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【雨宮まみ『40歳がくる!』】生きても、死んでも、どっちでもいいかなぁ【読書ノート】

半月弱の間、noteから姿をくらましていた。
わたしは向き合っていたのだ。片山廣子、向田邦子、雨宮まみ、さくらももこ⋯⋯かつて存在していた、いい女たちと。
そして自分の来し方に想いを馳せ、行く末を占っていた。
彼女たちの遺したものを読むことしか、対峙する方法がないのが残念。
なんとかわたしが生きている間に、タイムトラベルの技術が実用化されてほしいものである。

こういう場合、詳細を語らない方が格好いい気がするのだけど、別にイケメンnoterを目指しているわけでもない。
わたしの場合、女の馬鹿馬鹿しさやダサさを積極的にご開帳していった方が、かえっていい女に近づける気がするのだ。
なので、行方不明中に読んでいた1冊について語ってみようと思う。


雨宮まみ『40歳がくる!』

ノートに書ききれなかった想いのある本が記事になる

これまで、「死にたい」と本気で思ったことは2回しかなく、自らの行為によって向こう側に逝ってしまいそうになったことは一度きりなので、まずまず幸福な人生だと思っている。
その「死にたい」も結婚後はすっかりなりをひそめ、パグ姉妹をおいて逝くのはできれば遠慮したい。残響があるとすれば、夫より1分でも1秒でもいいから早く死にたいと願っていることくらいだ。
12年間、「死にたい」と思わずに生きていられるということであれば、順風満帆といって差し支えないのではないか。

雨宮まみ。
『女子をこじらせて』で一世を風靡し、「こじらせ女子」という言葉の元となったそのライターと、わたしの人生が交差することはこれまでなかった。
たしかにわたしは雨宮まみ世代なのだけど、「こじらせ女子」が流行っていた当時、わたしは自分のことを「こじらせている」とは思っていなかったし、自分には無関係な世界だと思っていた。
何より、その頃のわたしには小説以外の本を読むという選択肢がなかった。

筆者が亡くなった後に存在を知り、ものすごい勢いで惹かれる本というものがある。そうした本には、魔力というか、妖力というか、不思議な力が宿っている。
書店の、お店の規模にしては小さなエッセイコーナー。
平積みにされていたわけでもなく、目線の高さにあったわけでもない。
なんの気なしにふと見上げた先に、本書の真っ赤な背表紙が挑発的な面差しで佇んでいた。

「あんたにもくるよ?  40歳」

そう。きてしまう。
16歳になったとき、「進路、つまり人生が確定するまで2年しかない」と幼く絶望した。
20歳になったとき、「老いたくないから30になる前に死のうかな」とふんわり予定を立てた。
30歳になったとき、「昨日のわたしと今日のわたしと、別に何も変わらないな」と思いのほか軽くなった。
40歳にはまだなっていない。

冒頭で「死にたいと思ったことは2度しかない」と述べたが、雨宮まみのそばには常に死が控えていた。
一見キラキラした東京生活を満喫し、都会の女であることを楽しみ、松任谷由実と並んで飲んでいても、その隣にはいつも「死のう」という意識を侍らせていたのではないかと思えてしまう。
死因については彼女と近しい誰もが頑なに口を閉ざしてはいるが、文章には甘ったるく心地良ささえ覚える彼岸の香りがまとわりついている。

私が、毎朝ジョギングをしてそれで健康になって痩せて村上春樹みたいな文章を書き始めちゃうなんてことはあり得ない。だから、もっと根本的なところで自信が欲しい。ちょっとくらい太っても、痩せても、そんなことで揺るがない自信が欲しい。

40歳がくる! より

死ぬはずだった日に、ウエディングドレスを買ってもらえるとは思わなかった。なんだったんだろう、この狂った日は。だんだんおかしくなっていった自分が呼び寄せた日だとは思わない。だんだんおかしくなっていく自分に、近づこうとしてくれた人のおかげで突然現れた奇跡のような日だったんだと思う。

40歳がくる! より

それでもなお、雨宮まみは格好良いのだ。
毎晩希死念慮と寝ていますという顔をした文章を書いていたとしても、でも私は生きているんだと叫んでいて、欲望に忠実で、40歳をサバイブしてやるという心意気が伝わってくる。
結果がどうだったかなんてことに言及するのは野暮。
急な飲み会の誘いに応じるか応じないか、その程度の差でしかない。
誘いがあるかないか、それ含めてわたしたちはみんな、紙一重の世界で生きている。

わたしのちょうど10歳年上の著者。
少し先の人生を歩むお姉さんとして、『50歳がくる!』『還暦がくる!』とその節目節目を読んでいたいと思ったが、もう叶わない。
叶わないのなら、書けばいいのだ。
わたしなりの『40歳がくる!』を。
あと2年で、わたしはどんな40歳を生きることになるのだろう。

先のことなんて分かんないからさ、考えるだけ無駄よね

雨宮まみと違ってわたしは「死にたい」と思ったことは2回しかないけれど、それは「絶対生きるんだ」という執着とも違う気がしている。
「生きててもいいし、死んでもいいし、別にどっちでもいいかなぁ」くらいのゆるさで毎日呼吸をしている。

絶望したり投げやりになったりしているわけではない。メンがヘラっているわけでもない。
飼い主の義務としてパグ姉妹よりは長生きしたいけど、すごく長生きしたいわけでもない。
一人で生きていける気もしないから、同い年の夫より長く生きるのは嫌。
自分から積極的にそちら側に逝く理由が、今のわたしにはない。それだけのことだ。

パグ姉妹が天寿をまっとうした後に、うっかり夫より長生きすることが決まってしまったら、そのときは十分すぎる理由になるので、あっさり逝く気がする。
夫が先に死んだら、その棺桶にわたしも一緒に入れて焼いてほしいと願うようになったのは、いつからだっただろう。
絶対に実現しないだろう人生の閉じ方を夢見て、わたしは今日も生きている。

どうせ死ぬならいい女になってから死ぬことにする


ご挨拶が遅れました。
これからもふらっといなくることはあると思うけど、今回の旅はひとまずこれでおしまい。

ただいま。

追記
路地裏でティコと夫婦疑惑をかけられているマイトンさんが、わたしのことに言及してくれていました。
記事で頂いた愛は、記事で必ず返します。
わたしの復帰のタイミングでのこの記事⋯⋯今日も共鳴は健在です、課長。

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