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No.1 『パウロ、アラビアに退く』

 長年、パウロの伝道旅行についてまとめてみたいと思っていましたが、すでに多くの皆さんが取り上げて文献も多く、私のようなものが勝手を語る部分ではないような気がしていたので尻込みしていたのですが、面白そうという欲求には抗えず、手を出てしまいました。

パウロはユダヤ人(ベニヤミン族)でありながらタルソス(現在のトルコ南東部にあるタルスス、パウロ生家の井戸が残る)に生まれます。クレオパトラにもゆかりのあるこの街は貿易ルート上に位置していたため裕福で学問でも知られていたようです。パウロがガマリエルの門下で律法を学んでいたということ、ローマ市民権を持っていたということからも裕福な家の出であった筈です。パウロが生まれたのはいつだかわかっておらず、パウロの回心は紀元33年頃というのが定説になっています。これはギリシアのデルフォイ神殿遺跡から発掘された碑文から当時、アカイア州のコリント総督がユニウス・ガリオンであり、パウロはコリントに1年ほど滞在する間にこの総督からユダヤ人の陰謀で告訴されていることがわかっているので、ここを起点にパウロの活動の年表は推測されています。
細かい年表の数字はさておきパウロは故郷のタルソスからキリスト教徒の迫害のためダマスコに向かう途上でキリストに出会います。ですからステファノの事件はその前ということになります。私の勝手な想像では直前の出来事ではなかったかと想像します。
ステファノは捕らえられて大祭司の前に引き出された際に「訴えのとおりか」と尋ねられている問いに対しては答えず、集まっている人々に「心と耳に割礼を受けていない人たち」と呼びかけ、「今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。 天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」(使途言行録7:52~53)と律法の予言に逆らってキリストを十字架につけたと言っています。ここにはパウロの師であるガマリエル1世もおり、パウロも門下生としてそれを聞いていたのではないかと思われます。ガマリエルは人から尊敬されるだけあって柔軟な考えを持っていたとされています。ステファノの言葉にも聞き耳を持ったかもしれません。しかし、年若いこの時のパウロには理解できずステファノを死刑にすることに賛同します。

■使途言行録7:57~60
人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

石を投げつけた人々は耳を手でふさいだとあります。こうして知恵と霊に満たされて雄弁にキリストを語ったステファノは惜しまれて殉教し、キリストを信じる者への迫害の勢いが増して地方に散らされていきます。パウロはこの後、クリスチャンを迫害することに熱心になります。しかし、ダマスコに向かう途上でキリストに出会う訳です。今回はよく知られている部分なのでこの部分を割愛します。

パウロは回心した後にキリストを熱心に伝道するように変えられましたが、実はすぐに行動したわけではなく約10年間、謎の時期があります。その間にアラビアに行ったことが記されている(ガラテヤ1:17)のですがあまりにさらっと書かれていて目的がわかっていません。なにをしにアラビアへ行ったのでしょうか。
また、この10年間にパウロは何を体験して何を思っていたのでしょうか。

【まとめ】

パウロがアラビアに向かったことはほとんど取り上げられることがありません。また、ここの解釈は様々あって何が正しいのかわかりません。私はいつも聖書に登場する人の心情からあれこれ考えています。師であるガマリエルはクリスチャンの扱いに慎重だったことが記されており、恐らくパウロの学びの根幹にも影響していただろうと私は思います。そのパウロが回心した後に考えたのはステファノの言葉ではなかったかと思うのです。
ステファノも最後の弁明で「心と耳に割礼を受けていない人たち」と言っているぐらいですから語ったところで無駄であることは承知の上であったろうと思います。しかし、ステファノの言葉が無駄にならない要素があったのです。そこに恐らくパウロがいたからです。使途言行録にはステファノの言葉が詳細に記されています。そこに使途言行録の著者(一般的にはルカとされているのでここでもルカとします)がいたとは考えられません。その言葉を注意深く聞き取りルカに伝えた人物がいた筈なのです。私はそれがパウロだったと考えます。

