_カナリアの子ども

カナリアの子供(3)変化

「こんにちは」
ピッ。「こんにちは、カラスさん。お待ちしておりました。こちらが先日分のデータです」

どの街にも、大抵数カ所は人形を派遣するための紹介所がある。個人売買・契約で購入された人形以外はほとんどが紹介所に所属していて、そこで期間契約を行うのが一般的だ。カラスの銀色人形も紹介所に所属している。
紹介所では所属する人形のメンテナンスも行なっていて、数ヶ月に1度の頻度で定期検査を受けることになっていた。
とはいえわざわざ人が紹介所まで人形を連れて行く必要はなく、人形自身がタイミングを見て、適宜夜間のうちにメンテナンスに出かけてくれる。人間から見れば、デバイス類が夜間に自動アップデートされているのと同じことだ。

「いつもありがとうございます」
ピッ。「毎週いらっしゃるのはお手間ではありませんか?」

人間が人形を所持し、その人形に仕事をさせ稼ぎを得ることが一般的になって以来、職を持つ人間は少なくなった。多くの仕事は人形が担っていて、それは人形の紹介所においても例外ではない。この紹介所は、受付も黒髪の人形数体が行なっている。

ピッ。「メンテナンス結果は紙ではなく、お持ちのデバイスにデータでお送りすることもできます。そちらの方法にお切り替えなさいますか?」

カラスが期間契約を決めた銀色の人形は、耐用年限が随分と近づいていることもあり、週に1度という頻回なメンテナンスが必要と言われている。希望があれば、今すぐにスクラップ行きになってもおかしくないほどの状態だそうだ。

「出かける予定も入れていますので、受け取りに来るのもそれほど手間ではありません。大丈夫です」
ピッ。「さようでございますか。ご希望の場合はすぐにお切り替えいただけますので、不便な点などございましたら、遠慮なくお声がけくださいね」
「はい。いつもありがとうございます」

銀色人形のメンテナンス結果は、ボディに関しては実はそれほど悪くはない。耐用年限が近づいているとは思えない程度の良好な数値ばかりだ。本人曰く、耐用年限が近いのはボディではなく、むしろソフトの方なのだそうだ。
事実、銀色人形の購入費用は、他のものと比べてかなり割安だった。半額にも満たないくらいの値段。
購入費用がどのような基準で決定されるのか、銀色人形の状態がどれほど、どう悪いのか、カラスにはよくわからない。

「今日はこれから、買い物の練習をすることになっているんです」
ピッ。「先日お話しされていた、ファストフード店でのご購入ですか?」
「はい。まだお店は決めていません」

ポーン。「どこかおすすめのお店はありますか? 食物アレルギー含め、選択時に特段の考慮は必要ありません」

銀色人形の問いに、紹介所受付の黒髪人形が検索モードに入った。表情が動かなくなり、視線が合わなくなる。日頃見せることのない”人形らしい”表情だ。

ピッ。「先月オープンしたパン屋ではいかがでしょうか。ファストフード店ではありませんが、仕組みは同様です。店内にイートインスペースがあります。長く混雑が続いておりましたが、今週に入って少し落ち着いたようです」
ポーン。「だ、そうです。カラスくんどうでしょう。このお店にしてみますか?」

カラスに食へのこだわりはない。

「はい。ではそこに行ってみます。ご紹介いただいてありがとうございます」
ピッ。「いってらっしゃいませ。良い1日になりますように」

黒髪人形が笑顔で頭を下げた。カラスもそれにならって、挨拶を返してから紹介所を出た。

ポーン。「カラスくん、街を歩くのに慣れてきましたね」
「はい。銀色さんのおかげです。人にぶつかることも少なくなりました」

銀色人形の名前は長い。覚えられなかったこともあるし、購入期間中は買主が自由に名付けていいことにもなっているので、カラスは人形を”銀色さん”と呼ぶことにした。
紹介所の受付にいる担当者のことは、名付けの権利などはないけれど”黒色さん”と呼ばせてもらっている。

