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連なるべき文脈の欠如

下記、コロナウイルス感染予防に関して行われた「要請」につき、考えたことの覚書です。こういうことがあった、こういうことを思い、考え、悩んだ、ということを忘れたくなかったので。


発端

2020年2月27日(木)夕方、突然「全国の学校(小中高)に一斉休校を要請する」というニュースが流れた。
期限は3月2日〜春休みまでの約2週間、とのこと。
学校はもちろん、各現場にはそれまでそのような伝達・通達・連絡はなかったようで、現場の人たちこそ驚いたことだろう。

2月27日は木曜日、3月2日は月曜日。
つまりこれは、突然の要請があった翌日の金曜日、その1日だけで、何の準備もしていなかった、その先2週間のことをどうにか調整せよ。という要請だ。
これまでに積み重ねてきた日常のための準備を、全て捨てて。子どもたちにも捨てさせて。

しかも(小中高ではないが)学校法人で仕事をしている家族によると、「文科省からの正式発表はまだ」だったそうで、それがあるのは28日(金)、つまり「何の準備もないその先2週間のことをどうにか調整」しなければならないその当日の予定だった。

あり得ない、以外に言えることがあるだろうか。

文脈の欠如とは

この件に関し、私はこうツイートした。

https://twitter.com/tiharu4happy/status/1233147730014294016?s=20

その背景には、このような思いがあった。

https://twitter.com/tiharu4happy/status/1233146215665004545?s=20

これまでに聞いていたハイリスク層どうのの話などとはいろいろ違っていたから驚いたし、まず真っ先に「どうにでもしやすい」(と思われている)子どもたちの生活から塞いでいく、というやり方は心底ゲスである、と思ってはいるが、一斉休校自体には、私は反対ではないのだ。

狭い教室にぎゅうぎゅうに生徒たちを詰め込んで、雁字搦めにして行動を制限する。
真夏であっても水分補給には許可が必要だったり、教師によっては「休み時間に飲めと言っただろう!」と怒り出して結局水を飲ませてもらえない……という事例だったり、そんなもんがある場所に、感染症のリスクが高まる可能性があると言われながら子どもを詰め込んでおくことが、必ずしもいいことと思わないからだ。

(学校により、もしくは教師によって違う、というのはわかっています)
(そんな属人的な要素で、子の健康や生命が左右されるようなことがあってはいけないわけですが)

あぁでも今回の一斉休校は、子どもが感染することを防ぐ、というよりは、感染した子が高齢者や疾患のある人に感染させてしまうことを防ぐ、というのが目的だったか。つまり子どものことが考慮された結果の休校ではもともとなかったような……。
それも仕方のないことなのだろうが、いつも調節弁や緩衝材に使われる立場というのは悲しいのだよな。
悲しいとか言ってる場合じゃないと言われればそうかもだけど。そりゃ「他者に感染させてしまう」リスクなど、子どもにだって負わせたくない。

いやしかし、一斉休校になった子どもたちはそれぞれ外に遊びに出ることもあるだろうし、繁華街に出ることだってあるだろう。公共交通機関を利用して。つまり、学校に通っている間よりも不特定多数に接する機会が増え、移動距離が増え、より感染させるリスクを高めることになった子どもたちだっているのではないか。
やはり意味はわからない。

それでも、

特に卒業を迎える子どもたちや、この春で引越しが決まっているような子にとっては、ものすごく寂しい、衝撃的で苦しいことだろうとも思いつつ、「感染症はじめ、健康的不安があるときには無理に行かなくていい」ことを学べるのは、よい機会かもしれない、という思いすらあった。

しかしそれは、上述したような「文脈」がきちっと作られている場合には、である。
この「文脈」、「道のり」と言い換えてもいい。

つまり
 《出発地点》
 コロナウイルスの感染拡大リスクが想定される。
 《目的地》
 感染拡大を防ぐため、全国の学校を休校にする。
とした今回の場合、出発地点と目的地とをつなぐ道のりがよく見えない。
欠如しているのだ。

