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No.8 『マケドニアに蒔かれた種』

 今回はパウロの第2回伝道旅行のなかで起こったフィリピの街での投獄について話をさせていただきます。
パウロとシラスは占いの霊につかれた女性の妨害にあい、パウロは女性から霊を追い出します。その結果、占いで商売をしていた者たちからの恨みを買い、投獄されてしまいます。

■使途言行録16:16~19
わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。

パウロとシラスを訴えた者たちはローマ市民だったため、余計な騒ぎを起こしたという理由で素性のわからないパウロとシラスをよく調べもせず捕らえたようです。この辺りはフィリピの街が軍人あがりの人物によって管理されていたということと関係がありそうです。その後、鞭うたれたあげく足枷まではめられて投獄されてしまいます。ところが、真夜中にパウロたちが賛美と祈りをしている時に大地震が起こって牢獄の扉はすべて開き、足枷も外れるという事態になります。その時代の大地震の記録を探しましたが残念ながらそのような記録はありませんでした。地震で牢獄の扉が開くというのはあり得ない話ではありません。恐らく石のずれで鉄枠自体が外れたのだと思われますが建物が崩れるほどではなかったのでしょう。ただ、足枷が外れるというのは不思議です。今回はこのあたりの話はよく語られるところなので割愛します。自由になれたにも関わらず、パウロとシラスをはじめとした囚人たちがひとりも逃げ出さなかったことに驚いた看守はパウロたちが伝えるキリストが真実だと知って、家族ともども洗礼を受けて信仰をもつにいたります。そして朝になると高官たちが人を遣わしてパウロたちを釈放するように伝えます。ところが、パウロは遣わされてきた人たちへ強気で言います。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」(使途言行録16:37)それで高官たちは慌ててお詫びしにやってきました。
それなら、最初からそう言っておけば鞭うたれることも投獄されることもなかったのではと思ってしまいます。勿論、看守とその家族が救われることになったことは大きいです。ただ、使途言行録はこの看守について詳しい記録を残しておらず、名前も記されていません。

パウロたちはこの後、テサロニケの街へ向かいユダヤ人会堂で伝道しますが、ユダヤ人たちは暴動を扇動してキリストを信じたヤソンという人の家を襲撃します。この結果、パウロたちは密かにベレヤの街に逃がされます。ベレヤの街では素直なユダヤ人がパウロたちの言葉に耳を傾けますが、テサロニケから追ってきたユダヤ人にまたもや邪魔されてパウロはマケドニアを去り、アテネに向かわざるを得ない状況になりました。
このマケドニアでの伝道はパウロの見た幻により導かれています。でも、使途言行録を読む限りでは助けを求めていたマケドニア人が誰なのかはっきりしません。このマケドニアでの伝道はその後の世界宣教にどのくらい影響したのでしょうか。

【まとめ】


マケドニアへの宣教の意義について考えてみました。パウロは後にフィリピの信徒への手紙を書いています。そのなかでねたみと争いの念からキリストを伝道していたグループがいたことが書かれています。フィリピの信徒への手紙は獄中書簡と言われていますがローマで軟禁されていた時ではなく、第3回伝道旅行のエフェソで投獄されていた時(使途言行録に記述なし)だと考えられています。そこから推測すると最初にフィリピを訪れて3~4年が経過していたと考えます。

エグナティア街道とマケドニア

前回も少し触れましたがフィリピという街はエグナティア街道というマケドニアを東西に貫く重要な街道で西は海を渡ってアッピア街道に繋がりローマに続いていました。

ローマへキリストの福音が伝えられたのは比較的早い段階で皇帝ネロがクリスチャンを迫害した際には相当数のクリスチャンがローマにいたとされています。そのなかで街道沿いにあったフィリピの街はテサロニケとともにキリスト教伝道の拠点としても大きな役割を果たしていて、多くの伝道者が先を争うようにローマを目指したのではないかと思われます。

■フィリピ1:15~18
キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。

パウロにもローマへという思いはあったのではないかと思いますが、キリスト教伝道の基盤固めに注力していきます。フィリピでの投獄の際もローマ市民権を持つことを最初に言わなかったことでフィリピの高官たちがクリスチャン勢力へ気を遣う状況をつくったのではないかと思われます。彼らにとっては治安を維持することが非常に大事でしたから、囚人さえもおとなしくさせるパウロとシラスのキリスト教伝道はよい印象さえ残したかもしれません。また、テサロニケ、べレアの街ではユダヤ人たちのねたみを買ってひどい妨害を受けましたが、この時のユダヤ人は暴動を扇動し「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」(使途言行録17:6~7)と役人へ訴え出ています。これは初代教会時代のローマ皇帝崇拝に対して一部のユダヤ人は賛同し、クリスチャンは賛同しなかったと言われている部分ですが、実は皇帝自体に自身を神格化するというようなことはこの時代になかったようで、皇帝ネロにさえそのような記録はなかったようです。では、どこからこのような発言が出てきたのかということですが、どうもヘレニズム文化による影響が大きく、ギリシャ世界に生活していたユダヤ人がそのような勘違いをしていたと考えられます。ですからマケドニアのユダヤ人たちは自ら墓穴を掘って唯一の神を否定して皇帝になびき、暴動すら起こすようなグループとして認識されていったのではないかと思われます。そして、正しいユダヤ人はそういった強硬派のグループから離れてキリストを信じるユダヤ人も増えていったのではないかと思います。
ベレヤではパウロたちの言葉で聖書を吟味するユダヤ人の姿が記されています。それがテサロニケのユダヤ人にも次第に伝わっていったのだと思われます。

■テサロニケの信徒への手紙1:4~7
神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。

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