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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(10)

〈前回のあらすじ〉
 
誰かから不意に届いた水族館の本に触発され、諒は死んだ直が残していったロードバイクに乗って、街の海岸線に佇む水族館にやってきた。世間とも親戚とも隔絶された世界から、人間のいない海洋生物だけの世界へ飛び込んでみると、諒は優雅さや純朴さに包まれた。そして、帰り際に「アルバイト募集」の掲示を見つける。

 10・兆しが導く方へ

 僕は父親の知り合いだと打ち明けた柳瀬結子が言った「無知な若者の特権は、不安と勇気を背負えること」という言葉を、墓地からの帰り道、何度も脳裏で反芻していた。

 柳瀬結子は父親の元部下で、今でも心中の相手であるという疑いを払拭できない相手だった。その柳瀬結子と、墓前でほんの僅かな時間を過ごした。僕が進路や母親の身辺の世話で無気力になりつつあった頃も、柳瀬結子は健気に父親の墓を参っていてのだろう。そんな彼女を、僕は短絡的に恨んだり憎んだりすることができなかった。むしろ、彼女が言った言葉の一つ一つに、何かしらの暗示や戒めがあるように思えてならなかった。

 柳瀬結子が言った「不安と勇気」という言葉が、僕に対する戒めであったのなら、僕が悔いるべきことは、世間との断絶を甘受していることのように思えてきた。

 僕は間違いなく「無知な若者」だった。無知が故に何をやっても大人たちから見下され、評価されないと勝手に決めつけていた。でも、そうした劣等感や反抗心こそが、多勢に迎合し、長いものに巻かれることを覚えてしまった大人が備えることのできない特権なのだと、柳瀬結子は言っていたのではないだろうか。

 まるで草葉の陰で僕の怠惰な暮らしを見守り続けてきたような柳瀬結子の言葉は、思いの外、僕の心を揺さぶった。

 父親が失踪をして、その後に自らの命を絶ち、この世からいなくなって以来、僕は直の背中を見つめ続けてきた。頼りがいのある兄としてだけではなく、我が家の次なる家長となった直を、僕は見失ってはいけないと思っていた。決して周囲の雑音に惑わされることなく、直が寡黙に働きに出ていく姿を見て、専門学校の試験に落ちたまま進路も決めずに高校を卒業した僕も、何度か自発的に働く意欲を見せたことがあった。だが、結局働くどころか、目星をつけた求人にさえ、応募をしなかった。当時の家計は父親の貯蓄に加えて潤沢な死亡保険金があつたし、母親が職をなくしても、贅沢をしなければ直の給料で生計を保つことはできていた。直も僕に進学や就職を強要しなかった。恐らく僕が働きに出たところで、小さな町に起きた如何わしい心中事件が掘り起こされ、僕の労働意欲を削いでしまうことを、直は予測していたからだろう。

 卒業資格の出席日数をクリアすると、高校に通う理由がなくなった僕は卒業式にさえ出席しなかった。そうした我儘を見てきた直は、僕の中核が空洞になってしまっていることを、察知していたに違いない。恐らくだが、父親の死によって母親が心底憔悴してしまった姿を目の当たりにした直は、我が家が背負うことになった忌まわしい災いを、自分一人で背負おうとしたのではないだろうか。

 直が自分の器の中に、あらゆる災厄や醜聞を詰め込んでいたのと対照的に、僕の心はいつでもぽっかりと空っぽのままだった。座礁したタンカーから流出した重油にまみれる海鳥のように、僕は自由の身でありながらねっとりと身体にまとわりつく倦怠感に苛まれて、世間に飛び出す気力を失っていた。そして、次第に心は空虚になり、直のように忌まわしい物事を身体の中の器に放り込んだところで、僕は何も感じることができなくなり、何も生み出すことができなくなっていた。

 たが、見ず知らずの柳瀬結子が放り投げた言葉は、直をも失った僕の空っぽの心の縁に引っ掛かり、辛うじて底なしの虚無に吸い込まれずにいた。

「不安と勇気」

 不純物のない閉ざされた空間に、相反する性質の素粒子を放り込む科学実験のように、僕の心の中で二つの言葉が超高速でぶつかり合い、時を追うごとに新たな、それら以外の何かを生み出そうとしていた。

「アルバイト募集」

 水族館で心に焼き付けたその七文字が、僕の心の中で飛び交う素粒子を絶妙に結合させようとしていた。

 夕刻、ロードバイクを駆って家に戻ると、僕は直の学習机の上に置いたままの青い本を手にとって、直のベッドに仰向けに寝転がった。右手で本を持ち、学習机に置かれたスタンドライトの仄かな灯りの中で天井に向けてかざしてみた。青く輝くジンベイザメが、静かに眠る人たちを遥か遠くに運ぶ夜行列車のように見えた。

 僕は本を下ろして胸の上に置き、瞳を閉じ、しばらく瞑想した。何かを決意しなければならないこともわかっていたし、きっと自分が決意するだろうこともわかっていた。だから、僕がもう一度胸の上に置かれた本を手に取り、その巻末に連絡先が記載されているこの町の水族館に電話をかけるまで、それほど長い時間は必要なかった。

 携帯電話の向こうで何度か呼び鈴を鳴らし、水族館につながった。応対したのは若い女性の声だった。自分は担当者ではないが、アルバイト募集の事務をしているので応対すると言った。

 女性事務員は、滞りなく面接の日取りを決め、僕に提示した。僕には日々やるべきことなどなかったので、女性事務員の申し出を承諾した。

 僕は電話を切り、大きく息を吐いた。他の人にとっては、アルバイトの面接など些細なことかもしれなかったが、長らく外界と疎遠になっていた僕にとっては、ささやかな冒険だった。

 カーテンを閉じ忘れた窓の向こうの夕闇に、一つ二つと星が輝き出した。僕はその星々を見上げながら、直を想った。

 もしかして僕は、「兆し」を掴むことができたのだろうか。できることなら、直に縋りたい思いだった。しかし、直がこの場にいたとしても、きっと彼は僕に全てを教えてくれはしなかっただろう。その代わり、ただ一言、荒野に消えていくガンマンの決め文句のように、こう言ったに違いない、

「研ぎ澄ませ」

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(11)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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