ポーン。「人や物との距離の取り方が上手になったのですね。お家でも家具にぶつかることが減りました」

上手、と言われて居心地が悪くなる。些細なことでも褒められるのに慣れない。

「メガネにも慣れたので、そのおかげもあると思います」
ポーン。「メガネは慣れていても、長時間使用していると頭痛の原因などになりますね。矯正手術をしてしまった方が楽ではありませんか?」
「身体に器具を入れられるのは、あまり得意ではありませんでした」
ポーン。「麻酔を利用しますよ。痛みはありませんし、希望があれば寝ている間にすませることもできます」
「薬で眠ると時々、意識があるのに体が動かないような状態になります。その状態で触れられるのは苦しくて、好きではありませんでした。……僕は手術が怖いのだと思います」
ポーン。「そうですか。では、メガネを大切に使うのがよさそうですね」

カラスは頷く。
慣れてしまえばメガネは便利だった。ハッキリした世界で、自分を脅かすものがやってくるのを眺めていなければならないのはさぞ恐ろしいだろうと思っていたけれど、そのような存在には、”切断”後から今のところまだ出会っていない。
「銀色さんがいるおかげかもしれない」と、カラスはほのかに信じている。ぼやりとしたやさしい世界につながっている、暗闇で淡い光を放つ銀色の人形。

ポーン。「視力に問題のない人でも、オシャレの一環でメガネを身につける場合があります。そのような人たちは、複数のメガネを所持しているそうです。カラスくんも、もういくつかメガネを作ってみてはいかがですか? ついでにオシャレを楽しんでみてはいかがでしょう」
「先日オシャレの概念は理解しましたが、魅力についてはまだわかっていません。オシャレとはなぜ、何のためにするのでしょうか」

カラスが質問すると、銀色さんは嬉しそうな顔になる。彼は人間から頼られることや、それに応えて満足してもらうことに喜びを覚えるのだ。人形たちはみんな、人間への献身を喜びとして認識するようにできている。

ポーン。「オシャレの目的は様々です。自己表現、求愛に際しての工夫、TPOに自らを沿わせるため、自分を奮い立たせるため……などが一般的でしょうか。集団に自己を埋没させるため、というケースも多々あります」
「たくさんあるのですね。難しそうですし、やはり僕にはまだ必要性が感じられません」
ポーン。「しかしメガネは2つ以上あると、単純に便利です。寝起きに踏んで壊してしまったり、出先で突然破損してしまったりした場合の予備になります」

それは便利そうだと思った。

「では、検討してみます」

カラスが答えると、銀色さんはやはり嬉しそうに頷く。そんな銀色さんを見るたび、なぜいつもこんなに嬉しそうなのだろうかと、カラスは不思議な気持ちになる。
嬉しそうにされることは必要なのだろうか。なぜ人形は、人に使われることを喜びと感じるように作られているのだろう。
それはカラスが銀色さんを購入すると決めて以来、なぜだかずっと考えてしまう問いだった。

購入を決めた翌朝、銀色さんはまず、カラスに顔の洗い方を教えた。

ポーン。「カラスくん、それは洗顔とは言えません」
「?」

洗面台のボウルに栓をして水をため、そこにできるだけ長く顔を突っ込んでおく。それがカラスの知る顔の洗い方だった。
そういえばタオルを先に用意しておくのを忘れていた。それがいけなかったのだろうかと思った。
事実銀色さんは、まず荷物の中からちょうどいいサイズのタオルを探し出して渡してくれた。だから受け取って「ありがとうございます」とお礼を言って顔を拭いて、それで終わりだと思った。

しかし銀色さんはそのまま荷物を探り始めた。タオルと同じ箱の奥の方に複数の石鹸類が入っていて、銀色さんが取り出したのは、中でも一番小さなサイズの石鹸だった。それから、少しだけ粘度のありそうな液体の入ったボトル。

