『祝祭の終わりの日に』
2024年6月2日
もう梅雨入りというこの時期にちょうどいい話をさせていただきます。
典型的な地中海性気候のイスラエルには夏の乾季と冬の雨季の季節しかなく、乾季には半年以上、一滴の雨も降らないそうで日本にいる私たちには想像できない気候のようです。乾季は天気予報の意味はあまりなく絶対に雨は降らないそうです。ガリラヤ湖の水位もどんどん下がって水不足が常態化するためイスラエルの子供たちは幼い頃から水を大切にするよう教えられているそうです。
ひたすら雨の季節の到来を待つなかでその兆しを知らせるのが仮庵の祭(スコット)なのです。仮庵の祭は収穫を祝う祭りでザクロ、ぶどう、いちじく、オリーブ、デーツなど多くの果実を収穫して喜び祝います。
でも不思議に思いませんか。雨が一滴も降らないのにどうやって植物たちは育つことができるのでしょう?
植物というのは不思議で過酷な環境に置かれると、内にあるすべてを種の育成に傾けるそうで、昼夜の寒暖差によって得たわずかな水分もすべて注ぎだします。結果、栄養を豊富にため込んだ果実ができるらしいのです。
こうして仮庵の祭での収穫が終わると恵みの雨が降るのですが、この祭りは荒野の40年を思い起こすよう神に命じられ代々、行うよう定められています。
■レビ記23:42~43
あなたがたは七日の間、仮庵に住み、イスラエルで生れた者はみな仮庵に住まなければならない。これはわたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせた事を、あなたがたの代々の子孫に知らせるためである。わたしはあなたがたの神、主である。
仮庵の祭には家の庭やベランダに仮の小屋を作って、そこで1週間、過ごします。また、豊かな収穫を多くの人たちと喜び祝うためにお客さんを招いて踊ったり歌ったり、食事をして楽しむそうです。何度か話をさせていただいていますが、フォークソングの「マイムマイム」というダンスを知っていると思いますが、あの耳になじんだ歌詞「マイムマイムマイムマイム マイム ベッサッソン」はすべてヘブライ語で「מַיִם(マイム)」は「水」を意味し、「בְשָׂשׂוֹן(ベッサッソン)」は「喜びながら」という意味でイザヤ書の次の箇所を唄ったものです。
■イザヤ12:1~3
「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたがその怒りを翻し、わたしを慰められたからです。見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌わたしの救いとなってくださった。」あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む。
よく小学校の運動会などでフォークソングといえばこの曲みたいに私世代の人たちにはなじみ深いものでしたが、不思議なことに曲の意味など考えもしなかったし、恐らくほとんど知る人はいなかったのではないかと思います。仮庵の祭は荒野の40年の旅を思い起こさせると同時に神が罪を完全に赦し、救いを成し遂げられるということを喜ぶ祭でもあるのです。
この仮庵の祭、クリスチャンにはあまり関係がないように扱われてしまっているのがすごく残念です。というのも神の救いの計画にはなくてはならない重要な意味をもっているからです。
【まとめ】
キリストの時代にも仮庵の祭は行われており、ヨハネによる福音書のなかに記されています。
■ヨハネ7:37~38
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
この祭というのが仮庵の祭のことです。キリストの時代、7日目にクライマックスを迎えた祭は祭司が金の器をもってシロアムの池に水を汲みに行きます。祭司の後には、仮庵を作る材料である棕櫚の木の枝や収穫の実りであるレモンの木の枝を両手に持って掲げた群衆がついて行きます。そしてイザヤ書を唱えます。
■イザヤ12:2
見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった。
シロアム(遣わされた者)の池で水を汲んだ祭司は先頭に立って群衆とともに「ハレルヤ、主を褒め称えよ」と歌いながら神殿に戻ってきます。普段は祭司の庭に群衆が入ることが許されていないのですが、この日は例外で祭司に続いて入っていきます。
そして、「どうか主よ、わたしたちに救いを(ホサナ)。」と叫びながら神殿の祭壇の周りを7回まわります。それから、祭司は汲んで来た水を祭壇の西の隅にある銀のじょうろに注ぎました。
その注がれた水が、天から雨を降らせて恵みの雨季がやってくると当時、信じられていたのです。
その最高潮に盛り上がった祭のクライマックスでキリストは大胆にも大声で「わたしのところに来て飲みなさい。」と言ったのです。つまり「神が与える救いの水をわたしが与える」と言い放った訳です。これには群衆ばかりではなく、予想外のできごとに祭司長、ファリサイ派の人々までも混乱し、慌てました。(ヨハネ7:40~52)
キリスト自ら本当の意味の救いの到来をここで宣言されたのです。
仮庵の祭は多面性を持った写し絵です。40年の荒野の旅を忘れるなという命令ですが、実は本当の目指すべき目的地は神の御国(天国)であって未だ旅の途上にあることを忘れてはならないということがひとつです。そして、ヨハネが強調する「終わりの日」(ヨハネ7:37)という部分、勿論、祭の7日目を指すのですが、これは終末も示しています。仮庵祭は収穫の祭、魂の救いという意味での収穫、救いの完成をもうひとつ意味しているのです。
私たちクリスチャンは仮庵の祭を祝う必要はないかもしれませんが、無知でいるべきではないと私は思います。なぜなら、仮庵の祭は私たちクリスチャンにとってもまだ過去のものとなっていないからです。
■ゼカリヤ14:16~17
エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
私たちも神の御国を目指す荒野の旅の途上にあります。神の御国に属しており私たちの現実は御国にあるのです。ですから、私たちも仮庵である地上で証をして多くの人を招いて収穫に備えるべきなのではないでしょうか。
キリストを通して生ける水はその人の内に湧き出て川のようになり、それだけに留まらず多くの人々にも影響していってやがて大きな収穫の時を迎えることになるのだと思います。
■詩編126:1〜6
主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いてわたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。主よ、わたしたちのために大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。主よ、ネゲブに川の流れを導くかのようにわたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
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