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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(30)

〈前回のあらすじ〉
 敬光学園からの帰り道、佐藤かおりは無言で車を職員用の月極駐車場に停めた。すると、おもむろに諒の手を握り、それを自分の胸に引き寄せた。困惑する諒を翻弄し、やがて虜にした佐藤かおりは、狭い車中で熱く激しく諒と交わった。その時、車のヘッドライトが彼らを照らした。

30・死ぬってことに対する興味

 大晦日も、新しい年を迎えた正月も僕は水族館へ足を向け、休暇ではあるが同じようにベーブとピッピの様子を見に来ていた竹さんとともに飼育棟の仕事に勤しんだ。

 しかし、脳裏には佐藤かおりの白い乳房や黒い野生の瞳がちらつき、それは憤り、止むことなく僕を翻弄した。そのたびに僕は熱くなるペニスを鎮めるために、マスターベーションで漲る精力を放出しなければならなかった。いつもより多くトイレに向かう僕のことを、竹さんが心配そうに見ていた。

 父親が心中事件を起こしてから、僕は多くの友人を失った。僕のことを知る人がいない隣町の高校に進めば、そうした状況も回避されるかと思ったのだが、僕と同じ中学からも何人かその高校に進学していたので、僕の身の上が同級生の間で知られるのには、そう長い時間は必要なかった。ただ、それが原因でいじめにあったとか嫌がらせにあったわけではなかったが、言語も文化も似ているのに宗派の違いだけで高い城壁で囲われてしまった小国のように、僕は学校で孤立した。何も失うものなどなかったはずなのに、それでも僕は何かを失ったり、失うことで傷つくことを恐れていたのかもしれない。だから、それ以来何かを得ようとか、誰かと繋がろうとはしなかった。

 そんな中でも、僕に関心を寄せてくれていた異性が一人だけいた。

 彼女は女子生徒の中では少し厭世的な感じの印象だったが、決して教師たちから目くじらを立てられるような素行の悪さはなかったと記憶している。

「今日も、独りなのね」

 彼女はある日の放課後、一人で帰宅しようと昇降口を出た僕を校舎の二階のベランダから見つけて、声をかけてきた。

 彼女とは一度も同じクラスになったこともなかった。廊下ですれ違ったことぐらいはあったかもしれないが、名や顔に馴染みがあったわけでもなかった。だから、彼女の呼びかけが本当に僕に向けられたものなのか確信が持てず、僕は立ち止まって間抜けにあたりを見回してしまった。

「あなたに話しかけているのよ。逸見諒くん」

 改めて彼女に名を呼ばれ、僕はうまく思考を巡らすことができなかった。

 女子生徒が僕に話しかけている。犬も食わない心中事件でエリートの父親を亡くしたこの僕に、どこの誰かも曖昧な女子生徒が関心を寄せている。その事実に、僕は戸惑っていた。

「君は、誰?」
「えっ!?知らないの?」

 僕のぶっきらぼうな問いかけに、彼女は目を丸くして驚いていた。

「同じクラスになったことはない、はずだけど」
「少しは顔が売れてるかと思ってた」

 そう言って、彼女はわざとらしく不機嫌な顔を作って俯いた。

「気を悪くしたら、謝るよ。でも……」

 僕の言葉が終わらないうちに、彼女はそのままベランダから姿を消した。僕は彼女が本当に気分を損ねて、身を隠してしまったのだと狼狽えたが、程なくして昇降口から彼女が駆け出してきたので、彼女の素性や本意は別として、僕は安堵した。

