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No.11 『霊と力による証明』

パウロの第2伝道旅行はコリントを後にエフェソを経由してカイサリア、エルサレムに至って、シリアのアンティオキアへ帰って終わります。使途言行録ではエフェソやエルサレムに行った際の詳細は記されておらず、重要な場所を通ったにも関わらず非常にあっさり終わっています。(使途言行録18:18~23)前回触れたようにパウロのローマ行きの請願は叶わず期せずして訪れたマケドニア、コリントでしたが、この伝道旅行が後世に与えた影響は非常に大きかったと思います。ローマに続く陸路と海路の要所に教会の土台を据えることができたからです。「すべての道はローマに通ず」という言葉がありますが、ローマ帝国が繁栄したことで、ヨーロッパ世界の道が整備され自由に行き来することが可能になりました。また、ギリシャ語が公用語として使われたことがキリスト教の世界宣教に大きく貢献しています。

ローマへ続く陸路と海路の伝道

そして、コリントは様々な人種、立場の人が行き交う街で富と不道徳に満ちていました。本当の意味で異邦人伝道の出発点となったと言っていいかもしれません。聖書にはコリントに対して2つの手紙が聖典として載っていますが、コリントの信徒への第一の手紙の前にも手紙を送っていた様子が伺えます。コリントの教会はあまりに問題が多かったのでパウロは恐らく何度も手紙を書き送ったのではないかと思われます。これまでパウロはユダヤ人会堂などである程度、旧約聖書に理解がある人たちを中心に伝道をしていましたが、アテネでは知識を持ちながらも神を知ろうとしない人たちに会い、コリントでは聖書のベースが全くない人たちに会うことになりました。
このことはパウロにとっても大きな変化をもたらしたのではないかと私は思います。

■1コリントの信徒への手紙2:1~4
兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。

この部分、何となくニュアンスはわかる気がするのですが、よくわからない言葉になっています。「キリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」は「キリスト以外、何も語るまいと心に決めていたからです」なのでは?と思ってあれこれ考えてみました。


【まとめ】


前回、私の推測過ぎませんがパウロが立てていた請願はローマに行くことだったと話をさせていただきました。神はパウロに幻のなかで皇帝の前に立つことを語られていたからです。(使途言行録9:15)そのことはパウロの気負いになっていただろうと思います。神はそのパウロに対してローマへの道を閉ざしアテネでのキリストを論じる虚しさを体験させ、コリントではパウロの豊富な聖書知識は生かせませんでした。聖書を知らない人たちが多かったからだと思います。

■1コリントの信徒への手紙1:26~29
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。

何気にひどい手紙を書いていてパウロらしいなと、ちょっと笑ってしまいます。コリントではパウロとアポロで人気が2分していたことが記されていますがこういう遠慮ないところが原因なのかもしれないですね。
しかし、これはコリントで神に砕かれたパウロが学ばされたことだったのだろうと思われます。マケドニアまでの伝道ではパウロの聖書知識を生かした伝道を行ってきましたが、パウロ自身の能力に頼るところが大きかったのではないでしょうか。それは進む道にも影響していてアジアから旅を始めた時、ビザンティオン(現在のイスタンブール)を目指しエグナティア街道でローマに行こうとしたのだと思いますが、キリストの霊によって妨げられます。(使途言行録16:7)パウロはローマに向かうことが神の御心に叶うことだと信じて疑わなかったのだと思いますが違っていました。
ですからパウロはコリントで砕かれて人間的な考えを捨てて「キリスト以外、何も知るまいと心に決めた」、キリストの思いに従うことに徹したのではないでしょうか。問題ばかり起こすコリントの教会はパウロにとって悩みの種であると同時にキリストの思いを知る機会にもなっていったのではないかと思います。コリントの教会の成長は神に選ばれ、人の考えや知恵によらず神の霊によって成長していくのをパウロは体験させたのではないでしょうか。

神に従って生きる道は平坦ではなく、用いられる人については確実に大きな試練が待っています。でも、人にとって砕かれることは大切です。思いが沈んだり落ち込むことはすべて悪ではありません。私たちが試練に会うときは神が何か大きなことをさせようとしているのです。

■詩編51:19
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません

これは神の力が完全にその人にあらわれるためです。

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