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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(26)

〈前回のあらすじ〉
 年の瀬が近づいた頃、諒は佐藤かおりから年末の休暇の予定について尋ねられた。それは竹さんが住む養護施設で行われる忘年会への誘いだった。母親と二人だけで年越しをするつもりもなく、諒はその誘いを快諾する。

26・まだ僕らは、人生の序章をたどたどしく生きているに過ぎないんじゃないかな

 佐藤かおりが年内最後の客を水族館から送り出した頃、僕ら飼育棟の職員も作業を終えていた。

 長い休暇を貰ったとはいえ、動物や魚たちの世話はしなければならないので、休館中は当番制で魚に餌を与えたり、水質の管理のために出勤しなければならなかった。しかし、僕はアルバイトの身で、佐藤かおりは事務員という立場だったので、初めから当番表には組み込まれていなかった。竹さんはといえば、敬光学園の忘年会の日だけ毎年休暇をとっていたが、それ以外の年末年始はほとんどベーブとピッピのもとへ足を運んでいるらしい。

 仕事納めの帰り道、飼育棟の裏に停めたマウンテンバイクのもとに向かう僕の後を、佐藤かおりが追ってきた。僕らは敬光学園の忘年会に出向く日程を具体的に話していなかったので、歩きながら待ち合わせの時間と場所を決めた。

 僕は直のM65を羽織り、首にグレーのマフラーを巻いていた。手袋をはめた左手でマウンテンバイクを転がしながら、もう一方の手はM65のポケットに突っ込んでいた。佐藤かおりは大きなボタンのついた深い茶色のウールコートを着ていた。クリーム色のマフラーを巻いていたが、僕が結び目を前にしていたのに対し、佐藤かおりは首の後ろで無造作にマフラーを結んでいた。

 職場では部署も違ったし、昼休みを取るタイミングもズレていたので、なかなか佐藤かおりと言葉を交わす機会を持てないでいた。だから、いつの日だったか、飼育棟で高木主任についていく彼女の後ろ姿を見つけたときに竹さんが激高した訳について、彼女に助言を乞うことができないでいた。

 夜の国道を走る車が歩道を歩く僕らの脇を走り過ぎると、頬を切るような冷たい風が僕らを取り巻いた。僕らはそのたびに目を細め、冷気を吸い込んでむせないように、首をすくめてマフラーに口元をうずめた。

「えっ、五年目!?三年目じゃないの?」

 僕よりも一つ年上の佐藤かおりは、高校を卒業してから水族館に就職したのかとばかり思っていたが、改めて尋ねてみれば、実は高校一年から二年に上がる春に中退して、そのまま父親の紹介で水族館に雇ってもらったのだそうだ。年齢の割に落ち着いていて、年配の職員とも円滑に交流しているのはそのキャリアのせいだと、僕は合点がいった。もちろん彼女の朗らかな性格も大いに影響しているのだろうが。

「結局、私が家計を支えなきゃやらなかったから」

 言い訳をするのでもなく、誰かのせいにするのでもなく、佐藤かおりは自分の身の上に訪れた思わぬ不遇を、まるで眠りに就こうとする子供に童話を読み聞かせる母親のような穏やかさで語った。

「身体を壊したお母さんがずっと療養していたの。入院費も随分かかっていたのに、保険が効かなき高度な治療が続いて、お父さんの収入ではまかないきれなくなったの。お母さんのためだからといって、私の将来のために積み立てていた貯蓄も切り崩してしまったんだけど、我が家の貯金が底をつくのを見届けたように、あっけなくお母さんは死んじゃった。川面に落ちた枯れ葉があっという間に川下に運ばれていくように、遠くに行ってしまった。お父さんはとてつもない喪失感に押しつぶされて、働くことをやめてしまい、そのうち家のローンも返済できなくなって、肩代わりに家も取られてしまったの。残されたお父さんとおばあちゃんと三人で生きていくためには、私が働かなきゃならなかった」

 佐藤かおりが語る身の上話は、おそらく不遇を絵に書いたような、という形容をすべき話なのだろうが、立て続けに二人の家族を亡くした僕は、良くも悪くも幸や不幸を見定めるセンサーを狂わせていたので、思いの外冷静に佐藤かおりの言葉を受け止めていた。

「じゃあ、家事はおばあちゃんが?」
「私が学校を辞めて一年もしないうちに、おばあちゃんは亡くなったわ。もう一年早く逝ってくれれば、もしかしたら学校を辞めないで済んだかもしれないけれど、そういう星の巡りなんだなって思い始めたら、いろんなことがスッと胸の奥に落ちていったの」

 佐藤かおりは外灯の光を鈍く照り返す歩道に目を落としながら、そう言った。

「星の巡り?」
「運とか縁とか、目に見えないいろんのもの。そういうものって、人の力ではどうにも動かすことができないでしょ?『運は自分で掴むもの』なんていう人もいたけど、軽々しくそういう人は、すべてのことにおいて他力本願な人。私はそう思う」

 生憎その当時、僕の周りにはその場を取り繕うように軽率な言葉を吐く人がいなかったから、佐藤かおりの所見が正しいのか歪んでいるのかわからなかった。よくよく考えてみれば、父親や直がいなくなってから、そのような助言をする人も残された僕や母親に関わろうとしなかったのだから、僕の耳に届いてなくて当然だった。