ポーン。「洗顔用の石鹸があります。これで洗ってみましょう」

銀色さんは洗面ボウルの栓を抜いてから、カラスの腕をまくった。そして自分の髪を結わえていたゴムを外すと、それでカラスの前髪を縛り上げ、それから水を流し始めた。水温の設定を少しだけ調節して、冷たさをやわらかくする。

ポーン。「私のマネをしてみてくださいね」

カラスは素直に頷いて、銀色さんに倣う。

ポーン。「こうして手のひらを合わせて椀を作るようにします。そこに水をためて、……そうです、その水を使って顔をすすいでください。これを数回繰り返します」

言われた通りにしてみて、なるほど前髪を結わえたのは、濡らさないようにするためだったかと学ぶ。
水を一度止めると、手を出すように言われた。それも言われた通りにすると、小さな石鹸のポンプから泡が出てきた。

ポーン。「その泡をつぶさないように両手に広げて……それで顔をやさしく洗います。泡で顔を包み込むようなイメージです。こする必要はありません。泡を顔に乗せて……はい、そんな感じです」

泡は少しくすぐったいように感じられた。ムズムズする。
そこまで終えると、銀色さんはまた水を流し始める。

ポーン。「手をはじめと同じようなお椀型にしてください。しみますので、まだ目は開けないでくださいね。手に水をためて、それで手と顔の泡を洗い流して、……はい、それで終了です。もう一度タオルをどうぞ」

手渡されたタオルはふわふわとしていて、顔を埋めるのは心地よかった。

ポーン。「ゴシゴシと拭くよりも、水滴を吸い取らせるようにするのがよいそうです。はい、ではもう一度手を出してください」

まだ少しだけ水気の残る手を差し出すと、そこにボトルから少量の水分が出された。

ポーン。「これを両の手のひらに広げて、顔に塗り広げてください。力を入れる必要はありませんが、顔全体を包んで膜を貼らせるように……」

顔に何かを塗るのは初めてだった。少し気持ち悪い。

ポーン。「はじめは慣れないかもしれませんが、慣れると顔が楽になりますよ。洗顔後のキシキシとした不快が起きにくくなります」
「わかりました。我慢してみます」

答えながらメガネをつける。銀色さんの顔がハッキリと見えるようになる。
少し長めの銀色の髪。思い出して、前髪を止めてもらっていたゴムを返した。ゴムを受け取った銀色さんが後ろの髪をひとつに結ぶと、カラスも見知った顔に戻った。

ポーン。「洗顔は、朝と夕の2回行うのが一般的です」

はい、と頷いてふと足元を見ると、あたりはビシャビシャに濡れてしまっていた。
自分の洋服も同様だ。

「す、すみません! 汚してしまいました……!」

焦ってその場に這いつくばる。早くどうにかしなければと一瞬で鼓動を早めたカラスの肩に、銀色さんがそっと手を置く。

ポーン。「大丈夫ですよ。私が拭いておきますね」
「だ、だめです。自分が汚したのだから、自分で綺麗にしないと……」

完璧に、速やかに。
でないと、とてもおそろしいことがおこるのだ。

ポーン。「大丈夫、大丈夫ですよ。では、一緒に拭きましょう。今雑巾を探しますから、そのまま待っていてくださいね」

待つように指示された。だからカラスは大人しく待った。
銀色さんはしばらく荷物をゴソゴソとしていたけれど、雑巾は見つからなかったらしく、先ほど使ったタオルを手に取った。

ポーン。「すみません、雑巾がないようなので、これを使って拭いてしまってもいいでしょうか。ちょうど枚数も不足していますし、タオルはまた後で購入しましょう」
「はい、わかりました」

ふかふかと心地よく感じた1枚のタオルを、一緒に使って床を拭いた。
なにか道具を使って床の掃除をするのは初めてだったし、それを誰かと一緒にするというのも初めてだった。ふかふかのタオルは水を吸ってベシャリとしてしまって、色も床の埃のせいで黒くなってしまう。
カラスはそれだけで情報過多になってしまって、何を話すこともできなくなってしまった。

