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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(4)

〈前回のあらすじ〉
 父親を失っても淡々とした日々を送る直。しかし一方で、直の実直さに報いようと奔走する母親は、知らず知らずのうちに自分で自分を追い込んでしまい、やがて精神を崩壊させてしまう。僕はといえば、そうした家族の波乱に飲み込まれながら、何を決めて、何を行えばいいのか、わからずにいた。

 
4・研ぎ澄ませ

 僕と直は、兄弟にしては仲が良かった方だと思う。おそらく、七つという歳の隔たりが、僕らの間にいらぬ対抗心を生み出さなかったせいだろう。それに加えて、直はあらゆるものに博識だったので、僕が彼に対して敬意を抱き、従順でいたのは必然であった。

 無知な小学生であった僕にとって、高校生の直が語ってくれる様々な物事は、目から鱗が落ちるようなことばかりだった。実際に僕がその時の直と同じような歳になった今でも、直が語ってくれた天文や宗教や科学の知識を、僕は僅かながらも備えることができていなかったのだから、やはり直は当時からよくものを知っていたのだと思う。

 だからと言って、直の部屋の書棚にそれらの知識の泉となるような書籍が並んでいるわけでもなかった。試験勉強のための参考書もなければ、漫画や雑誌の類もなかった。あったのは、せいぜい国語と英語の辞書くらいだった。

「研ぎ澄ませ」

 直と過ごした時間の中で、僕がよく耳にした直の言葉だ。

 直は自分の豊富な知識や柔軟な思考をひけらかすようなことはしなかったが、誰かの知識や考えを聞いた者が、それをあたかも自分のもののようにひけらかすことを、ひどく嫌った。僕は持ち主がいなくなった直の部屋のベッドに寝転びながら、直との時間を思い返すことが日課のようになっていた。

「人は、考えて、悩んで、決めて、行動していく生き物だ。せっかく、そのような仕組みを持っているのに、他の人の意見や知識だけで何でも知ったようになるなんて、もったいないと思わないか?」

 直は小学生の時に買い与えられた小さな机と椅子を、高校生になっても愛用していた。そのときの僕は、その小さな椅子に腰かけ、麦茶が注がれたグラスの汗を指で弄びながら、ベッドの上で仰向けになっていた直の言葉を聞いていた。

 無垢な小学生だった僕には、直が言わんとすることの本質を理解することはできなかったのだが、ただ、敬愛する兄の言うことであれば、それが真実なのだと確信することはできていた。

「だから、いつでも自分の感性を研ぎ澄ませていなければいけない。世界はあらゆる『兆し』に溢れているんだ。その『兆し』を、掴むも失うも、自分次第なんだ」

 直の頭越しに物干し台につながる大きな窓が見えたはずだ。その向こうの軒先に、二十六歳になったばかりの自分がてるてる坊主のように吊り下がって絶命することになるとは、さすがにこの時の直も想像していなかっただろう。

「見えない『兆し』を、どうやって掴んだらいいの?」

 僕は直に問いかけた。直は僕の方に首をひねり、なかなか的確な質問だ、と言うように唇を曲げて微笑んだ。

「さて、どうしたもんかな」
「直は、どうやって『兆し』を掴んだの?」
「気がついたら、掴んでいた。それでは、答えにならないか」
「そんなもの、たまたまじゃないか」

 僕をからかうような直の言い草に、僕は食ってかかった。

「そうだ、たまたまだ。だが、そのたまたまがいつだってオレたちを取り囲んでいる。それなのに、成果を手にできる者とそうでない者がいるのは何故だ?」
「さぁ?」

 僕が問いかければ、直がまた問い返す。禅問答のような錯乱に陥って、僕は首をひねるばかりだった。

「オレたちの周りにある無数の瓶の中から、そのたまたまってやつが入っている一つを、オレは見過ごさなかった」

 直はベッドの上で起き上がり、尻を軸にして回転し、両足を畳の上におろした。そして、しっかりと僕と対峙し、言葉を続けた。

「たまたまの中にも、時に『兆し』と言い換えるべきものがある。他の連中は一つ一つの瓶の蓋を開けて、その中を確かめるのだが、そうしているうちに『兆し』は『兆し』でなくなってしまう。オレはどうしても目が離せないたった一つの瓶に向かって走っていた。蓋を開けてみれば、やはりそのたまたまってやつが、仄かに光り、そこにあった」
「勘ってこと?」
「簡単に言ってしまえば、そうだな。だが、それも磨かれた感性がなければ、ただの当てずっぽうになってしまう。大事なのは・・・」

