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No.5 『古い契約の枷』

 前回はパウロとバルナバが南ガラテヤ地方(ピシディア州)のアンティオキア、イコニオン、リストラを中心に異邦人伝道を行い帰還した話とその後の悪意あるユダヤ人の妨害について話をさせていただきました。パウロたちがシリアのアンティオキアへ帰還したときにもうひとつの律法に関しての問題が発生します。ユダヤ地方からアンティオキアへやってきたユダヤ人のキリスト教徒が異邦人のキリスト教徒に対して「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えはじめて混乱を招きました。パウロやバルナバはその人たちと激しく論争しますが、恐らくユダヤ人キリスト教徒に同調する人が少なからずいたのでしょう。この問題についてエルサレムの使途、長老たちに判断をゆだねることになりました。

■使徒言行録15:1~2
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。

こうしてエルサレムで使途会議が開かれることになります。
この箇所、簡単に記されてはいますが初代教会にとって非常に大きな決断のときでありました。ユダヤ人にとっての証である割礼や習慣を無視するという結論に至ったからです。

■使徒言行録15:28~29
聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。

これにより現在、クリスチャンである私たちは割礼を受けず、豚を食べたり鱗のない魚を自由に食べて信仰をもって生きています。清くないとされていた食べ物を食べても罪に定められることはありません。
では、律法によるユダヤ人としての習慣は何のために存在したのかという疑問が出てきます。レビ記には

■レビ記1~4
主はモーセとアロンにこう仰せになった。イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。従って反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの生き物は食べてはならない。

これは習慣ではなく神ご自身が語られた言葉です。ペテロも幻のなかでそれらのものを食べなさいと主から言われたとき、「けがれたものは食べられない」と答えました。神が語られ禁じられたことを初代教会が無視すると結論づけたことは大きな転換点だったと思います。
私たちはその後の歴史を知ってしまっているのでピンと来ない部分があるのですが、少し視点をずらしてユダヤ人として考えたときにこの決定は受け入れがたい決断だったのではないでしょうか。

【まとめ】


当時のユダヤ人クリスチャンにしてみれば使途会議は何という馬鹿げた決定をしたのかと思い受け入れられなかった人も多くいたと思います。
以前、「けがれた動物」について真剣に調べてみたことがあります。「ひづめが割れる」ということと「反すう」が意味する「清さ」との関係です。聖書が示すことに関しては深い意味があったり科学的な根拠があったりすることがあるので、「ひづめ」や「反すう」に関して生物学的な解説、ヘブライ語での「清さ」との繋がりなど時間をかけて調べてみました。また、いろんな方の聖書的な解釈を読み漁ってみました。面白いので皆さんも興味があったらやってみることをお勧めします。
しかし、生物学的な根拠はなくヘブライ語でも「清さ」との繋がりはみつからず、しっかり説明できている解釈はひとつもありませんでした。
私が結論として出したのはそもそも動物自体に「清い」、「けがれている」の区別はないということです。神がレビ記のなかで語ったのはイスラエルとしてのアイデンティティを維持させるためであったと考えます。日本人は比較的、何でも食べると思いますが、食文化というのは民族にとって非常に強い習慣として伝えられていきます。まして古代ともなるとその食習慣は住環境にも影響し、食べられる動物の生息範囲へ自然と縛られる形になります。さらには習慣の違いは他民族との混血などを阻害する要因になります。
ですから神はイスラエルを聖別された民として区別されるため、これらを守るように言われたのだと考えます。この考えについてクリス師に聞いたことがあるのですが、ほぼ同じような解釈をされているようで安心しました。

前回、パウロがガリラヤの信徒たちに向けて「仲介者」というキーワードをつかってユダヤ人の律法主義から解放されるよう手紙を書き送った話をさせていただきました。旧約聖書の時代はあらゆる意味で仲介が必要でした。神は仲介者を通してイスラエルの民に語りかけられ、イスラエルは神に選ばれた民として他の異邦人に対して神を証する仲介者でもあったのです。そのため神はイスラエルに対してこれらのことを守り彼らのアイデンティティが損なわれないようにしました。実際、多くの民が長い歴史の中で滅んで消えてゆくなかでイスラエルの国も滅び、時には捕囚として連れていかれ散り散りにされながらもユダヤ人としてそのアイデンティティが引き継がれていきました。良い意味でも悪い意味でもユダヤ人は神を証し、今なお、まだ彼らの役割は残っています。
けれどもキリストを信じる私たちは神が直接的に事を運ばれるために選ばれた新しい民です。

■ガラテヤ3:20
仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。

古い契約の枷から解かれてダイレクトに神の業を成していくことが許されているため誰もが聖霊にあずかることができるようになりました。旧約時代では霊に満たされたのは仲介者だけでした。キリストが十字架にかかった際に神殿の幕が裂けたのも私たちが清いものとして扱われるようになりました。

■第2コリント2:15~16
救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

この使途会議はそれを教会として明確にした大転換の出来事で重大な意味を持っていました。

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