ステファノは石打ちにされた時、石を投げた人々の罪はステファノの「彼らに負わせないで」という祈りによってあるいは取り去られたかもしれませんが、パウロの足元には石を投げた人々の上着が置かれました。ヘブライ語で上着は「ベゲド」と言いますが、「ベゲド」には「裏切り」という意味も含まれるそうです。ステファノが「律法を受けていながら裏切り者」と語ったことと、それがパウロの足元に置かれたことに関係があると思うのは考えすぎでしょうか。
パウロのこの時の心境を考えてみたいと思います。ステファノの知恵と霊による言葉に当時、最高の律法の知識を持っていたガマリエルたちが誰も歯が立たたなかったばかりか、偽証してステファノを陥れるという知識人としてあるまじき状況に追い込まれたことに何も感じなかった筈はありません。「心と耳に割礼を受けていない裏切り者」というステファノの言葉は屈辱的にパウロに迫ったのではないでしょうか。
パウロは知識人でしたからキリストに出会ったことのみで単純に考えを180度変えたとは思えません。パウロの目が見えなくなってアナニアが彼の元を訪ねて助けた時、キリストはアナニアに「今、彼は祈っている。」と告げます。パウロは見えないなかで迷っていたのだと思います。そこにステファノの言葉があったのです。
パウロはアナニアの助けによって回復、ダマスコですぐにキリストがメシアであることを伝えはじめるだけでなく、論証したとありますから律法の知識においてユダヤ人にキリストこそが救いであると示したのです。これはステファノがやってみせていたことです。しかし、今度は自分がユダヤ人に命を狙われ、クリスチャンからも信頼されないという厳しい立場に立たされます。実際にペテロに会いにエルサレムに行きましたが11弟子たちに会うことができませんでした。恐らく11弟子に会わせるのは危険だという判断があったのだと思います。
このあたりで前後は不明ですがパウロはアラビアに退いたとあります。新共同訳で「退いた」と訳されている部分は「アペルコマイ」で「後ろを追う」などの意味があります。何も書いてないのでわからないのですが、まだ若い時のパウロですから悩むことがあったのではないかなと考えます。アラビアには律法のルーツがありますので彼が落ち着いて考えるのに必要なことだったのかもしれません。
また、アラビアでの出来事かは不明なのですが恐らくこの10年間の初期に啓示を受けています。パウロはこの啓示について内容を語っていません。それどころか自分のことではないように語っています。

■第2コリント12:2~4
わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。

これが回心の時にキリストに出会った話の可能性もありますが、それなら濁す必要もないと思います。パウロはこの体験を誇るべきではないと書いていますので私は別な体験をしたのだと考えます。
ガラテヤ書4:25のなかで「アラビアではシナイ山」とパウロが書いているところがあります。一般にはシナイ山はシナイ半島にあることになっていますが、本当のシナイ山は別にあるとも言われています。パウロは実はシナイ山に行ったのではないかと私は思っています。完全に勝手な推測でしかないのですが、シナイ山でキリストに会って啓示を受けたのではないかと考えます。これはキリストがアナニアに現れてパウロのことを語ったこの言葉に関連しているように思えます。

■使途言行録9:15~16
あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。 わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。

その体験によってパウロははじめから自分がキリストに結び合わされていたということ、すべてが神によって定められていた道であったことに合点がいったのではないでしょうか。
パウロは知識人なので人と論ずるよりも論理的に書物などを書く方に向いていたのは明らかなのに伝道活動に全力を注ぎ込みました。

■第1コリント1:20~21
知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

パウロは最初にダマスコで伝道した際に自身の行動がステファノに重なって責め苦を覚えたのではないでしょうか。そして、ユダヤ人からもクリスチャンからも信頼されないという立場になって自分の在り方を見失いかけたことがあったのではないでしょうか。パウロはこの時、まだ30歳にもなってなかったかもしれません。私たちがイメージする後のパウロとは違って普通の若者だった筈です。アラビアに退いたという表現はそういうところを示しているように感じます。

その10年の沈黙のなかで神は直接、パウロに語り掛けてキリストの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを示して歩むべき道に導いたのだと思います。
パウロには強すぎるがゆえ人に語ることができないところがあっただろうと、私は思います。それが「わたしにとって、生きるとはキリスト」(フィリピ1:21)という言葉にすべて込められている気がするのです。


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