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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(14)

〈前回のあらすじ〉
 
水族館に着き、アルバイトの面接のために事務員を呼び出した。そこに現れたのは、数日前に一人で水族館を訪れたときに大水槽の前で声をかけてきた小柄な事務員だった。佐藤かおりと名乗った事務員は平凡な自分の名字を捨てたいがために、早く結婚したいのだと言った。その屈託のない人懐こい人柄に、少なからず諒は好意を寄せた。

 14・おそらく、狂っているんです

 佐藤かおりはスライド型の網のシャッターで閉ざされた売店の脇を折れ、水槽が並ぶ展示室を離れた。そこは職員だけが出入りする場所のようで、事務室や更衣室を擁していた。

 薄暗い通路を何メートルか進むと事務室らしき部屋のドアがあった。その先の灯りは点いておらず、野生生物が棲む祠のように暗かった。

 僕よりも一つ年上の佐藤かおりは、こうして面接の募集から受付までを担っていたようだった。もしも高校を卒業してから事務員としてこの仕事に従事していたのなら、二年あまりの勤務で社会人としての身のこなしやことばづかいを身に着けていて然りだった。

 それにしても、たった一つしか歳が違わないというのに、佐藤かおりの振る舞いは、僕の落ち着きのなさとは雲泥の差が感じられ、僕の心の中に眠っていた劣等感が、少しずつ頭をもたげ始めていた。

 佐藤かおりが事務室のドアを開き、「どうぞ」と言って、僕を促した。

 事務室には誰もおらず、静まり返っていた。そこに入ると、すぐさま偉い役職の面接官が待ち受けているものかと思って緊張していた僕は、拍子抜けした。

「こちらで少しお待ちください」

 先ほど「少し」や「少々」ではなく「ちょっと」と言ったのは、同年代の僕と二人きりだったからで、事務室に入り「少し」と置き換えたのは、彼女の中で仕事のスイッチが入ったからだろうと、僕は思った。

 佐藤かおりは僕を事務室の入口に置き去りにしたまま、事務室の奥の部屋のドアをノックした。ドアには木目のプリントがされたシートが施されていることがありありと分かり、殺風景な事務室を更に安っぽく見せていた。

「高木さん、逸見さんをお連れしましたよ」

 ドアの向こうにいる高木という飼育棟の主任が僕の面接をするのだろう。佐藤かおりはそう呼び掛け、しばらく高木からの返答を待った。

 時間にしたら十秒か十五秒程だったろうが、そのドアのノブが動き、中からドアが開かれるまでの時間は、僕にはとても長く感じられた。

「ごめん、ごめん。転寝をしてしまった」

 そう言いながら現れた男は、三十代前半と思しき痩せた男だった。

 主任と言われる役職を持つ人が平均的に何歳ぐらいなのか、世間知らずの僕には想像もつかなかったが、もっと年配の職員かと想像していた僕は、濃紺の事務服を羽織った高木の姿を見て、やや安堵した。

 父親の葬式でも、歳の離れた従兄たちとは言葉を交わせても、叔父や叔母とは上手く話をすることができなかった。恐らく、器量のいい直が叔父や叔母と対等に会話をしているのを見て、尻込みをしたからだろう。あの頃の直の自然な立ち振る舞いを脳裏に焼き付けてはいたが、とてもそれを実践できる器量を、僕が持ち合わせているはずもなかった。

「ヘンミ君」そう言って、高木は事務室の入口で棒立ちになっている僕に手招きをした。「面接しよっか」

 佐藤かおりは高木が転寝していた部屋を一度覗き、その内部をぐるりと確認してから、再びドアを閉めた。その様子は、思春期の息子が如何わしい雑誌や喫煙の誘惑に惑わされていないかを確かめる母親の行動にも似ていた。

「ここで、ですか?」
「生憎、応接室などという大層なものもなくてね。そこのソファに掛けてよ」

 顔を合わせてすぐに面接に入るとは想像していなかったので、僕はあからさまに怯んだ。助けを求めるように佐藤かおりを見たが、彼女は優しい微笑みを投げかけただけで、すかさず面接をする高木と面接をされる僕のために差し出す飲み物の準備を始めてしまった。ただ、彼女の滞りのない淡々とした作業を見ていると、ここでの高木との面接は、誰彼問わずいつもこのように突拍子もなく行われていたのかもしれないと察することができ、僕は少しずつ落ち着きを取り戻していった。

 僕は飼育主任の高木に言われるがまま応接用のソファに向かって歩き、三人掛けの下座にあたる場所に腰を下ろした。それを確かめると、作業服姿の高木が低いテーブルを挟んで僕と向き合う一人掛けのソファに座った。

 事務室には灰色の事務机が六つと、それらが固まった島の突端に他の六つよりも少し大きめの事務机が一つあった。恐らくその一つがこの部屋で一番偉い者が座る場所だったのだろう。それぞれの机の上には、雑多に書類が重なっていた。

