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人の「助けになる」ということについて

私は仕事を通じて「社会に貢献したい」と常々考えているのですが、それが勢い余って「社会に貢献しなければ意味がない」=「人の役に立ってない自分なんて価値がない」という想いにときどき囚われたりします。

つまり、何だか私は自分自身の『社会的価値』についてコンプレックスがあるのですが、最近はちょっと考えかたも変わり、楽になったという話をしていきたいなと思います。

人の「助けになる」のに特別である必要はない

今更そんなこと知っているよという方も多いのかもしれませんが、人の「助けになる」ということは、実はそんなに身構えなくても良いんだなということを最近思います。言い換えれば、他者へ貢献するのには、特別な能力があるスーパーヒーローである必要はないのかもしれません。

自分にとって「大したことない」と思っているような自然に出てくる言葉や行動であっても、相手からすればそれこそ心からありがたいことだったりする。

つまり、自分の得意と相手の得意にギャップがあり、自分の心と相手の心にもギャップがあるからこそ、持ちつ持たれつの関係性というものが自然と生まれていくものなんだと思います。

自分が水に溺れている状態で他の溺れている人を救うことはできないわけで、平然とした態度からこそ他者へ提供できる価値というものが生まれるのかもしれません。

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「好きを突き詰める」ことがなぜ大事なのか

人の「助けになる」という行動によって、お金のやりとりが生まれればそれは仕事になります。そうした前提を踏まえれば、よくいわれる「好きを仕事にする」という言葉も、人間が織りなす互助関係の力学からみても、理にかなっているのかなとも思いました。

「好き」という力のすごいところは、その「好き」なことに取り組んでいる当人が自然体でいられることではないでしょうか。

好きなことに没頭している人の頭には
「これをやらなきゃ」
「失敗したらどうなるかな」
「周りの人はどう思うだろう」
なんて雑念が入り込む余地がなく、ただただ無心に「好き」という自分の気持ちと向き合い行動しているように思えます。

そんな風に「好き」を突き詰めていくと、自分自身のことしか考えていないように見えて、その実は周りの人に対して影響を与えてしまう。そんな連鎖反応が起こりやすくなる気がします。

これって凄いことで、いわば、『あなたのそのままが感謝される=自分自身が受け入れられている感覚』に繋がるので、きっととても嬉しいことなんだろうなということは想像に難くありません。

自分自身の「好き」を理解して、そこに心を砕いていく。その結果生まれる、自分と社会とのギャップを使って、他者へ貢献して仕事に変えていく。

Youtubeやnote, TikTokなどのSNSによって、個人の発信がますます当たり前になることは、「人の助けになることが、どんどんカジュアルになる」ことに繋がっていくのかなと思います。

そうした時代の変化に伴い、「仕事」や「働く」という概念も、苦しく辛いというイメージからフランクでカジュアルなものとして捉え直しても良いのではないか?ということを最近は考えたりします。

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ほなまたね

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