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「希望の星」から「ライバルチームの王様」になった男。河野広貴、その葛藤と決意

 2008年、J1リーグ開幕戦、川崎フロンターレ対東京ヴェルディ。
 
 川崎フロンターレの中村憲剛を真っ向勝負で打ち抜いた若干17歳の、緑のユニフォームを身にまとうまだあどけなさも残る若武者がいた。

 その名は、河野広貴。

・ヴェルディユースの傑作
 
 日本サッカーの育成組織のパイオニアとして、代表まで上り詰めた選手も含め、多くのプロ選手を輩出してきたヴェルディユースだが、1年目からバリバリレギュラーとして活躍するような選手は、そう多くはない。今でこそ代表まで上り詰めた安西幸輝や畠中慎之輔も、最初から目立つような選手ではなかった。

 そんな中、河野広貴はユース時代から頭角を現し、2007年に二種登録されると、同年のU-17ワールドカップにも出場。正式にトップチーム所属となった2008年からもキレキレのドリブルを武器に、ルーキーとは思えない八面六臂の活躍で、明らかに「モノが違う」と周囲に思わせた、ヴェルディユースの傑作であった。

 何より、チーム愛が深かった。1年であと一歩のところでJ2降格となったシーズン、多くのJ1クラブからのオファーを受けたにも関わらず、彼はチーム愛から残留を選んだ。オファーがあったあるJ1チームの事務所に自ら新幹線で単身渡り、オファーを受けるのではなく断りの返事をしたという逸話が残っているほど、まるでヴェルディのバンディエラと呼ばれた平本一樹の生き写しのような存在だった。

 その後、ヴェルディは親会社日本テレビの赤字に伴い、成績を残せないことを理由に親会社の撤退、クラブ消滅の危機に陥り、ギリギリのところでクラブは存続したものの、そこから数年間、多くの若手選手や高年俸のベテランがチームを去らざるを得ない状況でも、彼はヴェルディに残り続けた。本当にヴェルディのサポーターの誰もが愛し、希望の星だった男に違いなかった。

 だが、2011年のオフシーズン。久々の東京ダービーの開催もあったこの年。ヴェルディは4位で、J1昇格まで後一歩のところまで迫った。しかし、最終戦のトラメガ挨拶、彼の表情は晴れず、サポーターの個人チャントに答えることなく、背を向けて彼は去っていった。

 ついに別れの時が来てしまうのか。だが一方で、これまで上位クラブの好条件のオファーを断り、チーム愛で残留を選んできた河野がここに来て移籍を選ぶとは信じられないというサポーターも多かった。ましてや、そのシーズンは本当に昇格まであと一歩のところで、徐々に経営も安定し翌シーズンはJ1に復帰できるかもしれないという期待感が高まっていたのだから。

 だが、最終節からの数日後に出されたリリース・・・。ヴェルディサポーターは怒りと失望のどん底に突き落とされた。
 河野広貴は、FC東京に移籍してしまったのだ。

 ここ数年のオフシーズン、選手が上のクラブに移籍するのはある程度の「諦め」もあった。下のカテゴリーにいて、経営難で資金が無い事も、サポーターのほとんどは知っていたから。
 だが、FC東京と言うクラブは、ヴェルディにとって同じ東京に本拠地を構える、永遠の宿敵だったからだ。ましてや、ユース出身で育成年代からぶつかることが多かった河野は、それを一番知っていたはずだ。なのに彼は、そのクラブに行ってしまった。以前からこの2クラブで選手の往来は確かにあったが、ユース時代からの生え抜きの選手がFC東京に移籍することは史上初の出来事だった。
 
 お前、俺たちのことをからかったのか。

 あんなにヴェルディの事が大好きだと言ったじゃないか。

 あいつらのどこを、そんなに気に入ったんだ。
 
 俺たちはお前にとって、もう必要ないのか。

 「希望の星」だった男はわずか1日にして、全サポーターにとって、怨讐の存在に変わってしまった。

・FC東京の王様

 それから月日は流れた。

 最初の時期こそなかなかチームになじめず、出場機会を得られていなかったものの、次第にFC東京で定位置を掴んだ河野は、FC東京にとって絶対的な存在となり、日本代表候補やヨーロッパからのオファーが来るほどの選手となっていた。

 そのチームでプレーしていた時期が長ければ長いほど、前所属のチームのことは、時間がたてばたつほど忘れ去られていってしまう。ルイス・スアレスやギャレス・ベイルの前所属チームを聞かれて即座に言える人が、果たしてどれくらいいるのだろうか。河野がヴェルディでプレーしていたことは、両チームのサポーター以外には徐々に忘れ去られていった。

 しかし、2016年の11月、天皇杯で手術を要するほどの大きな怪我を負ってしまったことが引き金となり、若手の成長もあり河野はFC東京での定位置を失ってしまい、レギュラーから外れることになってしまった。

 そんな中、2017年中にDAZNの水沼貴史解説員の発言がきっかけで、彼が移籍を熱望しているという情報が流れるが、彼が移籍先に選んだのはサガン鳥栖であった。

 即戦力としての活躍を期待されていたが、なかなかコンディションを元に戻すことはできず、鳥栖ではわずかな出場時間にとどまり、サガン鳥栖のキャラクターの着ぐるみの中に入っているのではという噂すら出ているほどだった。

・決意の帰還

 そして同年のオフだった。インターネット上で、河野広貴がヴェルディに復帰するという情報が持ち上がってきた。この時点では、最初の移籍時の経緯もあいまって、ほとんど信じているものはいなかった。

 しかし、2019年の2月…情報は嘘ではなかった。彼はレンタル移籍という形ではあったが、実に8年ぶりに、東京ヴェルディに帰ってきた。

 それまで何人もの若手選手を志し半ばで放出しなくてはいけない中、最も帰ってくることはないだろうと思われていた男が、ヴェルディに帰ってきたのだ。

 復帰が決まった時に、厳しい言葉もあった。しかし初日のインタビューで、高木聖佳氏のインタビューを受ける河野は、どこかしら涙ぐんでいた。

 そのシーズンではコンディションがまだ万全には戻っておらず、個人にとってもサポーターにとっても、決して納得がいくような成績ではなかった。しかし時折見せる弾丸ドリブルや、納得いかない判定に抗議する姿は、あの時の河野広貴そのものだった。そして感情的になる若手選手たちをなだめに入るなど、やんちゃというイメージだった以前のヴェルディ時代に比べて、人間的に成長した部分も垣間見られた。

 2019年J2第27節、鹿児島ユナイテッド戦のAT、逆転ゴールを決めサポーターに駆け寄ってくる姿を見て、自然と目頭が熱くなった(試合はその直後追いつかれてドローに終わってしまったが…)

・そして今季

 2020年初春、河野はヴェルディに完全移籍することが発表された。背番号はかつて多くのスター選手や、有望な若手選手がつけていた「7」に決まった。同時にほぼ同じ時期に経営難で移籍せざるを得なかった盟友、高橋祥平もレンタルではあるが、共にプレーすることが決まった。

 もはや彼に対する怒りやわだかまりの感情は、一切ない。

 再びJ1の舞台で、緑のユニフォームを身にまとった河野が赤と青に染まったゴール裏を黙らせるようなゴールを突き刺し、試合後には挨拶に駆け寄って行く…そんな光景が見れることを今は信じていたい。

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