 壁際にはスチール製の棚が並び、そこには飼育の日誌や魚や海獣の飼育に関する学術書が並んでいた。水族館という施設の中で、最も事務的な場所のためか、そこに窓はあるものの、外の日差しは微塵も差し込んでこなかった。窓の向こうに、貯水タンクや大型の濾過機が置かれていたのかもしれない。

 高木は一度ソファの背もたれに身体を預けたが、語り始めるのと同時に、上体を乗り出した。そして、両膝に肘をついて、その間で指を互い違いにして手を組んだ。

「履歴書、持ってきてくれたかな?」
「あ、はい」

 そう言って、僕は直のピーコートの内ポケットに収めていた封筒を取り出し、テーブル越しに高木に手渡した。高木は封筒から無造作に履歴書を取り出し、さっと流し読みした。

「あれ?ヘンミ君じゃなくて、イツミ君なの?」

 そう言って、高木は手に持った履歴書と僕の顔を交互に見た。

 僕は横目でお茶の支度をしている佐藤かおりを盗み見た。佐藤かおりも僕らの会話を盗み聞きしていて、いたずらな笑みを浮かべていた。恐らく高木がそのように戸惑う様を、予測していたのだろう。

「逸見と書いて、ヘンミと読むんです」

 つい先刻、佐藤かおりに説明したことを、僕は目の前の高木に繰り返した。

 高木は「へぇ〜」と言って感心しながら、僕の学歴とそのあと空白になっている職歴を視線でなぞった。

「まぁ、いいんじゃないかな」

 高木は、まるで閉店間際の露店を訪れた子どもに、売れ残ったリンゴ飴をくれてしまうように、あっけなくそう言った。

「え?」

 僕はこんなにも唐突に面接の結果を告げられるとは思わず、間抜けな声を上げてしまった。

「ん?採用だよ。何か、問題でも?現実的にこちらが求めているのは若い労働力なんだ。そこに、パソコンスキルや特別な資格は必要ないよ。今まで一度も就職したことがなかったことも関係ないよ」

 高木は、結論が出た面接にもう履歴書は必要ないとばかりに、僕が丹念に用意した履歴書を三つ折りにして、元の封筒に戻してしまった。

 社会での労働経験のない未成年の僕が、恐らく初めての社会参加となるアルバイトの面接で、そうしたマイナス要素を心苦しく思っているのではないかと、面接官の高木が案じてくれていたのだと思っていたが、現実は僕が考えているほど複雑ではなかったようだ。

 量産された安っぽいカップ・アンド・ソーサーに湯で溶いたインスタントコーヒーを注いで運んできた佐藤かおりは、先に僕の前にそれを置き、その後、高木の前に残りの一つを置いた。面接結果が出て、それ以上語ることがなくなった僕と高木の間に、陶器が触れ合う乾いた音が響いた。僕の目の前のソーサーには、使い切り分を紙の包装紙で包んだ砂糖とプラスチックカップに密封されたミルクが載せられていたが、高木のそれには何も載っていなかった。

 僕は紅茶よりもコーヒーを好むが、いつも周囲が驚くほど砂糖を入れる趣向がある。スティック状の紙の筒に包まれた一回分の砂糖では、僕の好みの甘さにはなりえなかった。だが、ここは喫茶店ではないので、僕は佐藤かおりによって添えられた一回分の砂糖とミルクをコーヒーに入れて、黙って丁寧にスプーンで混ぜた。

 高木がカップを口に運んだのを見計らって、僕も褐色のコーヒーを啜った。緊張で喉が渇いていたせいか、甘みの足りなさに不満はなかった。

「就職をしなかったということは、浪人だったのかな?」

 高木が再びソファの背もたれに体を預け、カップを掲げた姿勢のまま、上目遣いに僕を見ながらそう言った。高木は、ひと仕事を終えたといった風に、随分とくつろいでいた。

 僕はゆっくりとカップをソーサーに戻し、一息ついてからゆっくりと「いいえ」と言った。僕自身も社会への扉を開き、一歩踏み出したことに安堵していた。もう上ずることのない声で、改めて僕は自らの経歴を語った。

「高校を卒業する時には、就職も進学も考えていませんでした。そして、今も進学しようとは考えていないので、当然、浪人でもありません」
「いわゆる、ニートか……」

 僕の言葉を受けて、高木がそう呟いた。

「えぇ」

 父親と直の墓前でも、柳瀬結子に対して、自分の身分を公然と「ニート」と称した。だから、初対面の高木から同じ言葉を向けられても、今更僕は怯んだり尻込みしたりしなかった。

「こちらとしては、そこのところはどうでもいいんだが、一応、館長にそれとなく尋ねられていたのでね」
「でも、採用なんですよね?」
「その通りだ。生き物の飼育や飼育棟の掃除に、ニートも浪人も関係ない。家族構成はお母さんと二人暮しのようだから、少しでも働いて、お母さんに楽をさせてやらないとな」

