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『なぜキリストが唯一の救いなのか』

 前回は罪の話とともに神さまと人との間には越えようのない壁が存在するといいましたが、今回はその破壊についてお話しさせていただきます。

神さまは罪ある私たちを神の「清さ 」に預からせるために唯一の方法を示されたのです。それは罪のないものを犠牲にして、その罪をなすりつけるといった驚くべき手段によって赦されるというのです。

神さまは聖書の中で罪の赦しは、罪のないものを犠牲にすることで赦されるのだということを罪と一緒に徹底的に教えました。

残念ながら人は自分の罪を自分で消すことは出来ないのです。

■エゼキエル33:13~17
「わたしが義人に、彼は必ず生きると言っても、もし彼が自分の義をたのんで、罪を犯すなら、彼のすべての義は覚えられない。彼はみずから犯した罪のために死ぬ。また、わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言っても、もし彼がその罪を離れ、公道と正義とを行うならば、すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、彼は必ず生きる。決して死なない。彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。彼は公道と正義とを行ったのであるから、必ず生きる。あなたの民の人々は『主の道は公平でない』と言う。しかし彼らの道こそ公平でないのである。」

どんな善人であっても悪行を善行で打ち消すことができないと、聖書は語っています。でも、悪人が悔いて神さまにすがるなら赦されるというのです。私はクリスチャンですがどうもこの部分が理解できません。どんな悪人でも赦されるなんて不公平に思えてしまうのです。あなたはどう思われるでしょうか。

少し話が逸れますが、他の宗教について少し考えてみたいと思います。悪事を働く者、良い行いをする者、普通に生きる者の3者があり、悪事を働く者はそれなりの罰を受け、良い行いは報いを受けるというのが一般的で輪廻転生などはそれをよく説明出来る例ではないかと思います。
一般の社会においてはどうでしょうか?様々な国があり、罪に定められる既定は違いますが、罪を犯せば罰せられることに違いはありません。
どこにおいても「赦し」という概念はありません。
(※「恩赦」というのはありますが、常ではなく慶長時のならわしによるものですべての罪に適用される訳ではありません。)

罪を赦すという行為がまかり通るとするならば、人の世界では不公平でしかないのです。なので、どこにもそのような思想、社会の仕組みはありません。
ですから、聖書に記されている「赦し」は人の思想から生まれたものではないと言い切れるのです。どんな宗教家でも人にわかり易い、受け入れ易い教えを説く筈です。自分で理解できていない教えを人に説く愚か者がいるでしょうか?

輪廻転生はなるほどわかり易い、よく考えられた思想だし納得できる考え方だと思います。しかし、だからこそ人の作りあげたシナリオに過ぎないと言えるのではないでしょうか。悪いことをすれば悪いことが自分に帰ってくる因果応報などもそうでしょう。

私たちは神さまが考えるように物事を考え、見通すことができるでしょうか。神さまの摂理をすべて理解できる者などいるでしょうか。宇宙のほんの一部、地球の海の底さえ知り得ない私たちが神さまのすべてを知っているなどということはあり得ないのではないでしょうか。

赦しは神さまの主権によるもので、不完全な私たちの目には不思議であったり、時に理解出来ないことがあります。だからこそ、これは人の考えから出たシナリオではなく神さまのご計画に他ならないのです。

私たちの罪はただひとりキリストにすべてなすりつけることによって、私たちは赦されるのです。キリストがすべての罪を担って十字架にかかった時に厚さ数センチある神殿の幕が上から真っ二つに裂かれました。この幕は神殿の聖所と至聖所を隔てていたもので、罪あるものが至聖所に入るということは死を意味していたのです。
その神さまと人との間にあるとうてい越えようのない壁をキリストの犠牲によって神さまは上から引き裂き、破壊したのです。ですから、私たちはキリストによって罪のないものとして神さまに近づくことができるようになったのです。

すべてはあなたを救い出すためです。

■マタイ1:23
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。


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