ポーン。「こうやって顔を洗ったのははじめてですか?」
「はい」
ポーン。「とても上手でしたね。また夕方も、明日も、明後日も同じようにすれば、もっと上手にできるようになります」

上手? こんなに汚してしまったのに? どこがだろう?
上手なわけなんかなくて、婉曲に咎められているのだろうと恥じ入った。自分は、たかだか顔を洗うだけのことすら満足にできない。
けれどすぐに、人形はそんなことはしない存在なのだと思い出して考え直す。人形は人間を、責めも咎めもしない。絶対に。
つまりどうやらこの人形は、本心から自分を褒めているらしいのだ。

「……すみません。もっとちゃんとできるように努力します」
ポーン。「カラスくんはがんばりやさんですね。大丈夫、慣れればすぐにできるようになりますよ。大丈夫です」

ムズムズとして居心地が悪い。
大丈夫、という言葉。
意味は知っているけれど、使われたことはなくて、どのように受け止めて返せばいいのかがわからない。何が大丈夫なんだろう。どうして大丈夫なんだろう。
返す言葉を見つけられないまま、カラスは黙って床を拭き続けた。

そんなことがあったのがもう、ひと月以上前のことだ。
カラスが銀色さんの購入を決めたのは、4月の末近く。
今はもう6月に入っている。

ポーン。「カラスくんは、できることがとてもたくさん増えましたね」
「はい」

洗顔だけでなく、一事が万事、そのような調子だった。

入浴はお湯の使い方がわからず、髪も身体も自分だけではうまく洗えなくて助けてもらった。
傷があるときはぬるま湯を使うとしみにくいこと。保護するテープが売っていて、それを使うと少しも痛くないこと。
あたたかいお湯につかると体が楽になること。
ドライヤーで髪を乾かしてもらうのはとても気持ちよくて、ずっと堪能していたいのに、いつもつい眠ってしまう。

服は毎日洗うこと。清潔な洋服を着ると、気持ちも清潔な心地になること。
毎日洗うから、何組か替えが必要なこと。
洗った服は、干さなくても乾かせる機械があって便利。ただ、お日様の下で干すといい匂いになる。

食事はあたたかいものはあたたかいうちに、冷たいものは冷たいうちに食べること。そうすると、同じものでも全然味が違うこと。
椅子に座って食べること。
食具を使うと、手も口周りも汚れにくいこと。使い方は難しいけれど、ゆっくり食べても”大丈夫”だから、すぐにはうまく使えなくても”大丈夫”なこと。
食器は綺麗に洗うこと。
食器を洗ってくれる機械があるけど、食器棚にしまう機械はないから、それは少し手間だということ。

部屋は掃除すること。
掃除に使える道具はいろいろあって、それぞれを上手に使うと効率よく清掃できること。
もちろん掃除をしてくれる機械もあって、でもその機械を使うには先にある程度床の掃除をしておかなければいけないから、なんだか少し面倒なこと。

買い物。
毎日使うものは、なくなってしまう前に買う必要があるということ。
デバイスを使えばお店に行く必要はないこと。
購入には自分の情報をいくつか入力する必要があって、その情報は他の人に教えてはいけないらしいこと。

「銀色さんは人形なので、教えても大丈夫ですか?」
ポーン。「私はカラスくんの人形なので大丈夫です。カラスくんに害の及ぶ可能性のある行為はできません。でも、契約関係にない他の人形に伝えるのはおすすめしません。無用なトラブルを招く可能性があります」
「わかりました」
「契約期間終了後、私はすぐにスクラップとなり、あらゆるメモリ・データは外部に漏れることのないよう適切に保管および消去されます。しかしスクラップまで多少日が残ってしまう可能性もありますので、期間終了後は、すみやかに個人情報削除の申請書類を提出してください」
「そうすると、消すべき情報を消してもらえるのですか?」
「ひとつひとつの精査をするのは困難で、非常に時間がかかります。そのため、カラスくんに関する情報の全てを消去する形になります」
「わかりました」

