、唐突に小走りで敷石の上を駆け抜けた。僕は不意に僕から離れていく結子の背に向けていうべき言葉を探したが、大きな十字路をひだりにおれて、結子がその姿を消してしまうまでに、結局何も言葉を見つけられなかった。

 果てして柳瀬結子は本当に父親の心中の相手だったのだろうか。

 初対面の僕に対して、進路のことで深入りした発言をしてしまったことに狼狽えた結子を目の当たりにすると、僕は何だか拍子抜けしてしまった。心中の相手であれば、むしろ厭世的で、僕と鉢合わせになってしまい、錯乱するような身勝手な人であって欲しかった。

 僕はまだ「兆し」を感受するアンテナを研ぎ澄ますことができていないのだろうか。いずれにしても、柳瀬結子はサヨナラも言わずに、僕の前から消えてしまった。

 僕はしばらく結子が残した気配を拾い集めていたが、それらが革手袋を嵌めた掌の上で消えてしまうと、僕は乾いた秋の静寂の中で立ちつくす以外になかった。

 僕はようやく父親と直が眠る墓石に振り返り、たすき掛けにしたショルダーバッグの中から、コンビニエンスストアで買った線香を取り出して、火をつけた。

 一斉に立ち上がった炎に一瞬怯み、慌てて線香の束を振ってその火を消した。そして、先に結子が焚いた線香の上にゆっくりとそれを重ね、結子が供えていった花が入った花器に自分が持ってきた菊の花を無理やり押し込み、僕は墓に向かって手を合わせた。

「今日は思いがけず、お父さんの知り合いに会うことが出来たよ。なんだかよくわからない人だったけど、これで少しは僕も外界に引き上げられた気がした。生憎、お母さんはまだ殻の中に閉じこもっているけどね」

 いずれにしても、僕と柳瀬結子との会話は父親にも直にも筒抜けだったことだろう。それでも、直が死んでから自分の身の回りからは一人また一人と僕や僕の家族に関わっていた人たちが離れていってしまい、程なくすれば僕は母親とともに陸の孤島のような、あるいは日の差し込まない牢獄のような場所で孤立してしまいそうだったので、今、生きている僕と母と、彼岸に行ってしまった父親と直とを繋ぐ柳瀬結子が現れたことは、僕や母親の前途にいくらかの道が拓けていると予感させてくれた。その存在に多少の胡散臭さを帯びているとはいえ。

 墓前で手を合わせて目を閉じた僕の頬を切るように、また冷たい秋風が過ぎていった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(7)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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