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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(24)

〈前回のあらすじ〉
 突然現れた直の同級生と騙る黒尾圭一郎との出会いの後、直のベッドでうたた寝をした諒は、直の夢を見た。直は恋人を伴っていたが、その恋人には目鼻がなかった。それでも諒は直が自分に恋人を紹介してくれたことで、直との間にあった見えない壁の一つを、取り払うことができたような気持ちになっていた。

24・当たり前のように受け入れていたその湖の黒が、とても深く暗いことを再認識させられた

 翌朝、目覚ましもかけてなかったのに、アルバイトに出かける時間に間に合うように、僕は目覚めた。知らない間に足元にあった毛布を引き寄せて、僕はそれに身を包んでいた。点けっぱなしだった灯油ストーブは、燃料タンクの灯油を燃やし尽くして、自動的に消火されていた。

 ピーコートを脱いで直の部屋から自室に入り、服を着替えた。汗ばんだフランネルシャツとTシャツを脱ぎ、ロングスリーブのTシャツの上に厚手のセーターを着た。そのうち、前日の佐藤かおりとのやり取りを思い出し、ジーンズの下に綿のタイツを穿いて、再び直の部屋に戻った。そして、和室の長押にかかっているM65を羽織り、空いたハンガーにピーコートをかけて、長押に戻した。

 僕には僕の冬服があったのだが、直を失って以来、僕は直の上着ばかり愛用していた。彼への追慕もあるが、持ち主のいなくなったそれらの服が、誰にも着られることなく、部屋で寂しそうにしているようで仕方なかったのだ。そして、そう考えて何気なく羽織ってみたところ、思いの外、僕の体にしっくりと合ったので、直への追慕に匹敵する愛着が生まれたのだ。

 二階から階下に降りて朝食をとるために台所に入ると、昨夜母親のために整えた膳がきれいに平らげてあり、皿も洗われていたことに驚いた。いつもであれば、僕の用意した食事に軽く手を付けるくらいで多くを残し、皿や箸もそのまま置きっぱなしのはずだった。これも、突如(母親にとってはそうではないかもしれないが)我が家にやってきた黒尾という男の影響なのかと、僕はなんだか落ち着かない気持ちになった。

 冷蔵庫から紙バックの牛乳とマーガリンとストロベリージャムを取り出し、炊飯器の脇においてあるプラスチックの保存ケースに入っている食パンにマーガリンとジャムを塗った。気分によって、食パンをトースターで焼くこともあったが、大概焼かずにそのままジャムを塗るのが、僕の常だった。

 働くようになってから、滅多に朝食を抜かないようになった。やはり、朝食を食べていないと、午前の仕事が辛くなると知ったからだ。

 水切りラックから取り上げたグラスに牛乳を注いでいるとき、テーブルの上にレンガ色の装丁の大きな冊子が置いてあることに気付いた。電灯を点けていなかったので見落としていたが、改めてダイニングの電灯を灯してよく見れば、それが直が通っていた高校の卒業アルバムであることがわかった。それを見て、僕は迷宮から脱出するための扉の鍵を見つけたような気持ちになり、心を逸らせた。

 閉じた卒業アルバムの上部から、薄い何枚かの紙が栞代わりのようにはみ出していた。二口食んだ食パンを慌てて咀嚼し、牛乳で食道へと流し込んだあと、その紙片を頼りに僕はページを開いてみた。

 紙片は母親が購入したミネラルウォーターの納品書と請求書、そして、黒尾圭一郎との間に交わした申込書の控えだった。
 
 そこに記載されている数量は、大量のミネラルウォーターが我が家に届いた日に僕が数えた数と合致しており、単価と合計額は、昨夜黒尾が口頭で示した金額と合致していた。改めて正式な伝票で示されると、その法外な価格に目眩がした。
 
 申込書には確かに母親の実印が捺されており、裏面の規約にも黒尾が提示した違約金についての文言が記載されていた。その申込書から、母親が分割ではなく、一括で支払いをしていることもわかった。もしかしたら、昨日のような言葉の巧みさで、母親は黒尾に言いくるめられたのかもしれないと、僕は訝しく思った。