「一緒に帰ろう」
「僕と?」
「他に誰がいるのよ」

 彼女はそう言って、手に持っていたダッフルバッグを肩にかけ直した。臙脂色のダッフルバッグには、アメリカンフットボールチームのロゴがプリントされていた。

「私は、リサ。斑目リサ。変な名字でしょ?マダラメなんて。特にダのとこ、ヤバい。濁点、ありえない」

 その名を聞いて、僕は無為に流れていく高校生活の中で、脳裏の隅に追いやられていたクラスメイトたちの会話を蘇らせた。

 かつて友人だった男子生徒たちの間で、彼女の名は時々話題に上がっていた。どこそこで夜遊びをしていて夜回りの教師に補導されたとか、どこそこの高校の上級生と付き合ったことがあるとか、どこそこの男子生徒が交際を求めて告白をしたのに、鼻にもかけなかったとか、男子生徒の興味の的になっていたのは確か「マダラメリサ」だったはずだ。ただ、わからなかったのは、その彼女が下校しようとする僕を捕まえて、一緒に帰ろうと誘ってくる意図だった。

「そうかな?マグダラのマリアなんて、ふた文字に濁点がついてるよ。それでも、多くの人に崇められてる」
「へぇ、面白いことを言うわね。でも、彼女って淫靡でミステリアスな雰囲気あるから、そう言ってもらえて嬉しいわ」
「たまたま、思いついたことを言っただけだよ」
「マグダラのマリア……。マダラメのリサ……。うん、悪くないかも」

 本気で走れば目を見張る記録が出せそうな健康的な脚や未熟と成熟の間で白いブラウスの下から突き出す胸、産毛さえも散見できないなめらかな肌や潤いを蓄えた長く黒い髪。リサは男たちの関心を引くだけの整った容姿を備えていた。

 本当に思いつきだけでマグダラのマリアなどと言った僕だったが、嬉しそうにステップを踏みながら歩くリサを見ていると、もしもキリストの処刑と復活を見届けたマグダラのマリアが生きていたら、こんな容姿をしていたかもしれないと僕は勝手な空想をした。

 僕らは電車通学している高校生が利用している駅の近くにあるハンバーガーショップに入って、店の奥のテーブルで向き合った。店を選んだのはリサだったが、人目につかない席を選んだのは僕だった。それは、ただでさえ人目を引くリサが、深海に潜む名もなき甲殻類のように学校での存在感を封じこんでいる僕と一緒にいるところを同じ学校の生徒に見られたくなかったからだ。しかし、次々と客席にやってくる男子高校生たちのほとんどが、容姿端麗なリサを横目で見て通り過ぎた。中にはリサと交遊のある我が校の男子生徒と挨拶を交わしたりもしていた。その度に、僕は顔を伏せ、存在感を消すことに努めた。

 リサはしばらく、最近観た音楽番組で人気の女性シンガーソングライターが新曲を披露していたとか、南洋の島を津波が襲ったとか、他愛もない日々の出来事を一人で語っていたけれど、リサの本意がつかめないまま、そろそろ居心地が悪くなり始めた頃、手元に隠していたジョーカーを唐突に切るように、彼女は不意に本題を投げつけてきた。

「逸見君のお父さんの話、聞かせて」

 その言葉を聞いて、僕は身を強張らせて警戒した。そして、当惑の中でもいくらか麗らかな気持ちになって彼女の誘いに乗ってしまった自分を、心の中で激しく罵った。

「僕の父さんのことを、君に話す必要があると思うのかい?」

 僕はテーブルに両肘をついていた姿勢から身を起こし、あからさまにリサとの距離をとった。しかし、僕が椅子の背もたれにのけぞった分、今度はリサが前のめりになって、笑顔で僕に迫った。

「そんなに怖い顔しないで、でも、胸に湧いた興味が、どうにも薄れないの」
「興味?なんの?」

 僕がリサを睨むように見ながらそう言うと、待っていましたとばかりにリサはその微笑みを崩すことなく言った。

「死ぬってことに対する、興味」

 リサは僕の家庭に訪れた不幸を、春の訪れを知らせる渡り鳥が戻ってきたとか、愛用しているファンデーションのパッケージが刷新されたといったような他愛もない話と同じように、微笑みを浮かべながら軽々しく口にした。