 高木は自分に与えられた面接官という任務をすでに終えて、満悦だった。

 新しくアルバイトに応募してきた者に採用を告げ、上司に報告すべき事柄を聞き出したところで、彼の仕事は達成されたのだろう。ただ、そうした高木の先入観や支配欲が、何処となく僕には鼻についた。

 僕の体験上では、こうした人たちは心や身体に傷を持った人たちの本質を見ようとはしない。ひとまず、火の粉が自分に降りかかりさえしなければいいのだ。もしも僕が高木の詮索にへそを曲げで、採用と言われながら出勤を拒否したとしたら、また求人広告を見て応募してきた者に向かって、高木は同じような詮索をするだけのことだ。

 僕よりも随分と年上の目の前の男を眺めているうちに、父親を見送った火葬場で僕や直を冷めた視線で見ていた親戚たちを思い出し、僕は腹の底に溜まっていたタールのような重くて黒い何かが蠢き出すのを感じていた。

「母は大丈夫です」

 僕がそう言うと、高木はにやにやと笑うのをやめて、静かにカップ・アンド・ソーサーをテーブルに置いた。

「大丈夫というと、お母さんも働いていて、家計は安泰なのだね?そうだとしたら、おせっかいなことを言ってしまった。気を悪くしないでくれ」
「いいえ、母親も働いていません」
 
 そう言って、僕はまたコーヒーを啜った。

 カップを持つ自分の手元が少し震えていた。それを見て、なんだか不意に可笑しくなってきた。僕の身体が乖離を始めていた。精神は冷静なのに、僕の身体が興奮に震えていたのだ。

「ニートと言っても、僕は家に引きこもっていたわけではありません。労働の意欲というか、社会参加の意義のようなものを見つけられないでいただけです。でも、母親は一歩も家の外に出ません。狂っているんです」

 アルバイトの面接でそんなことを言う必要はない。興奮に任せて暴走した僕を、僕の中のもう一人の僕が制止した。当の高木も、口をポカンと開けたまま、微動だにしない。コーヒーの給仕を終えて事務室の入口に一番近い自分の机に向かっていた佐藤かおりも、顔を上げて遠くから僕を見ていた。

「父が自殺した上に、その一年後に兄も死にました。父と同じく、自殺です。それから、母は廃人のように無気力になりました。僕はよく知りませんが、何らかの宗教に傾倒しているのかもしれません」そして、僕は同じ言葉をもう一度口にした。「おそらく、狂っているんです」

 高木は海の向こうから長い船旅で檻に入れられて運ばれてきた外来の哺乳類でも眺めるように、僕を凝視していた。そして、「そっか」とだけ、短く言った。

 事務室の中に痛々しい静寂が張り詰めた。もちろん、その種を撒いたのは僕だった。心の中で、半分だけ後悔している。だが、残りの半分は、そうした事実で採用という結果が揺らいでしまうのなら、無理に縋ることはないと開き直っていた。

 その時、事務所の静寂を破ったのは、佐藤かおりだった。

 佐藤かおりは、グラマーというよりぽっちゃりというべき肉付きの身体とは裏腹に、無駄のない動きで椅子から立ち上がると、僕と高木が対峙している応接セットに歩み寄り、僕の前に立ち、小さく一礼した。

「採用、おめでとうございます。早速ですけど、いつ頃から働くことが出来ますか?」

 佐藤かおりの言葉を受けて、高木が長い催眠術から解き放たれたように、快活に言葉を続けた。

「そうとも、そこが肝心だ。福利厚生の説明や作業服などの貸与は佐藤さんが仕切ってくれる。出勤できる日が決まれば、こちらでも飼育棟の職員に通達しなければいけないからな」

 余計なことを口走ったが、アルバイトの採用という結果は幸いにも覆らなかった。ただ、結果が覆らなかったからと言って、奇妙な家庭事情を持つ僕のことを、高木が敬遠していないというわけではなさそうだった。

 高木は佐藤かおりが割り入ってくれたことで窮地を逃れたらしく、すかさずソファから立ち上がって僕から離れた。そして「あとのことは頼む」と小声で佐藤かおりに告げて、転寝をしていた宿直室に戻ってしまった。

「今も言った通り、毎日やるべきことなど何もないので、明日からでも働くことが出来ます」

 僕はソファに座ったまま、震える右手をもう一方の手で抑えるようにしながら、小柄な佐藤かおりを見上げてそう言った。

「それならば、一週間後でどうでしょう。子どもたちが冬休みに入ってしまうと水族館は忙しくなってしまうので、その前にここに慣れてもらった方がいいでしょう」
「はい、構いません」
「よかった。それまでに受け入れの準備を万全にしておきますから、安心していらしてください」

 それから佐藤かおりは、僕の通勤手段が今日のように自転車なのかと確認しただけで、あとは一切職務にかかる事柄について尋ねてこなかった。ただ、僕を水族館から送り出す時に、独り言のように「私も、片親なんです」と、屈託のない笑顔をそのままに言っただけだった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(15)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。


 

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