「道のり」に入るのは、
・一斉休校の有効性と必要性を専門家の声も聞きつつ検討する
・どの程度までどのようになったら休校にするのか、基準を定める
・その基準を現場に伝えておく
・現場は、子どもたちにも伝えておく
・休校にした場合の各種保障をどうするかを考える、予算の当てをつける
・保護者の休業が不可能な世帯ヘの対応策を用意する
・家庭内に感染高リスクの者がいたフォロー
・高リスク家庭の家庭内感染リスクの上昇に備えられる準備がある(いま正直、必要な人にも検査すらできてないでしょ?)
などがある。
思いついたものを列挙しただけなので、雑だし不備があるのはご容赦。

こうしたこの道のり・段階を踏むことができて、やっと《目的地》に辿り着けるもののはずなのだ。

もちろん緊急時だ。完璧は求められない。
どうしても時間がない、という場合には、確かに《出発地点》から《目的地》までひとっ飛び! というのも、ありだろう。

しかしその場合であれ、要請後には踏んでこなかったステップについて説明する、少なくともどういう項目があると考えていて、それらはいつ頃発表するのかを伝えるなど、最低限するべきである。

一斉休校に伴い発生する各世帯の経済負担について質問した記者に対し、くだらねぇなどと吐く無責任はあり得ないのだ。
言われなくても、自分から説明して当然の話。

文脈・道のりを無視した行進は、罠だらけの暗闇を酔っ払って歩くようなものである。
フォローする方、後に続かねばならぬ者が苦労をするのだ。

というかこういうのって、法的根拠が必要なのでは? 「要請であって命令ではない」というのは、実質従わないとヤバいんじゃね? という圧力かけてくる側がそういえばどうでもよくなるようなことではない。とでは?
とも、当然思う。


出発地点の不明瞭

しかも今回、出発地点が不明瞭である。
検査を受けさせてくれないという不安の声があり、検査なんてしても原則意味はないという医療従事者の声があり、必要な人に受けさせるためにも不必要な人は受けようとしなくていい、という声があった。
(いや、もっと実際はいろいろありますが……)

そんな中、厚労省が検査妨害を行い「検査をしていない=感染者数が増えない」という理論にもならない理論を通そうと、感染者隠しをしていたらしい、ということがわかった。

https://twitter.com/tiharu4happy/status/1233336290306715648?s=20

つまり現状、
国内での実際の感染状況も正確には把握されていない可能性が非常に高い、ということだ。

そんな状態で、正しく《出発地点》が定められるものだろうか。
もちろん答は「否。」である。

現状を理解できていないからニーズを正式にとらえることができず、
ニーズを正式に捉えられないから、目指すべき方向の設定で失敗する。
出発点が綺麗につくれないと、進むべき方向は見えないのだ。

今後したいこと、すべきこと

うちの子の幼稚園については、週明け火曜までは自由登園+延長保育あり、ということが決まっている。
水曜以降については、全くの未定らしいが。

今後本当は、ストライキみたいな、「無理なのでいけません」で仕事をブッチするような行為が必要なのだと思う。
たとえ今回の「一斉休校騒ぎ」がなかったとしても、この社会にストは必要だ。

「人件費を削り、職場の人員からゆとりを剥奪したせいで、有事の際には身動きが取れなくなる」のだということを、企業体も学習すべきだから。

もちろん、こうしたスト行為のハードルがとても高い、という気持ちはわかる。とってもわかる。同じ職場に仲間がいたり、世間的に「ストとか当然では?」という空気ができたらいいのだろうが。(そういうのはまず自分で作ろうとするのが筋である、ということくらいは知っています すみません)

あとは、「文句をつける」という行為を学ぶこと。
「緊急時だし、仕方ないよね」と受け入れてしまうと、どうなるか。
以後何かあったとき、またこうしたグダグダで中途半端で無責任で迷惑千万なクソ対応をとられてしまうのである。その時がもし今回よりも惨憺たる有様になるような、より特大の有事であっても。