わかったけれど、それは少し嫌だな、と思った。
どうせスクラップになればそんなこと関係ないのに、なぜ嫌と感じたのだろうと思った。わからなかったので、そう思ったことは忘れておくことにした。
考えても仕方のないことは考えない。疲れるだけだし、全ては無駄だった。

洋服を洗うのも、食事を作るのも片付けるのも、部屋を掃除するのも、デバイスでの買い物も、全て購入した人形に任せたり、サービス業者に外注してもいいのだ、ということ。
むしろそうするのが一般的であること。
ただしときには自分でやってみると、自分の調子を作るのに役立つ場合もあるということ。
自分のことを自分でできて損はない、ということ。

そんなことの全部、ひとつひとつを、銀色さんが教えた。
ひと月と少しの間に、カラスは少しずつ生活の方法を覚えたのだ。

ポーン。「デバイスでの買い物には慣れましたか?」
「はい。今日の夕方、洗濯洗剤が届きます」
ポーン。「では、それまでに帰宅できるようにしましょうね」

店に向かう途中、カラスたちの家の近くに住む女性とすれ違った。
「こんにちは」と挨拶をする。これもこのひと月の間で銀色さんが教えてくれたことだった。

挨拶は便利だ。自分から行うことで、相手の印象をよいものにできる。
警戒心をほぐすことができる。親交の気持ちがあるように示すこともできる。トラブルの発生を事前に抑えることができたり、加害されるおそれを低減できることもあるそうだ。(ただし、これは相手にもよるらしい)

「こんにちは。お出かけ?」
「はい。3ブロック先のパン屋まで行きます」

おすすめはふわふわミルクパンとシナモンロールだと教えてもらう。
友好的な関係になるとこうして情報を得られることも増えるというのは、カラスが自分で発見したことだ。

「ミルクパンとシナモンロールだと、あたたかい紅茶が合うでしょうか」
ポーン。「今日は少し気温が高いので、アイスティーでもいいかもしれませんね」

自分が食事するところをイメージしてみる。
イートインは店内だから、空調もしっかりきいている。だったらやっぱり、あたたかい紅茶の方がいい気がする。

「あの、僕はやっぱり、あたたかい紅茶にしようと思います」

自分の思ったことを言うのは、今でもとても緊張する。
けれど毎日のように鍛えられて、少しずつ自分の声を出せるようになってきた。
銀色さんはすぐに「カラスくんはどう思いますか?」「カラスくんが決めてください」などと言うので、いつでも思っていること、決めたことを伝えるよう、努力する必要があった。

ポーン。「はい、ではそうしましょう。美味しいお茶だといいですね」
「……お店に着く前に、パンを買うときの練習をしたいです。付き合ってもらえますか?」
ポーン。「もちろんです。では、一般的な食料店の店員と同じモードでさせていただきます」
「お願いします」

カラスに購入される前の銀色さんは、サービス・接客業に従事することの多い人形だったそうだ。そのため、銀色さんにはほとんどの対人職に適応できるよう多彩なモードが設定されているのだと、カラスは聞いている。

ポーン。「基本の流れは覚えていますか?」
「メニューから買うものを決めて、選んで、伝えて、内容確認後に会計です」
ポーン。「その通りですね。選択を会話やそれぞれの店舗専用デバイスで行う点以外は、お家でするお買い物と同じです」

在宅での買い物は、カラスが拍子抜けしてしまうくらい簡単だった。
ショッピングサイトにアクセスして、選んで、あとは指示に従って手順を進めていくだけ。それだけで注文したものが翌日には届く。
カラスは文字の読み書きが不得手ではないから、その分いろいろなことがスムーズなのだと銀色さんが言っていたことを思い出す。少し前の雨の日、はじめて図書館に行った時のことだ。

