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概念を縄文でぶち壊す

 縄文土器を知ってるだろうか。多分、一番有名なのは火焔土器。燃え盛る炎のようだと近世の学者が勝手に名付けた。

 縄文土器の展示を見に行くと、俺を含めほとんどの人がその文様を解釈しようとする。
 これは動物なんじゃないか、これは安産を願ったんじゃないか。どれも正解かもしれないし、不正解かもしれない。芸術ってのは所詮そんなもんなのかも。道端に落ちてる犬のうんこも、人の解釈次第でどうとにでもなる。

 むしろ、一般的にはそこに意味づけする作業が芸術かもしれない。いかに崇高な意味づけが出来るか。カッコよくて美しい言葉を当てはめられるか。

 その視点でいうと、縄文土器は芸術じゃないのではと思い始めた。どうにかして理解してやろう、どうにかして言葉の檻に陥れてやろうと試行錯誤するが、そもそもその次元じゃなさそうである。縄文人に影でクスクス笑われてる気がする。

 なんというか、いかにして心に"渦"を巻き起こすことができるか。そんなニュアンスを感じる。俺の縄文土器の楽しみ方のひとつとして、展示室に一歩踏み入れ、土器が目に入った瞬間の胸のざわめきがある。いつもならそこからざわつきの正体を解釈しようとする試みが始まるわけだが、本当はファーストインプレッションで完結しているのかもしれない。

 現代では、有象無象の言葉が溢れ、あらゆる概念が抽象化される。頭の中も、世の中の情報も理路整然と整っている。
 一方縄文時代は今に比べ、渦が多かったように思える。人に対しても、自分自身に対しても、ニュアンスでコミュニケーションをとっていたのだろう。やばいとか、えもいとか、結構そんな感じで物事の良し悪しを判断していたのではないだろうか。
 つまり、縄文土器もどういう意味があるかというよりは、やべーかどうか、えもいかどうかが重要だったと思う。まじやべーものは、心に大きな渦、グウォングウォン、ギュインギュイン的な何かを生みつける。

 岡本太郎が「芸術は爆発だ」と説いたが、それだと批評家の立場が無くなってしまって可哀想だから、「爆発は芸術だ」のほうが世界が優しいかもしれない。
 オークションで何十億という価値がつけられる芸術の世界と、もっと身近で根源的な芸術の世界があるとしたら、縄文土器は後者ではないかと思う。

とはいえ、俺に本物の"縄文土器"は作れない。なぜなら残念なことに、言葉をたくさん学んでしまった。だから、少しずつ言葉の檻から抜け出して、ポコポコ小爆発を起こしてゆきたい。

そして、出来ることなら縄文人たちに意見を聞いてみて「へ〜、まぁなんでもいいんじゃない?」と一蹴されたい。

自作土器

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