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日本人が知らない:天安門事件の本質

皆さん、こんにちは。日本人は天安門事件を言うと、ほぼ民主化の視点から語りますね。今日は全く新しい角度から天安門事件の本質を分析してみたいと思います。この視点は、皆さんの天安門事件に対する認識を覆し、中国歴史の真実が見えるようになるかもしれません。

その前に、中国生まれ育ちの私はどのようにして天安門事件を知ったのかをお話ししたいと思います。

今から、十何年前ですね、私は中学生の時、授業中に先生が1989年に多くの学生が北京で騒ぎを起こし、それで鎮圧されたという話をさらっとしたことがありました。その時は詳しく話してくれず、私もあまり気にしていませんでした。ただ、1989年に何かが起こったのだろうと思っただけでした。

天安門事件の詳細を初めて詳しく知ったのは高校生の時でした。その頃、私の親友のお兄さんがロシアでビジネスをしていました。ある日、その親友が一枚のディスクを私に渡してきました。そして、「これは他の人には見せないで、自分だけで見てください」と念を押されました。そのディスクはロシアから持ってきたもので、ロシア語で「中国の革命」という意味の「Китайская революция」と書かれていました。それは天安門事件に関するドキュメンタリーでした。

その夜、両親が寝った後、こっそりテレビの前でそのディスクを見ました。そのドキュメンタリーは天安門事件の経緯を詳しく述べており、血なまぐさい場面が16歳の私をびっくりさせました。当時、共産党がいい奴らではないことは知っていましたが、まさか学生たちを街頭で虐殺するとは思いもよりませんでした。映像を見終わった後、怒りで眠れませんでした。翌日、すぐに親友と天安門事件について語り合いました。

私はその時中国を民主化し、共産党の独裁を終わらせ、先輩たちの血を無駄にしないことを誓いました。高校から大学にかけて、毎年6月4日にはSNSで天安門事件を記念する情報を追いかけていました。そして、もし天安門事件が成功していたら、中国は民主化していたに違いないと信じていました。

しかし、年を重ね、中国の政治と歴史について深く理解するようになると、中国の民主化は不可能だと感じるようになり、天安門事件もそれほど重要ではないと思うようになりました。

今は私が中国歴史の角度から見た天安門事件を皆さんに伝えます。

ちなみに、私は犠牲になった学生たちに同情しますが、彼らの失敗はすでに運命づけられていたと思います。これらの学生たちは、権力の最も重要な法則を理解していなかったからです。それは、権力において、理念や思想は後ろに強大な暴力がなければ絶対に効かないということです。

このように言うのは、中国の歴史を見てきたからです。皆さんがよりよく理解できるように、清国を例にとって中国の歴史における権力構造を説明したいと思います。そうすれば、なぜ天安門事件が失敗する運命にあったのかがわかると思います。

清国では、満洲貴族が最高の支配権を持つという権力構造がありました。満洲人が中国を統治し始めた頃、彼らは中国人と権力を共有したくないと考え、中国人を排斥していました。そのため、科挙を重視しませんでした。

しかし、後に彼らは植民地の人々を支配するためには士大夫を利用する必要があると感じました。こうして、清国は満蒙貴族と科挙士大夫の連合政権となりました。中国の士大夫たちは、一時の衰退を経た後、科挙制度の復活により再び台頭しました。

士大夫:科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者です

この二つの勢力は最初は対立していましたが、最終的には微妙な体制を築きました。満蒙貴族が王朝の最高権力を掌握し、漢民族は科挙を通じて官僚となり、政治構造の中で満洲人を補佐する役割を果たしました。

この時期、中国の士大夫には二つのタイプの人々がいました。一つは現実主義者で、彼たちは満洲人が中国人であるかどうかに関係なく、昇進して金持ちになることができればそれでよいと考えていました。もう一つのタイプは、スローガンを現実として捉え、孔子の理論の中で自分に都合の良い部分を取り出して満洲皇帝とけんかし、満洲貴族から権力を奪おうとする人たちでした。


彼たちの考えは:孔子がかつてこう言いました。「夷狄(いてき)の君(きみ)あるは、諸夏(しょか)の亡(な)きが如(ごと)くならざるなり」。これは論語の言葉です、この言葉の意味は、夷狄の国に立派な君主がいたとしても、中華の君主には及ばない、ということです。

あなたたち満洲人は夷狄ではないですか!あなたたちも孔子の思想も勉強しているね!見てください、孔子はこう言っていました。お前たちは孔子の言葉に従うべきだ!あなたたち夷狄は皇帝になる資格がない。退位すべきではないか?

皆さん、自分を雍正帝だと想像してください。こういう士大夫にどう思いますか?絶対怒るでしょ?

当時の雍正帝はこれを聞いて非常に怒り、彼らを凌遅刑しました。

凌遅刑(りょうちけい):人間の肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり激しい苦痛を与えながら死に至らしめる処刑方法です。

天安門事件の若者たちも、ある意味で同じような困難に陥っていました。彼らは情熱を持っていましたが、真の権力のルールを理解していませんでした。

中華人民共和国は1978年以前、権力はソ連によって訓練された幹部の手に握られていました。元地主階級の知識人や官僚は共産党によって打倒されました。

しかし、共産党が1978年に改革開放を行い、高考を再開した後、これらの人々は高考を通じて再び支配階級に戻りました。当時の中国では、大学に合格すれば準公務員とみなされましたが、彼らの主要な任務は共産党を補佐することでした。中国の核心権力を握ることはありませんでした。

しかし、彼らは自分たちの位置を誤解しました。1980年代の西洋の本を読んで、権力はデモで得られるものだと誤解し、デモを行って共産党から権力を奪おうとしました。

共産党は数ヶ月のデモで権力を手放すことはなく、天安門事件が発生し、学生たちは大きな代償を払いました。

天安門事件の後、これらの学生中の多くは、権力の本質を理解し、現実主義者となり、共産党に加入して一部の権力と多くの財産を得ました。

一方で、他の学生たちは海外に逃れ、中国の民主活動家となりました。

皆さんも気づいているかもしれませんが、支配者が満蒙貴族から共産党に変わっただけで、中国の士大夫の観点から見れば、だいほんは何も変わっていません。

清国の漢族士大夫は孔子の『論語』を持ち、満蒙貴族から権力を奪おうとし、天安門事件の大学生は民主の旗を掲げて共産党から権力を奪おうとしました。

当時の士大夫も現代の学生も、中国の権力の真実を理解していませんでした。

中国の歴史には新しいことは何もなく、ヘーゲルがかつて言ったように、本質的に中国には歴史がないのです。

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