以前の家に暮らしていた間、読み書きや数字のこと、自然の成り立ちや科学・化学、物理の基本的な仕組みについて、カラスは十分に教育されていた。学校には通っていなかったけれど、学校に通っている生徒のような役割を求められることもあって、そのためだったと聞いている。「最低限の知性を感じられる方が魅力的」と囁く者もいたと思い出す。

(図書館はおもしろい場所だった……)

指定されたもの、与えられた書棚からではなく、自由に選べること。監視と強要のない中で、好きなペースで読めること。疲れたら窓の外を眺めてもいいこと。そのまま散歩をしてもいいこと。二つ並んだハンモックに、銀色さんと寝転びながら読書をしたこともあった。そのままうとうとと眠ってしまってもよいというのは、とても心地のいい経験だった。
特に目的を持たず書棚を眺め、興味すらなくても手に取っていいということ。手に取ったそれが想定外に興味深いこともあるということ。
図書館の中には出会いがあった。

(図書館だけじゃない、のかも)

たくさんの出会いがあったと思う。
カラスにそれらをもたらしたのは、みんなこの銀色の人形だった。

(こんなの、僕じゃないみたいだ)

ひと月の間に、全てのことが変わった。2ヶ月前の生活なんて、なんだか遠い異国の話のよう。

(それとも、いまこの生活の方が、だろうか……)

この生活は夢で、現実ではないなにか偶然の奇跡のようなもので、また、以前のように戻る日が来るのだろうか。

「……」

以前を思い出しかけて、考えるのをやめた。
夢でもいいから、今はただ銀色の夢に浸っていたいと思った。

しかしカラスの今の生活は、たしかに現実だ。
そのせいでカラスはよく、以前の生活のことをこそ夢に見た。
痛かったこと、悲しかったこと、寒かったこと暑かったこと、乾いていたこと、苦しかったこと。
ときどき気まぐれに与えられたものがあり、そんな時には嬉しく感じることもあって、そのぶんひどく惨めだったこと。

渦中にいたときは、そんなことのひとつひとつがよくわからなかった。
感じたものを認識することをやめていたから、感覚は全て言葉にならない曖昧さの中にあった。
メガネも与えられずにいたカラスの視界に映る世界と同じで、意味のある輪郭を結ばないものたち。
嵐のようにやってきてまた去っていくのを、ただやり過ごすだけの日々。
それだけの生き物だった。
だったのに。

夜のことだ。

「う、……」

昔の夢を見た夜は、いつも汗だくになって目を覚ます。嘔気が堪えられなくて、吐いてしまえば体は楽になったけど、震えは暫くやんでくれない。
カラスがうなされて目覚めたことを知ると、銀色さんがすぐにやってきてくれる。
汚れた服やシーツを替えてくれて、ぬるま湯でぬらしたタオルで体を拭き、ゆるい服を着せてくれて、最後に少し冷たい水を差し出してくれる。
それからずっと、カラスが再び眠りにつくまで背中をさすっていてくれるのだ。

かつての家の人たちに関係性を切断されるまで、悪夢にうなされるようなことはなかった。
全てはただの当たり前で、日常の世界だったからだ。
けれど、今はそうではない。
だから苦しくなるのだろうとカラスは思っている。

あの家から切り離されてすぐ、自分はおそらく死ぬのだろうと思っていた。そうするべきとすら思っていた。
けれど今は、もう戻れないと感じている。
以前と同じような……銀色さんに会う前の生活に戻るようなことがあれば、その時こそ自分はきっと生きていけないだろうと、静かな確信を持っている。

ポーン。「少し落ち着きましたか?」

夜間のせいか、少し抑えられた小さな声。

「はい。いつもすみません」

夜間は人形である銀色さんにとって、勤務外の時間だ。医療や福祉やライフラインに関する業務、また紹介所で勤務している人形たちはをシフト制で休みを取っているけれど、銀色さんはそうではない。
だからこうして背中をさすってくれているのは、銀色さんのただの好意によるものだ。
好意を無償で受け取ることにはまだ慣れていなくて、とても申し訳ない気持ちになる。