 そう言って言葉を切り、直は僕を黒い瞳で見つめた。

 僕は直が求めている解答を、調教師が右手を上げたら水面を飛び出しジャンプすることを心得たイルカの気持ちで、口にした。

「研ぎ澄ますこと」

 直は、やはり唇の端を曲げて、嬉しそうに微笑んだ。

 軒で首を吊っている直を見つけたのは、他でもない僕だった。十九歳の僕は、その光景から、変質的な画家が思い耽りながら描いた溶けた時計の絵を彷彿させた。そして、不謹慎にもそれが生真面目で実直な直なりの冗談なんじゃないかと思ってしまった。

 幼いころから勉強がよく出来た直は、一度も進路で躓いたことがなかった。

 理数系とはいえ、大学で海洋ナントカ学というものに偏って没頭していた直は、きっと研究者か学者になりたかったのだろう。しかし、結果的に父親の意向に従って原子力発電所で原子炉を保安する仕事に従事した。そのことで直が不平を漏らしたことは一度もなかった。むしろ、父親の希望に応えられたことに充実感を抱き、畑違いでありながらも原子力発電という仕事が如何に人類に有益であるかということに自信すら生み出していたように見えた。何しろ、彼は人生の成功者だったのだから。

 その真面目一本で今まで生きてきた直が、ようやく僕に冗談を披露する気になった。その行為が首吊り自殺の模倣だ。

 辛辣ではあるが、そうした堅物の直だからこそ、ユーモアに匹敵するに違いないと考えたのだろう。僕は直感的にそう感じた。だが、実際には、それは模倣などではなかった。

 軒から吊るされた肉つきの悪い平たい直の背中からは、生気が失せていた。

 風もなく、うだるような暑さが身体にまとわりつく夏の終わりの午後だった。錯覚が現象となり、直が絶命しているのだと僕が認識するのに、情けないことに数分の時間が必要だった。

 開け放たれた窓の外からは、残暑を惜しむ蝉の声が喧しく聞こえていた。僕は家族という狭くて小さな世界の中で、たった一年の間に、二つの死に直面してしまった。それは宇宙船の中で電力が止まってしまった上に、酸素の残量もあとわずかだと知らされるような、逃れようのない絶望感を伴った。

 直にとって父親が道標であったように、僕にとっては兄の直が道標だった。

 父親を失ったことで、本当は直も路頭に迷っていたのかもしれない。それが、彼を自殺へと誘う要因になったと安直に考えてはいけなかったが、もしも少なからずそれが直の心に濃い影を落としていたというのならば、直を失った僕の心の中に、やがて同じような闇が生まれるのだろうかと、僕は怖れた。しかし、直を失って狼狽えた僕が短絡的に直の後を追わなかったのは、まだ僕の中に直に対する釈然としない思いが残っていたからだと思う。

 父親が中途半端な家族への忠誠の欠片を残して世を去ったのと同じように、柔らかい微笑みの裏に隠された直の希望と絶望の欠片が、僕と現世を繋ぎとめていた。実のところ、僕は直のことをちっとも知らなかったのだ。穏やかで献身的な直が何を糧にして生きていたのか、僕は今まで、考えもしなかった。

 それから、僕は直のことをもっと知りたいと思うようになっていった。

 直のベッドに仰向けになり、首をのけぞらせて開け放った窓の外を見ると、何処までも突き抜ける青空と、そこに白いフェルトの貼り付けたような入道雲が見えた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(5)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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