 納品書と請求書と申込書の控えを取り出して卒業アルバムを開くと、そこには直が属していたクラスの生徒たちが紹介されていた。

 まず、大きな集合写真があり、僕はその中にすぐさま直を見つけることができた。

 幼い頃から長身だった直は、小学校の運動会でも中学校の修学旅行でも、集合写真の最後列にいた。だから、高校の卒業写真でも他と同じように構図の上の方にいるに違いないと予想できた。その予想はまんまと的中し、直は高校の集合写真でも最後列の、さらに一番端にいた。見た目は高校生のくせに、その佇まいに無邪気さの欠片も感じられないのは、直らしいといえば直らしかった。

 それから僕は、個別に撮った直の写真を探した。あいうえお順であれば、逸見という姓の僕らは、大概後方とか下部にいることが多い。特に不満ではなかったが、「相川」とか「伊藤」という姓の人たちの心境を知りたいと思ったことはあった。彼らは学校でもまず最初の方に呼ばれ、電話帳でも最初の方に列記されていた。何かが後回しになる不利益が僕らにはあったが、それとは対照的に何事も先に取り扱われる理不尽さが彼らにはあるのかと、僕は考えたのだ。僕のクラスに「相川」というやつも「伊藤」というやつもいたが、もちろんそんなくだらない疑問を投げかけたことは一度もなかった。

 直はやはりベージの下の方で薄い笑みを浮かべていたが、その何段か上の方に見覚えのある顔があるのを、僕は認めた。

 その写真の下には「黒尾圭一郎」と書いてあり、屈託のない笑顔は、昨日我が家に訪れたミネラルウォーターの販売をしている男にも宿っていた。昨日見た黒尾と卒業写真との違いといえば、写真の方が黒髪であったことと、その当時のほうが現在の黒尾よりも襟足が長かったくらいのものだった。撮影から十年は経過しているはずだったが、それでも昨日の黒尾は若々しく、高校生の頃の少年っぽさを存分に残していた。

 僕はダイニングテーブルの上にそのページを見開きにし、立ったままマーガリンとストロベリージャムを挟んだパンを再び食べた。

 定期購買を示唆していった黒尾だったから、次に我が家を訪れた時に、僕の中に生まれた売買契約にかかる疑念を一つずつ問いただすつもりでいた。だが、それに先手を打つように、僕の胸の内の疑念を察した母親が、売買契約の正当性を証明し、黒尾の素性を明らかにする材料を提示してくれていた。それは、僕の心情を慮ってくれたのかもしれないが、直の友人と称する黒尾を庇っていたようにも思えた。

 母親が提示した卒業アルバムといくつかの紙片で、大方の疑念が解決された。伝票や申込書はいくらでも偽造できただろうが、卒業アルバムを悪用して、同窓生を狙って片っ端からミネラルウォーターを売りに行くことにも、利点だけではないような気がした。現代は様々な悪徳商法が蔓延っているが、本当の悪徳商法ならば、もっと効率のいい方法を選んだはずだった。自らの足を運び、重い水を運び、腕まくりをしてウォーターサーバーを設置していた黒尾は、やはり母親を弄んだりはしていないのかもしれない。

 それでも、どこか喉元に何かを詰まらせたような違和感が、僕に残っていた。

 それは、そもそも直と黒尾が本当に友人関係にあったのかという疑念だった。

 生真面目な直に対し、卒業アルバムで微笑む黒尾は、やはり軽薄に見えた。七つの歳の差で、直の高校時代から僕の高校時代の間で流行りは大きく変わったが、その世代を構成するタイプの分布は、あまり大差がないのではないかと思った。