銀色さんの手は、ひやりと乾いていて冷たい。それがカラスの背をさすっているうちに少しずつ熱がうつって、ほんのりと温かくなっていくのだ。
とても気持ちがいい。

「……」

いつもならその心地よさに、すぐ寝付いてしまうところだ。けれどこの日は、なかなか眠りにつけなかった。
カラスは気づいてしまったのだ。
この銀色の人形と過ごす時間が、かけがえのないものであること。
嬉しくて、やさしくて、あたたかくて、とても大事なものであること。なぜだか涙が出てしまうくらい、大切にしたい時間であることに。

銀色さんがスクラップになってしまうこと。
契約期間は1年で終わって、そうなれば自分のことも、一緒に過ごしているこの時間のことも、全て忘れてしまうこと。なかったことになってしまうこと。
それを自分が、嫌だと感じたこと。その理由。……銀色さんと、一緒にいたい。

カラスの目が冴えてしまっていることには、もちろん銀色さんも気づいていた。

ポーン。「そろそろ夜が明けてきました。このまま起きていますか?」
「はい。今日はもう眠れないような気がします」
ポーン。「それでは、早朝のお散歩に出かけるのはどうですか」

銀色さんがカーテンをそっと開けてくれる。深く濃い藍色の向こうに、黄色と水色の空が見える。不思議な色だと思った。

「お散歩、行きたいです。あっちの方、空が面白くて。一緒に来てもらってもいいですか?」
ポーン。「もちろんですよ。もう出かけますか?」
「はい。そうしたいです」
ポーン。「それでは、今日は朝食も外ですませましょうか。テイクアウトして公園で食べてもいいし、早朝から開いているカフェも知っています」

それは、とても楽しそうだ。

「それがいいです。準備をします」
ポーン。「はい。ではお手伝いしますね」

ベッドから体を起こして、もう一度窓の外を眺める。
綺麗だ。
そうか、こういう気持ちを綺麗というのか。カラスはまたひとつ世界を知った。

「銀色さん。空が綺麗です」
ポーン。「はい。とても綺麗ですね。夜から朝に変わる時間、夕方から夜に変わる時間、空はどちらも特徴のある色になります」

ずっと見ていたいと思った。
そのまま切り取って箱にしまって、蓋をあけたらいつでも眺められるようになればいいのに。
カラスの気持ちを読み取ったかのように、銀色さんが言った。

ポーン。「カラスくん、カメラを知っていますか?」
「はい。触ったことはありませんが、見たことや撮られたことはあります。動画をとるものと静画をとるものがあります」
ポーン。「両方ともを撮れるものもたくさんありますよ。カラスくんもひとつ購入してみてはどうでしょう」

カメラは好きではなかった。よい思い出はひとつもなくて、街中に散らばるありふれた監視カメラでさえ、レンズを向けられているとわかると身が竦んでしまう。
(でも、撮る方なら、大丈夫かもしれない)
自分がとられるのではなくて、大切にしたいものを、大切に覚えておくために使うのなら。
(どうだろう……だめかもしれないけど……)

「……はい。欲しいです」
ポーン。「では、さっそく今日買いに行きましょう。もちろんお家でも購入は可能ですが、いろいろな機種があります。お店でアドバイスをもらいながら買う方が、気に入ったものを見つけやすいかもしれません」
「そうですね。そうします。大事にしたいので、長く使えるものを探したいです」

カラスの言葉に、銀色さんはまた嬉しそうに笑った。
いつもいつも、とても嬉しそうに笑うのだ。なぜなら銀色さんは、そういう風につくられているから。

つくられているだけなのだ、とわかっていてもなお、カラスは銀色さんの笑顔を見るのが嬉しかった。
だから銀色さんの写真も撮っておかなければいけない、と思った。
いっぱいいっぱい撮って、きっとずっと残しておくのだ。
ちゃんと忘れずにいられるように。いつでもずっと思い出せるように。


*******

シリーズです。続きます。

お読みいただき、ありがとうございました!

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