 僕が抱いた彼女への嫌悪感はみるみると膨張して、僕の腹の底で赤黒く腫れ上がり、明確な憎悪へと変わった。

 僕はできることなら、目の前にいるリサに手元にあるコカ・コーラを氷ごとぶっかけて、その長く黒い髪を鷲掴みにして、客席の床の上を引きずり回したいと、衝動的に思った。だけど、そうすることでチラチラと僕とリサを盗み見している男子生徒たちの報復を受けてもつまらなかった。僕にとってはリサはまさに悪魔だったが、彼らにとってのリサは聖女なのだから。

 そもそも僕の父親が心中などしなければ、リサだってこんなつまらない妄想を描かなかったに違いないと思うと、僕の怒気も次第に萎え、紙コップを持っていた手から力が抜けていった。

「悪いけど、そんな話はできないよ。君は、死を望んでいるのかい?」
「私が?」

 リサは僕の問いかけにあからさまに呆れて、上体を固い座席の背もたれに投げ出した。そして、乾いた笑いを弾けさせ、手前のトレーに置いてあった紙コップを取り上げた。南国の砂浜に打ち寄せられた貝殻のような愛らしい唇でストローを咥えたリサは、正面に座ったままの僕をじっと見つめると、口を窄めてコカ・コーラを吸い上げた。

「私は死にたいなんて思ったことなんてないし、この先もきっと考えもしないよ。ただね、死ぬときの感じってどうなんだろうって、いつも想像はしている。死のうとする衝動とは全く違うの」淡々と持論を説き始めたリサを僕は黙って正視していた。「眠りに落ちる瞬間って、とても快楽的で崇高じゃない?それと同じくらい、いいえ、きっと死はそれ以上に荘厳だと思うの。何しろ、二度とこちら側に戻ってこられないんだから」
「崇高だとか、荘厳だなんて、おかしいよ」

 僕はそう言って静かに席を立った、論争になる前に土俵から降りてしまう癖は、僕の常套手段だ。

「帰っちゃうの?」
「もっと楽しい話ができると思っていたから、残念だよ」

 冷淡な捨て台詞で突き放したつもりだったが、リサには全く堪えていなかった。

「そう……。でも、また学校で会えるね」

 僕は床に置いてあったバッグを右手で取り、ほとんど減っていないコカ・コーラが載ったトレーを左手で取った、そして、リサを一瞥することもなく、席を離れた。

 客席の間を抜け、トレイを返却台に置き、水分を吸ってふやけ始めた紙コップを中身ごとゴミ箱に放り込んだ。

 階下に降りる階段に足を踏み出すとき、ふと誰かの視線に気づいた。階段の手すり越しに客席を見上げると、そこにはリサと挨拶を交わしていた男子生徒たちがいた。男子の憧れの的であるリサと二人きりで会っていた僕を、彼らは妬ましく思っていたのかもしれない。それに加えて痴話喧嘩のように物別れして先に去っていく僕に、彼らは明らかな敵意を向けていた。だが、僕はリサのこと以上に彼らのことを知らなかったし、後々彼らに何かを問い詰められたとしても、下手な弁明はしないつもりでいた。いっそ、リサから付き合ってくれと言われたが、無下に断ったと嘯いて、彼らに袋叩きにされる方が爽快にも思えた。

 ハンバーガーショップを出ると、僕は冬の始まりの冷たい空気を深く吸い込んだ。頻繁に出入りする路線バスや客待ちをしているタクシーの排気が混じって、決して清々しくはなかったが、リサの魔的な引力から開放されて、心は軽かった。

 また学校で会えると言ったリサだったが、それから僕が彼女と再会することはなかった。

 僕が専門学校の受験を放棄して、進路指導の教師たちをやきもきさせていた頃、僕は忘れかけていた彼女の名を、同級生たちが交わす噂話で耳にして、仄かにその愛らしい悪魔の面影を蘇らせた。