 他力本願な人を軽率だと思う気持ちは、堅実に目標に向かって努力を積み重ねていた直だったら、すんなりと同調できたのではないかと、僕は思った。それと同時に、軽率がスーツを着て歩いているような印象の黒尾だったらどうだろうかと、僕は漠然と想像してみた。

 黒尾は、いい意味でも悪い意味でも他人に流されることなく自我を貫いていた。きっと彼は軽率であることを擁護することもなかっただろうが、否定もしなかっただろう。飄々としている黒尾ならば「そんなことどっちでもいいじゃん。死んだらそれまで、生きているうちが花なんだよ」などと平然と言うのだろう。

「自分の思惑とは違うところで起こった事象に自分が巻き込まれることになってから、負の連鎖が始まったような気がする」

 そう言ってから佐藤かおりはため息を一つ吐き、その後短く洟をすすった。てっきり涙ぐんでいるのかと思ったが、ただ単に冷気で洟が垂れてきただけのようだった。

「お母さんが死んで、お父さんが破産して、私が退学して、おばあちゃんが死んだ。それらがお母さんの死に起因していたわけじゃないけど、もしもお母さんが快復していたら、違う歯車が違う作用を生み出していったんじゃないかとも思うの」

 なんだかどこかで聞いたような話だと、僕は思った。

 父親が心中で死んでから親戚や近所からの風当たりが強くなり、母親がふさぎ込みがちになった。それから直が自殺をし、いよいよ僕と母親は生きながら魂を奪われてしまったかのように、社会の中で行き場を失っていた。

 もしも、父親が心中などを起こさなければ、起こしたとしても生きながらえていたとしたら、僕らは今とは違う環境に置かれていたかもしれない。直も自ら命を絶つような衝動を回避できたかもしれない。しかし、それは相対的に現在と現在に至るまでの過程を突き合わせているだけのことで、本当の因果は僕らの目に見えないところあったに違いない。あるいは、僕らが考え及ぶところに因果などはなく、佐藤かおりの母親が死ななくても、僕の父親が死ななくても、僕らは今の僕らが置かれている場所とそんなに変わらない境遇にいたかもしれない。

「まだ僕らは、人生の序章をたどたどしく生きているに過ぎないんじゃないかな」
「へぇ、詩的なことを言うのね」

 そう言って、佐藤かおりは上目遣いに僕を見た。

「うまい言葉が見つからなかっただけさ。僕や佐藤さんの今の状態が幸か不幸かなんて、わからない。少なくとも、僕にはね」
「わたしだって、決して今の自分を不幸だなんて思ってないわ」
「気に障ったかい?」
「ううん。どちらかといえば、嬉しい」
 
 小さく首を振って、佐藤かおりは肩をすくめながら微笑んだ。

「嬉しい?」

 僕は、車道を忙しなく走りすぎる車のヘッドライトに目を眩ませながら、その光を避けるように僕は自分の右側にいる佐藤かおりを見下ろした。

「共感してもらえているんだよね?」

 佐藤かおりも、僕を見上げていた。

 背丈の小さな佐藤かおりだったから、マフラーから顎を突き出すようにしなければ隣の僕を見上げられなかった。その仕草は、水族館のショーで巧みな芸を披露したあとに飼育員からの褒美を待っているアシカのように見えて、愛らしかった。
 
 僕は、佐藤かおりの問いに黙って頷いた。車のハイビームに照らされていたから、僕の不器用な仕草でも、佐藤かおりに伝わったに違いない。

 それから僕らは、コンビニエンスストアに立ち寄った。僕は休暇の間の朝食になる食パンと牛乳を二人分買い込んだ。レジの前で佐藤かおりと鉢合わせると、彼女は竹さんが飲んでいた緑茶のような紙パックに入った500mlのカフェオレとサンドイッチを手に持っていた。それを僕に見られて、「お腹すいちゃった」と佐藤かおりは愛らしく舌を出して、言い訳をした。

「敬光学園は山の中だから、自転車で上るのは大変ね。だから、30日は私の車で一緒に行こう」

 コンビニエンスストアを出ると、佐藤かおりが忘年会へ向かう肝心なスケジュールを確認した。

「向こうで何かと手伝うこともあるから、九時に水族館に集合ね。そこまで、自転車で来てもらうことになるけど、いいかな?」
「もちろん」

 元日を挟んで一週間近い休暇をもらったものの、佐藤かおりの誘いを躊躇うことなく承諾したように、その間に僕のやるべきことなど、何もなかった。だから、佐藤かおりに敬光学園の忘年会に誘われるまでは、僕は水族館に赴いて、休日当番のサポートをするつもりでいた。僕の上司でもある竹さんが忘年会がある30日以外は水族館に来ている聞いてから、僕はそう決めていた。

 僕らはコンビニエンスストアの前で別れ、佐藤かおりは歩いてきた道を戻るようにして、職員駐車場に向かった。退勤の時間に水族館の前を走る去る佐藤かおりを時折見かけたが、小柄な彼女が運転席に収まると、ワンボックスタイプの黒い軽自動車でもとても大きな車に見えた。

 僕は手に持っていた食パンと牛乳が入ったプラスチックバックをバックパックに押し込み、マウンテンバイクに跨った。

 同世代の女の子と二人きりで出かけるなんて、いつ以来だっただろう。小中学生の頃の淡い男女交遊を数に数えなければ、もしかしたら僕にとっては初めての出来事になるかもしれなかった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(27)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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