いつ届くかわからない手紙を書く

今こうやってnoteを書いているけれど、やっぱり文章を書くことはハードルがあるみたいだ。

だいたい3ヶ月に1度は「なにかを"つくる"ことがしたい」という欲求が出てきては、つくり始めるのではなく「自分は何がつくることが向いているのか?」とか「何がつくりたいのか?」とか自分探しの旅に出ては(家に居るけど)、何も回答が得られずに帰還する。ずっと「自分にとって"つくる"とはなんだろうか?」と問いに答えないと、前に進める気がしなかった。

別に確からしい答えがないままに、今も文章を書いている。だけど、なんとなくの仮置きの答えを最近持つようになった。

実は先月「民藝」に興味を持ったついでに、文筆家の松浦弥太郎さんの本をまとめて数冊買って、読んだ。
知人から「松浦弥太郎さんが民藝運動を提唱していた柳宗悦や河井寛次郎に言及していた」と聞いて、「いきなり1920年代の著作を読むより、その考えを受け継いでいる現代のひとの著作の方が読みやすいだろう」という、なんとも浅はかな理由で松浦さんの本を手に取った。

数冊買った本のなかに『伝わるちから』という著作があり、
その「はじめに」でこんな文章がある。

大切な人を思い浮かべて手紙を書くように。
大好きな人にラブレターを書くように。
文章を書く際、心がけていることは何かと聞かれた時、僕はいつもこう答えている。
僕は自分が書くもののほとんどを手紙としている。それも誰か一人のために書くものとして。

いま思い返せば、小学校の時からから文章を書くことが多かった。
まだ携帯も小学生に買い与えられるほど普及していなかった中、僕は手紙を書くことがよくあった。
それは住んでいた学区が他の友だちと離れていたり、女子の友だちの方が多かったり、文字がきれいだと褒められたことがあったりと、色んな要因があったからかもしれない。
中学校でも校内で2,3人しか応募しない小論文コンテストに応募したり、そういえば高校生の時もなぜか評論文を要約することが好きだった。

だから文章を書くこと自体はどちらかというと好きな方だったんだと思う。だけど冒頭の通り、文章を書くことは億劫だった。
たぶんそれはちょっと大人になったせいか、自分でテーマとかを決めないといけないせいか、「何のために書くの?」とか「何を書くの?」とか「どんな構成で書くの?」とか...etc。そんな問いで頭がいっぱいになるからだ。

だからこそ「手紙」という例えは衝撃的だった。
手紙だったら書いたことがある。
先ずは手紙を送りたい誰かを思い浮かべ、そのひとに伝えたいことや伝えたい感情を言葉にしていく。
いままでは「伝えてもいいかもなぁ」と思うことがあって、「このひとに伝えたい」とか明確な送り先はなく、ただ「なんかつくりたいな」ぐらいで書き始めるから億劫だったんだ。

「なるほどなぁ」と、なんか肩が軽くなった感じも覚えつつ、次に出てきた問いが「なんで僕は手紙を書きたいんだっけ?」と。
(こうやって言葉にしてみると、自分の行動に移すまでの遅さが尋常じゃないなぁ笑)

気になり始めたら手が止まる性格なので、考えてみる。
その時に、また先ほどの『伝わるちから』を読み進めるとこんな文章があった。

ひとつかふたつでも、僕自身で確かめた、あの日あの時、心が揺れたまばゆい瞬間が、どうかあなたに伝わりますように。
分かち合いたい、とてもいいことを。

引っかかったのは「分かち合う」という言葉だ。

所属しているコミュニティであるコルクラボが使われる言葉の1つに「好きの"おすそ分け"」という言葉があって、イベントを通して自分の"好き"を話して、交換している。
また僕がいま属している企業で使われる言葉の1つに「わかりあう」という言葉があって、サービスを通じて自分と相手のことを分かり合おうとしている。

だからかもしれない。
「分かち合う」という言葉を聞いた時に、ただの概念でもなく、手紙のような書き言葉(テキスト)のイメージでもなく、面と向かってひととひととが「語り合っている」イメージが浮かんできた。

僕は「相手からどのように物事が見えているのか」を知ることが好きだ。
同じ対象でも「僕が持つ印象や認識」と「他者が持つ印象や認識」は、基本的には異なる。
その異なる見方を聞いて「へぇ〜あなたにはそんなふうに見えるんだね」と知ることは驚きがあって楽しいし、たまたま同じ見方をしていたら「え!あなたにもそう見えるんですか!?」と嬉しくなる。

何が言いたいかというと、僕にとっての「手紙」とは「自分からどのように物事が見えるのかを伝える手段」であり、返信である手紙は「相手から見える世界を引き出す手段」だと気付いたことだ。

もちろん手紙と違って、相手に届いているかどうか確認する術もないし、返信をもらえる確証はない。
だけど「この手紙は相手に届くのがちょっと遅めなんだろうな」と思えば許せたりする。

お互いの物事の見方をわかりあうために、そのきっかけとして"自分の世界の見方"を「いつ届くか分からない手紙」として書き記すことが、自分にとっての「つくる」ということなんだろうなぁ

この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,974件

いただいたサポートは、書籍代に消え、そして雨となって次のnoteになっていきます。