 勉強も運動もできる一握りの存在。勉強はできるが運動や流行には疎い部類。勉強は滅法苦手だが、運動には心底打ち込んだり、とにかく年中おちゃらけているキャラクター先行のタイプ。そして、勉強とも部活動とも疎遠で、とりあえず他にやることがないから一先ず高校に来ているような輩。僕の世代でも、こうした大きな分類に分けられた。直は運動が苦手だったが、勉強はよくできた。僕はその反対で、スポーツは広く浅く万能にこなしたが、そうした熱意を勉強に向けられないタイプだった。そして、黒尾はといえば、成り行きで高校に進学し、他にやることがなかったので、遊び相手に会いに学校に来ていた最底辺の部類に当てはまっていたように思えた。しかし、仮にも秀才と呼ばれていた直と同じ学校を受験して合格していたのだから、黒尾という男も、決して凡才ではなかったのだろう。ただ、多くの卒業生が有名大学に進み、一流企業や官公庁に勤めていたにもかかわらず、黒尾だけが自分の車でせっせとミネラルウォーターを運ぶような仕事をしていることが、やはり僕には理解できなかった。

 いくら知り合いの家に納品に行くからといって、わざわざ代表取締役社長が自分でウォーターサーバーの設置に来るのは不自然だった。母親の様子を案じて、自ら率先して担当してくれたのかもしれないが、それでも設置や運転は社員に任せて、自分は母親との世間話にでも没頭していればよかっただろう。それなのに、一人でやってきたというのは、察するに黒尾は一人で、あるいは必要最小限の社員で会社を切り盛りしていたのではなかろうか。僕は暗闇の住宅街を走り去る眩しいほどに明るいミニバンのテールランプを思い返しながらも、やはり直と黒尾の共通点を見い出せなままでいた。

 取り出した納品書などを一つにまとめ、見開いていたベージに戻して、僕は直の卒業アルバムを閉じた。ガラス戸を隔てた向こう側の居室には、母親の気配があったが、ミネラルウォーターを購入したことを明らかにするものを丁寧に用意してくれた母親に、まだ声をかける気にはなれなかった。僕の出勤に合わせて直の卒業アルバムをダイニングテーブルの上に用意した意図が、直を偲んでの行為だったのか、直の友人であり、自分の身を案じてくれた黒尾の潔白を証明する行為だったのか、単に自分の突飛な買い物を正当化しようとする言い訳に過ぎなかったのか、僕に判断できなかったからだ。

 ウォーターサーバーは台所に設置されたが、玄関には相変わらず『金環水』という文字が印字された段ボールが高く積まれたままだった。僕は玄関ドアの中央にある縦長の採光窓から差し込む朝日に目をに細めながら、靴を履き、三和土に立った。

 僕が水族館で働くようになる前から、きっと黒尾は何らかの方法で母親に接近していたのだろう。そうでなければ、頑強な自分の世界を築いてしまった母親の懐に、これほどまでも容易に入ることはできなかったはずだ。だとしたら、僕がこうして家を出て働くようになることも、黒尾は予想していたのかもしれない。そう考え始めると、水族館の本を不躾に送りつけ、僕を外界へ誘導したのも、黒尾の魂胆のようにも思えてきた。

 一つ一つの事象が、料理や建造物を作り上げる過程のように、抜け目なく然るべきタイミングで、僕のもとに運ばれてきた。なんの前触れもなく、父親と直の墓前に柳瀬結子が現れたのも、そうした事象の一つにさえ思えた。

 僕の中にある黒い湖の水面に風が吹き、ざわざわと波が立った。その波は、あっけないほどに淡く消えるのだが、わずかに波が立つことで、当たり前のように受け入れていたその湖の黒が、とても深く暗いことを再認識させられた。黒尾の存在は、そのように僕の恐れと不安、そして僅かな希望を誘発させた。

 玄関を出ると、爽快な冬晴れだった。僕は手に持っていた革の手袋を丁寧にはめ、ガレージに置いていたマウンテンバイクに跨った。そして、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。そうすることで、母親のこともミネラルウォーターのことも黒尾のことも、脳裏の隅に追いやりたかったのだ。

 吐いた白い息が、今にも凍らんとするかのようにぎこちなく漂い、隣家の庭へと流れていった。

 僕はなかなか頭の中から消えない邪念を追い払うために、佐藤かおりのことを考えた。そして、次に竹さんのことを思い浮かべ、最後には深い水槽の中に浮かぶつがいのマナティーのことを考えた。そうすると、いくらか気持ちも楽になった。そして、ようやく僕はマウンテンバイクのペダルを強く踏み込み、乾いたアスファルトに走り出した。

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(25)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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