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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(7)

〈前回のあらすじ〉
 
父親の心中の相手とも知れない柳瀬結子に、思いがけず「自分自身を決めてしまうには早すぎる。若さの特権は、海原へ漕ぎ出す不安と勇気を怖れることなく背負えること」と手厳しく戒められた諒は、一人秋風の吹きすさぶ墓苑で立ち尽くしていた。

 7・精神をうんぬんするのは、ほとんど迷信だ

 父親が亡くなってからの僕らの暮らしは、思いの外、平穏であった。

 父親の自殺を早々に風化させたがる親族のお陰で、その後僕らの家庭に激しい風が吹くことはなかった。ただ、風が吹かなかった分、酷く淀んで疲れ切った我が家の空気が清浄化されることはなかった。それは僕らが確実に住宅街の悪性腫瘍と認められた証でもあり、足を取られた沼からこの先ずっと脱出できない宿命を暗に突きつけられたようなものであった。

 そんなある日、仕事から遅く戻った直が、自分で拵えた茶漬けをかきこんで一息ついた後、外国から渡来した新しいスポーツのルールブックでも朗読するかのように、僕に言った。

「かつて、ダーウィンはこう言った。『人間と野獣の身体は、同じ一つの型から出来ていることが証明された。精神をうんぬんするのは、ほとんど迷信だ』とね」

 前歯に小さな海苔が付いたのを、舌先で剥ぎ取ろうと苦慮していた直は、僕の感想や反応を期待している風ではなかった。それは、その場に僕がいることなど関係なく吐き出された、次の試験に出る方程式の暗唱に似た独り言だったのかもしれない。

「『進化論』にそんなことが書いてあったのかい?」

 僕は僕に無関心な直の気を引こうとして、自分の知り得る限りのダーウィンに関する知識を絞り出してみた。だが、その一言は、情けないことに僕にとっての最初で最後の一手だった。

「さて、『進化論』に記述があったかどうかは俺も知らん。俺が聞いたところによれば、それはダーウィンのあるメモの一文だったそうだ」
「人間が野獣と同じだって?」
「ああ、そうだ。それどころか、もしかしたら、人間は野獣以下の存在かもしれない」

 僕を見ずに台所の天井を眺めながら話す直の喉仏が、大きく上下した。おそらく、歯に付いた海苔が取れて、それを飲み込んだのだろう。

 僕は直が何を言わんとしていたのか、掴めないでいた。

 直が携わる原発の仕事の上で、ダーウィンの『進化論』が取り沙汰されるとも思えなかったし、同僚や上司から禅問答のようなダーウィンのメモを突き付けられることもなかっただろう。ただ、僕にとっての直は、教師よりも父親よりも信頼ある人生の手本であったから、その一言一句に絶対的な意味があるのだと、僕は確信していた。

「最後、なんて言ったの?」
「『精神をうんぬんするのは、ほとんど迷信だ』」「うんぬんって?」
「それは訳者の意訳でしかない。つまり、人間と野生の動物の生態はこれほどまでに似ているのだから、精神の本質についてもきっと同様であるに違いないということだ」

 そう言うと、直はダイニングの椅子から立ち上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、グラスに注いだ。ペットボトルの蓋をし、再び冷蔵庫にそれを戻すと、グラスの中ほどまでミネラルウォーターを注がれたグラスを手にとって、再び椅子に腰掛けた。

「ネズミとシマウマと人間は全く違う生き物のように見えるが、その頚椎の数は同じく七つだ。同じ霊長類のチンパンジーなどは、もはや遺伝子の九十五パーセント以上は人間と変わらない。むしろ、チンパンジーとゴリラとの遺伝子の差の方が大きいくらいだ」
「ほんとに?」
「ああ、本当だ。だから、いくら服を着て、車を乗り回して、インスタントフードやレトルト食品を食べていても、所詮人間は野獣に変わりはないのさ」

 高校生だった僕が、学校では教えてくれない広い見聞を直から聞かされて、何度感嘆のため息を漏らしたことだろう。この夜も、僕は直の思いがけない独り言に舌を巻いていた。
 
 だが、何故その時、直がそんな話をしたのか、僕にはわからなかった。遅くまで仕事をして、気分転換のために原発とは全く無関係な話題を零したかったのかもしれないし、どこかで身につけたダーウィンの逸話を、さりげなく僕に披露したかったのかもしれない。いずれにしても、その話は僕には新鮮で、改めて自分の兄の偉大さに感激しないわけにはいかなかった。

 だが、次の一言で、僕は身も凍る思いをした。

「俺も諒も、野獣だ」

 さっきまでぼんやりと天井を見ていたはずの直が、ぜんまいが切れてしまったからくり人形がぽきりと首をかしげるように、歪な姿勢で僕を見つめながらそう言った。

 その瞳は、全く意思を持たず、半紙に落ちた大きな墨汁の滴のように、深く黒かった。

「肉を喰らい、魚を喰らう。厄介なのは、野生と同等であるはずの精神が暴走し、我々が『欲』を身に着けてしまったことだ。必要以上の狩猟や生産を繰り返す。余れば廃棄して、足りなければ搾取する。そうなってしまえば、もはや我々は野獣以下だ」

 直はふいに立ち上がり、グラスのミネラルウォーターを飲み干した。そして、おもむろに空になった茶碗とグラスを流し台に運んで、箸とともに洗った。

 僕だったら、腹が満たされてしまったなら、すぐさま片付けることなど思いつきもしない。まだ茶碗の中にしっとりと水分が残っているうちなら洗浄も楽であることは分かっている。それでも、僕はテーブルや流し台に使った食器を置きっぱなしにしてしまう。翌朝にそのみすぼらしい様を見て後悔することを知りながら。

「進路は決まったか?」

 洗った茶碗を布巾で拭きながら、直が僕に尋ねた。

「たぶん、情報処理専門学校の線で収まると思う」「そうか」

 もしも父親だったら、その先の展望まで深く追求してきたに違いない。そうされたら、僕には明確な計画を提示する術がなかった。そもそも、情報処理専門学校にだって熱望して行きたかったわけではなかったのだから、その先にパソコンや電子関係の仕事に就くような展望があるはずもなかった。おそらく、他人事のように「たぶん」と言った僕の言葉から、直は僕の心中をあっさりと見透かしていたに違いない。

「ま、無理せず、ぼちぼちやれよ」

 そう言って、直は水気を拭き取った茶碗を戸棚にしまい、布巾をハンガーにかけて、ダイニングを出ていった。

 僕は少しだけ自分の不甲斐なさに落胆しながら、その一方で直の中にある小さな火種を見つけてしまったような不安に襲われていた。

 その火種は畏れだったのかもしれないし、疑念だったのかもしれない。強迫観念だったかもしれないし、絶望だったかもしれない。だけど、僕にはそれが、何かに引火してしまえばまたたく間に大火になってしまいそうな恐ろしさを孕む火種のように思えてならなかった。

 ただ、その時にはすでに母親は睡眠導入剤なしでは眠れない身体になり、すっかり外出もできなくなっていたから、直が八方塞がりの我が家の状況に翻弄されているだけだと思い込むことで、僕はその火種を看過した。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(8)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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