 リサは冬休みの間に、退学になっていたらしい。

 クリスマスパーティーと称してカラオケボックスに女友達を集めたリサは、その友達の飲み物に農薬を混ぜて飲ませた。そのことが発覚するや否や、学校を追われたという。幸い、農薬入りの飲み物を飲まされた女友達らは、体内に浸透する前に吐き出してしまったので、死には至らなかった。

 人の死を間近で見たいというだけの身勝手な欲望に支配されていたリサの行いは、校則で裁けるようなものではなかった。

 未成年の犯行で、死者も出なかったことから刑罰には問われなかったが、リサは卒業を目前にしてあっけなく学校を追われ、社会とは隔絶された特別な施設に押し込まれてしまったらしい。

 リサの身勝手な行いは、到底容認できるものではなかったが、その後、父親に次いで兄の直までも失ってしまうと、その時の破滅的なリサの好奇心を、僕は断固として否定することができなくなっていた。つくづく死とは、伝染病のように健全な肉体や精神を好んで巣食うと考えるようになったからだ。

 目に見えない死へのいざないは、その味を知ってしまった本人だけでなく、その人を介して周囲にいる人をも死へ導く。その誘惑はウイルスと同じように、人それぞれに潜伏期間も違っていて、即効性を持っている種もあれば、何年も何十年も心に潜んで、何の前触れもなく芽吹く種もある。

 リサは死を現象として目に焼き付けたかったのかもしれないが、実はすでに死という誘惑に侵されていて、遅かれ早かれ自らも死を体験しようと思ったかもしれない。考え過ぎかもしれないが、父親と直の死を目の当たりにしながら今も生きながらえている僕も、既に死の誘惑に侵されていて、実態はすでに感染者・・・に分類されるのかもしれない。次々と親戚や友人が僕から離れていったというのに、死の誘惑に囚われた女子学生だけに擦り寄られたことが、その兆候とも言えなくもなかった。

 生憎な話だが、思春期の間に僕の身の上に訪れた異性との交遊はリサとのこのような歪んだ間柄のみで、キスだの、セックスだの、フェラチオだのという淫猥な要素は介在しなかった。

 こんな僕だから、唐突で大胆ではあったにしろ、かおりと身体を交えたことが、奇跡のように思えた。計算も下心も邪推も虚勢もなく、ただ触れたいとか重なりたいという願いだけに満たされたかおりの欲求は、潔く尊いものに思われた。そういう感情に(もちろん快楽も含めて)包まれたとき、僕は今までいかに澱んだ水の中を泳いできたのかと、思い知らされた。そして、このままかおりの側で暮らしていけば、やがて僕は父親や直に植え付けられた死の誘惑から解き放たれるのではないかと、安易に考えた。

 僕は休暇の最後の夜、直の部屋の窓を全開にして、真冬の冷たい空気に晒されたまま、全裸になってマスターベーションに没頭した。

 身体は火照り続けていていたので決して寒くはなかった。むしろ、夜気の冷たさに思考が研ぎ澄まされ、車の中でのかおりとの営みを何度でも鮮明に脳裏で再生するすることができた。どれだけ放出してもイキり立つ僕自身は、まるでダーウィンが説いた人間の野性を象徴していた。

 ふと、リサを思い浮かべて放出してみようと目論んだが、うまくいかなかった。彼女の顔もうまく思い浮かべられなかったし、肉付きのいいかおりに比べたら、リサの身体は性的な魅力に乏しかったからかもしれない。夢に出てきた直の恋人でもトライしてみたが、やはり目鼻がない女性と性交するのは、困難だった。そのことは、かおりが僕にとって特別な存在なのだと再認識させてくれた。

 明日になれば、またかおりに会える。そう想像しただけで、僕の下腹部はまた熱くなった。そして僕はまた、まぶたを閉じて、かおりの白い乳房を脳裏に思い描いた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(31)につづく…

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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