なぜなら、今回の件が「成功体験」になってしまうから。
「あぁ、この程度の”やってる感”の演出でいいのねwww オーケー楽勝wwwwww」なんて学習をさせてしまってはいけない。

https://twitter.com/tiharu4happy/status/1233317977371508736?s=20

そうそう、「ママが困る」という類の表現に気をつける、というのもある。
実際、一斉休校の煽りで職場を休まねばならなくなるケースは、パパよりもママの方が多いだろう。おそらく、圧倒的に。
だから「ママが困る」ということ、そのものは間違いではないのだ。

しかしこの「ママが困る」という語にも「文脈の欠如」がある、

なぜママが困るのか(=ママばかりが仕事を休むことになりがちなのか)といえば、
・「育児はママが主にするもの」という意識が社会的に強い
・「育児はママが主にするもの」と企業も思っている(夫の人の会社に顕著かつ無意識な気がします)
・男女で給与格差がある
などの文脈があるからだ。

個人的に一番大きな要因と思うのは、「男女で給与格差がある」の項目だ。
保護者のどちらか一人しか稼ぎに行けないとなれば、より給与の多い方に行ってもらうことになる。それは世帯の生存戦略として、間違いとは言えない。

こうした文脈を無視して「ママが困る」と言ってしまうのは、結果として、こレラの不均衡を是認したかのような効果を生んでしまう。
「自明の理として注意もせず注釈をつけもせずにいる」というのは、そういうことだ。その意識がある/ないにかかわらず。

もちろん、圧倒的に「ママが困る」状況であるにもかかわらず「ママもパパも関係ない!」と言ってしまうようなのは、ママ/パパ間の格差を透明化し、もしくは矮小化してしまうことにもなりかねないので危険だ。

じゃあどうすればいいの? と思うだろう。

要は「言葉は注意して使おう」という話なのだ。
面倒くさいようにも思われるかもしれないが、言葉とはそういうものなので仕方がない。

この土日は
長い春休みのはじまりだったり、先の見えない真っ暗なトンネルの入り口だったり、週明けからの事態に備えててんてこまいだったり、いろいろなことと思う。
目処がついている人、いない人、それぞれだろう。
いずれにしても、みんなどうか生きのびてほしいと思う。
みんながどうにかできますように。

うちは子の園の方針が決まっていないので、現状がどうなのかはまだ言いにくい状況だ。
とはいえ、私とは違い安定した職についている夫が多少は仕事を休めそうなこと、また私が休めそうなのであれば「こういうときに休めるように不安定な就業携帯を選んでるんだから、休ませろよ」というメンタルなので、最終的には(それでも頭を下げまくり、胃を痛くし、胃が痛いままさらに頭を下げても)私も休もうと思っていることもあり、
まぁなんというか、「休む」という選択肢をとることができる分、余裕はあるのだろうと思う。ほとんどちり紙のような薄く儚い微力ながら私も仕事をしている共稼ぎ世帯、二馬力だし。時々は温泉旅行やキャンプを楽しむくらいの余裕がある。

つまり、6歳の未就学児を一人で留守番させて仕事に行く、ということはしなくてもすみそうなだけの余裕だ。

私は小さなライブラリースペースを運営しているのだが、上述した程度くらいの余裕はあるので、土日の間にライブラリースペースに少しだけテコ入れをして、学校から締め出されてしまった子どもたちがより楽しめそうにしておこうかな、と思っている。

チャイルドラインさんの相談電話番号のある資材を補充したりとか。

学校がないというのは、家に居場所のない子どもにとっては、文字通り死活問題なのだ。
生き死にがかかっている。
保護者ももちろん、どうか子どもたちもみんな、無事に生き延びられますように。


……以上、ぶっちぎるような文章になってしまうが、ここで終わる。早くいろんな意味で、事態が収束しますように。


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