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『キリストが隣にいたら』

2024年5月12日

 来週はイースターから7週目となりペンテコステです。ですから聖霊についてお話しさせていただきたいと思います。但し、ここはいつもに増して私の個人的に感じたこと、考えを多分に含みます。

聖霊降臨は使途言行録に記されるように初代教会時代に起こったできごとで、復活したキリストが天に昇った後に助け主として来られたのが聖霊なる神です。聖霊について残念ながら私たちクリスチャンは明確な知識を持っていないのではないかと私は思います。ある人たちはもう昔のできごとだから今は聖霊が降るというようなことはないと言っています。TICAはアッセンブリーズ・オブ・ゴット教団に属する教会ですから今も聖霊が降ることを知っており、聖霊の働きを信じています。
1995年、アメリカのペンサコーラ、ブラウンズ・ビル教会で起こったペンサコーラリバイバルは世界中に飛び火してキリスト教会に影響を与えました。激しい霊的現象は日本にも飛び火してリバイバル聖会が開かれて、日本人の救いが一気に拡大すると多くのクリスチャンが信じ期待しました。けれどもそれは起こらず、熱気は次第に冷めていきました。何が起こっていたのでしょうか。聖霊なる神の力が足りなかったのでしょうか。

私もそのなかにいたひとりとして振り返りますが、聖霊の働きは確かにあったと思います。でも残念ながらその霊的体験のなかにはたくさんの偽りもあったと言わなければなりません。当時、多くのクリスチャンが新しい霊的体験で自分を満たすことに熱中し、教会はたくさんの人を集めることを画策して霊的集会のなかで奇跡が起こったことを喧伝していました。霊的に優れている牧師が集会を行うと多くのクリスチャンが霊的体験を求めてステージの前に出ていきました。集会のなかで天使の歌声が聞こえるとか参加した人の銀歯が純金の金歯に変わったなどということを聞きました。恥ずかしながら私も毎日、金歯がないか鏡を見たりしていました。
もしかしたら金歯の話は本当だったのかもしれませんが、私自身にとっては金歯に変わるなど何の意味もなかったのに奇跡の現れに熱中していました。
恐らくたくさんのクリスチャンがそうだったのではないかと思います。

■イザヤ43:19
見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。

当時の私たちは新しい神の息吹としてこれこそ聖霊の働きだと思っていました。そんな熱気に対して、なかには懐疑的な目を持つクリスチャンもいましたが、教会では新しい賛美がされ、霊的体験の証がされて次第に懐疑的な人たちも感化し軟化していったのです。
一部では新しい予言がされて神から新しく啓示を受けたなどもあって、これまでの古い信仰のスタイルからが新しい信仰体験がもてはやされるようなこともありました。
でも、この新しい霊的体験がたくさんの人たちを置き去りにしてしまっていたのも事実でした。霊的体験についていけないクリスチャンたち、また、ほかの教団のクリスチャンたちをあまり考えていなかったのだと思います。そして、何よりもまだ、キリストを知らない人たちを置き去りにしてしまっていたのではないでしょうか。

私はペンサコーラリバイバルからはじまった霊的な働きを否定している訳ではありません。このなかで各地の教会が大きく成長したのも事実ですし、新しい賛美が生まれ、聖霊の働きを信じる信仰が世界的規模で見直されるようにもなりました。
私が考えてしまうのは何故、これほど騒がれながら日本のキリストの福音に影響を与えられなかったのか、どういう理由で神はこのことを起こされたのかということです。

話は変わりますが、少し想像してみてください。
皆さんの前に歩くことができず車椅子に座っている人がいます。その人の目の前に階段があり、降りたいのですがエレベータがありません。やむなく皆さんは周りの人に声をかけ協力して車椅子の人を降ろしてあげることにしました。すると心の中で「その人の足の癒しのために祈りなさい」という声が聞こえました。皆さん、どうされるでしょうか。
これはだいぶ前の話ですが、私が実際に田町駅で体験したことです。「無理です。神さま」と私は心の中で言いました。私が勇気を振り絞って祈ったとしてもこの人の足が癒されるとは思えなかったからです。

■ヨハネ14:12~14
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

言葉は知っていましたが、私にできるとは思えなかったのです。
その後、私はどうしてこの言葉が自分のものとして受け取ることができないのか、どうしたら車椅子の人の足が癒されたのかということを何度も考えさせられました。
そして出した結論というのは単純なものでした。キリストが弟子たちとおられたように、もし、私のすぐ隣にいて「その人の足の癒しのために祈りなさい」と言ってくれたら、できるだろうと確信したのです。

ここに聖霊が降ること、聖霊が働かれることの本質があるのではないかと私は思います。

■ヨハネ14:12~17
この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

聖霊を受けるというのは何かわからない言葉でベラベラ祈ることでも霊的体験を追い求めてハイな状態になることでもなく、クリスチャンとしてのレベルアップでもありません。皆さんはどう考えるでしょうか


