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意図せず生まれる

最近はそれで思い悩むことはないけど、それでも頭の片隅にはいつも「自分のやりたいことってなんだろうなぁ。別に金持ちになりたいわけでも、外車とか時計が欲しいわけでも、モテたいわけでもないしなぁ」という問いが置いてある。

仕事が落ち着いてきて暇になったりすると、時々その問いを取り出しては「書くこと」「見方を知ること」とか単語単位で並べて、それ以上進まず「今日はこんなもんか」と思いながら寝る。

つい先週がそんな感じだった。
ただ土曜の朝からその問いに向き合うのは、些かカロリーを使うので東京国立近代美術館でやっている『民藝の100年』に行ってみた。

民藝に興味を持った経緯はうろ覚えだけど、たまたま本屋で手に取った『思いがけず利他』が面白く、そこに料理研究家の土井善晴さんのことが書かれており、土井さんのことを調べていた。

そうしたら今でこそ家庭料理のイメージが強い土井さんだが、元々は家庭料理に良いイメージを持っていなかったらしい。だけど、京都にある河井寛次郎記念館に行った際、暮らしの中に生まれる美を見て、家庭料理は民藝だと気づき、家庭料理に向き合うようになったと。

そんなエピソードを読みながら、なんとなく僕のなかで「暮らしのなかにある美」という文が新鮮で、民藝に興味を持ったのがきっかけだった。

まぁそんなきっかけで先週末『民藝の100年』に行ってきたわけだけど、そこには冒頭の、「自分のやりたいことってなんだろうな」という問いのひとつの回答がそこにあるように思えた。

民藝運動とは、無名の職人がつくる実用的な生活道具である民衆的工芸品を「民藝」と呼び、その民藝には所謂美術品に負けない美しさがあり、本当の美とは暮らしの中にあると唱えた運動らしい。

その運動が始まったのは1920年代で、当時の日本は農業中心の国から工業中心の国に変わろうとしていた時だったと。
要は地元の土地の田畑を耕して農産物をつくったり、近郊の海や川で魚介類を取る第一次産業から、都市部にできた工場に行き製品を製造したり、ビルやアパートを建設する第二次産業に従事するひとが増えてきた時代だった。

少しずつ工場や建設によって生まれていく画一的な"モノ"が増え、美という概念も画一化し、遠い存在になっていく時代のなかで
「いやいや。地域によって自然が多様であり、そこに住むひとの暮らしが多様になっているように、美というものも多様であり自分たちの近くにあるものだ」
と、当時の時代の流れに疑念・警鐘を鳴らしたのが民藝運動なんじゃないかなぁと。※ 僕の個人的な解釈

それは冒頭の「自分のやりたいことはなんだろう?」という悩みにも呼応しているように思える。
金持ちになったら、タワマンに住んだら、フォロワーをつけたら...みたいな「こうなれば幸せである」という幻想の効果が薄れて、おぼろげな不安がある時代のなかで、民藝運動が言わんとすることは、それが幻想であることを断定した上で、
「やりたいことや幸せは、ひとによって多様である。
それと同時に、それらは遠い存在ではなく、あなたの暮らしや生活など、近くに存在する」
ということなのではないかなぁと。

もっと言えば、自身の暮らしや生活ですら、自分の思い通りにコントロールしようとせず、自然や環境が変化することを前提にして、程よく居心地の良い距離感をつくること。
そのために日々の暮らしや自然を丁寧に観察することで、結果的に意図せず幸せややりたいことが生まれてくるのではなかろうかと。


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