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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(39)

〈前回のあらすじ〉
 母親の自宅療養の世話が一段落つくと、諒は水族館に出かけ、事務所で思いがけないものを見つけた。それは五年前にピッピの命名をしたときの資料だった。公募の中から当選したラッコの赤ちゃんの命名者が決まり、その授賞式を段取りするために、高木が倉庫から引っ張り出してきたものだ。その中に当選者の商品である旅行券が残されており、その対象者が思いがけず兄の直だったことに、諒は困惑した。

39・君はいったい何を抱え、何を守り、何を伝えたかったんだ

「そいつは、面白い」

 開口一番に、黒尾はそう言った。

 母親のもとに定期的に『金環水』の納品にやってくる黒尾と鉢合わせしたとき、自分が働いている水族館とそこにいるメスのマナティーに直が関与していることを話した。すると黒尾は、初めての登板の第一球から記録的な豪速球を投げたピッチャーを称えるように、大きく手を叩きながら喜んだ。

「やってくれるね。直」
「僕だって驚きました。玉手箱を開けてしまった浦島太郎のような気分です」
「逆浦島太郎だな。五年の時を一気に遡ったんだからな」

 黒尾は髭の剃り残しも見当たらないきれいな顎を優しく撫でながら、感慨深そうに言った。

 母親は僕らが語り合う玄関先と障子を隔てた向こう側の居間にいた。

 入院している間、僕と二人だけになる時間を持てたというのに、僕が熱心に歩み寄っても、なかなか母親は心を開いてはくれなかった。こうして家に戻った今も、また以前と同じ引きこもりの暮らしに戻ってしまった。だが、母親との距離を縮めることができなかった僕の不甲斐なさを、黒尾は特に責めようとはしなかった。

「肉親だからこそ、越えられない壁ってもんがあるんだよ。きっと」

 そう言って、屈託のない笑顔で僕の肩をそっと叩いただけだった。

 半年以上、物言わぬ仏壇と対峙してきた母親は、直が僅かな足跡を残していたことを知り、恐らく動揺していたに違いない。その心の内を知ることは僕には難しかったが、障子の向こうから静かに啜り泣く声が聞こえてくると、歓喜と悲哀の入り混じった濁流の中で母親はどうしていいか分からなくなっていたのだろうと察することができた。もちろん、僕自身も時限爆弾のように直が残した遺物が、残された僕らの救いとなるのか、新たな混乱を呼び起こす罠なのか、判断しかねていた。

 館長の配慮で、行き場のなかった旅行券は、当選者の実弟である僕に委ねられた。目録と旅行券が入ったのし袋を引き抜かれた資料は高木によって倉庫に仕舞われ、一連のラッコの赤ちゃんの命名に関するイベントに幕が下ろされた。

 僕は事務員や飼育員が正常な業務に戻ろうとしている中で、のし袋を手に持ったまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。

 必要以上のことを口にしなかった直。歳を隔てていたからなのか、叱られたこともなければ、大きな期待を寄せられたこともなかった。それは、僕が直の味方になりえないと彼の方から割り切ってしまったのではないかと、時折不安になることもあった。

 家族でいても、彼は孤立していた。

 母親よりも父親の肩を持つようなところもあったが、それは父親があまりにも直を自分の分身のように可愛がったから、直もその気持ちを跳ね返せなかっただけなのだろう。父親に肩入れするように見えてしまうことで、母親を蔑ろにしているような印象を周囲に与えてしまっていたが、それは決して直の本意ではなかった。そう振り返ると、直は長男として、父親の後継者として、見えない重圧の中で自己を殺して生きてきたのではなかろうか。その重圧の中でも周囲に思いやりを振りまいていた直は、家族の誰からも思いやってもらえていなかったのかもしれない。

 幼い頃から成績は優秀だったから、小学生の高学年になると、直はあらゆる分別、あらゆる選択を自分で判断し、決めてきた。

 身につける洋服、日々使う文具、学生生活の軸となる部活動、進学する高校や大学。時折父親が舵取りに手を貸すこともあったが、大概のことを直は自分で決めて、行動してきた。もちろん思い描いた結果が出るまで、決めたことを投げ出さなかった。

 ただそれには、目に見えない強迫観念がつきまとったのではないかと、僕は思うのだった。

 もしも自分で決められなかったら。もしも決めたことが最後までやり遂げられなかったら。

 僕自身はそのような強迫に苛まれた記憶がないので、まさか直がそのような心の病を抱えていたのかどうかなんて、今まで考えもしなかった。だが、直は自殺を選んだ。同じ屋根の下に家族がいるというのに、直は死に場所を自分の部屋にした。そこに暗喩があるのかどうかなんて、僕にはわからない。ただ、五年もの間水族館の倉庫に眠っていた直の形見を手にした僕は、直が一人で背負い続けてきた孤独を、何の前触れもなく国外追放を言い渡された移民のように、残酷に突きつけられてしまったような気持ちでいた。

「直、君はいったい何を抱え、何を守り、何を伝えたかったんだ」

 僕は直のベッドに仰向けになり、振り落ちる蛍光灯の白い光に旅行券が包まれたのし袋をかざしながら、そう独り言を呟いた。部屋の中央には直が小学生のときから使っていた電気ストーブがあった。メッキが剥がれかけた鉄柵の向こう側で、二本の電熱コイルが赤く熱く輝いていた。

 程なくして、僕は高木に数日の休暇を申し出た。

 水族館に勤め始めてから八ヶ月が経とうとしていたが、それまで与えられたシフトのとおりに出勤してきた。意図的に欠勤するまいと努めたわけではなかったが、アルバイトと母親の世話とかおりとの逢瀬以外にやることなどなかったので、勤務を怠ることがなかっただけだった。それに竹さんと一緒に飼育棟で働くことは、僕にとって心も体も安らぐことだった。竹さんといる間は、世知辛い人間関係のこじれも、テレビから垂れ流される嘘で塗り固められた世間のゴシップも、僕を惑わせなかった。

 毎日、言葉の通じないピッピとベーブと触れ合う竹さんは、人間と動物という関係以上に、彼らと同じ「生命体」として向き合ってきた。その姿を傍らで見ていて、世の中は正解と不正解だけではなく、その間にあるいくつもの答えが思いの外肝心なのだと、教えられた気がした。

 母親と僕の間にあるわだかまりも、かおりと高木との三角関係に弄ばれる独占欲も、僕の心の持ち方ひとつで、日向にも日陰にも置くことができただろう。同じように、僕が手にした直の生きた証をどのように扱うのかも、僕の心ひとつでいかようにもできた。

 母親の看病のために仕事を休むと告げたときと同じように、竹さんならきっと、僕にしかできないことを僕が全うすべきだと助言してくれたに違いない。だから、仕事を休むことへの迷いや後ろめたさは、僕にはなかった。僕自身も、僕が今やるべきことが何なのか、次第に明確になっていたからだ。

「旅行か?」

 直が貰うはずだった五万円分の旅行券を手にしたのだから、高木がそのように詮索してくることは承知の上だった。

「えぇ、折角なので」

 行き先は決まっていたが、あえて高木にも職場の同僚にも伝えなかった。

 ラッコの赤ちゃんの誕生で着実に来場者は増えたが、子どもたちの春休みはまだ先のことだったので、業務も手が回らなくなるほど煩雑ではなかった。だから、高木に僕の申し出を断る理由はなく、僕は通常のシフトの休暇に三日分の休暇を加えて、五連休を獲得した。

 竹五郎さんとマナティー(40)につづく……

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。




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