【まとめ】


ここで出エジプトの話に少し戻ります。前回、エジプトを出発したイスラエルの民がシナイ山にたどり着き、出発して7週目(49日)、つまり、ちょうどペンテコステに当たる日(現在、キリスト教会はユダヤ人の暦を使わないので七週の祭とペンテコステの日は一致しません)に父なる神から律法を受け取ったということをお話しさせていただきました。
七週の祭(シャブオット)についてお話しさせていただきます。混同してしまいがちですが、良く似た祭りに初穂の祭りがあります。七週の祭りの別名との説明も見受けられますが、それは少し正確ではないです。初穂の祭りは最初に収穫された一番良いものを神に捧げる収穫祭で、実は2回あるともとらえられるのですが単に初穂の祭という場合、大麦の収穫を祝うもので過ぎ越しの祭の7日間(七週の祭と過ぎ越しの祭を合わせて)のうち、安息日(土曜日)の翌日に行わなければならないと定められていました。

■レビ記23:10~11(口語訳)
わたしが与える地にはいって穀物を刈り入れるとき、あなたがたは穀物の初穂の束を、祭司のところへ携えてこなければならない。彼はあなたがたの受け入れられるように、その束を主の前に揺り動かすであろう。すなわち、祭司は安息日の翌日に、これを揺り動かすであろう。

この安息日の翌日とはキリストが復活した日と重なり(マタイ28:1)、パウロもこれについて記しています。

■1コリント15:20~21
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。

そして、七週の祭は初穂の祭りから50日目と定められていました。

■レビ記23:15~17
あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。各自の家から、十分の二エファの上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個を携えて、奉納物とする。これは主にささげる初物である。

あれだけ過ぎ越しの祭の際には家にイースト菌の入ったパンが残ってはならず、パンくずまでも取り除かなければならないとされていたのに、七週の祭ではパンにイースト菌を入れ2つのパンを捧げるよう定められています。これは驚くべきことで、聖書ではパン種は罪を表しますので、本来は考えられないことなのです。
初穂の祭りから50日後の七週の祭の間に何があって大きく定めが変わったのでしょうか。

これはキリストの死と復活によって、キリストを信じる者の罪が赦されて罪のないものと見なされたことを意味していると考えます。その結果、私たちのうちに神が住まわれるようになったのです。
聖霊が降った日がこの七週の祭と重なったのは偶然ではなく、神がそのように計画されていたからです。

使途言行録には聖霊を受けた弟子たちが力強く福音を伝えていくところが記されています。彼らはクリスチャンとしてレベルアップしたように見えるかもしれませんが、そうではなく聖霊を通してキリストがうちに住まわれ、ともに歩まれているということを知り得たからなのだと思います。キリストが隣にいて「網を降ろしてみなさい」と言われたら、たくさんの魚が獲れると思えるのではないでしょうか。
当時の弟子たちにとってエルサレムに留まっていることは非常に危険でした。けれども、彼らはキリストの証人となることを選んだのです。彼らこそ収穫のために捧げられた新穀(小麦)の献げ物だったのです。
聖霊を受けるためのトリガーはキリストを信じて、その証人となるために自身を捧げることだと言っていいと思います。

私は高校生の時にアメリカ、ユージンでホームスティをしたことがあるのですが、その時に仙台から来た佐久間君という友達がいました。佐久間君はクリスチャンではなかったのですが、帰国後、再会して一緒にクリスチャンのキャンプに参加することになりました。そこで佐久間君はキリストを信じ、同時に聖霊をその場で受けたのです。正直、私の心境は複雑でした。私はクリスチャンホームで育ち長年、教会で育ったのにずっと聖霊を受けることができずコンプレックスを抱えていたからです。彼が信仰をもって聖霊を受けたことは勿論、嬉しいのですが、どうして私は聖霊を受けることができないのか、そればかり気になってしまっていました。3日間のキャンプの後、佐久間君は仙台に帰っていきました、
ところが、その後に佐久間君の家族がキリストを信じて救われたという驚くべき話を聞いたのです。佐久間君のその胸にはどうにかしてキリストのことを家族に話したいという強い思いがあったのですが、彼はひとりで仙台の家に帰らなければならなりませんでした。
これが新穀の献げ物です。彼の祈りのなかの願いを聞き、キリストは聖霊を通して佐久間君とともに仙台に向かわれたのだと、だいぶ後になって私は気づくことができました。

■エレミヤ31:33~34
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

出エジプトの時代、律法を授かったその同じ日に授かった新しい契約は胸の中に授けられるとあります。
聖霊を受けることはとても重要です。聖霊が内側で働くと、私たちは自分の個性を生かされた形で自由にキリストの証人となっていきます。そして、聖霊自ら私たちに証人として歩むための知恵、力、祈り、人に語る言葉を教えてくれるようになるのです。また、たとえひとりで歩むような時があっても孤立することはありません。
私たちはただ派手な霊的現象などに心を奪われることのないよう注意する必要があるのではないかと思います。キリストの証人となるために用いられることを望むのが第一です。

今度こそ誰も置き去りにせず、誰もがキリストを隣に感じる聖霊の働きが日本を覆うよう求めていきたいと思います。

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