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【YOUR/MY Love letter】のリアリティ

Twitterを眺めていると、【YOUR/MY Love letter】がすごい、感動した、全人類に読んでほしい、全米が泣いた、などなどハリウッド映画のような宣伝コマーシャルが流れているのが見えたので、なるほどそれなら読んでみようじゃないかと思い、重い腰を上げて久しぶりにシャニマスのイベントコミュをじっくり読んだ。

一通り読んだ後に、noteやらふせったーやらの感想を読み漁り(私は人の感想を読むのが好きだ。)なるほど確かにこれはいいコミュだ。読んでよかったと感慨に耽る予定だった。

だが、どうも腑に落ちなかった。確かにおおむね感想には同意できるのだが、自分の中に何かわだかまりが残り続けていた。なので思考の整理を兼ねて自分でも文字起こしをしようと思い、久しぶりにキーボードを叩いている次第である。

念のため申し伝えておくと、この記事はいかなる他記事や意見を否定するものではなく、言語化できないわだかまりを整理する過程をつらつらとつづっているだけの文章であり、「答え」を明示するものでも鋭く解釈していくものでもないという点、ご容赦いただき、ゆるりと読んでいただけると幸いです。

以下、【YOUR/MY Love letter】のネタバレを含むのであらかじめご了承ください。






物語としての構成

まずは物語を構成するものを整理したい。

ひとつは、皆驚いたであろう、黒文字に白背景で人物のプロフィールを載せるという、まるでドキュメンタリー番組を見ているかのような表現は特筆すべきだ。現実の番組に似せた演出はシャニマスで珍しいものではないが(クエストロメリアであったり、ストーリーストーリーであったり)今までの主役はアイドルであった。今回はそうではない。

もちろん、これが狙いという訳ではない。名前を明かさず、関係性も明かされない数名のモブキャラが、アルストロメリアを通じて最後に名前と関係性が明かされていくという、いわゆる群像劇の形式のために、主役を置かず、アイドルやプロデューサーでさえ、その他の人物と平等に描いているのである。テレビやラジオ、コンビニで流れるアルストの声を通して、ここはシャニマスの世界だと認識させる演出もオシャレだ。

全編を読み終わったとき、三谷幸喜の作品みたいだな、と思った。

そもそもシャニマスのシナリオ形式・ゲームの仕様が舞台作品に近いものがある(章立ての構成・台詞と背景と演出のみで説明をする・人物を描くことに焦点を当てている、など)というのは以前から思っていたことなのだが、今回のシナリオでそれが際立ったように感じている。特に、後に詳しく言及するが、人物を描くためのリアリティの出し方が尋常ではなく、それが演劇を見ているような錯覚に陥らせたのだろう。

構成要素のふたつめとして、対比構造について言及したい。

わかりやすいところで言えば、娘と父親、生徒と先生、コンビニバイトと女の子といった最後に明かされる身近な存在としての関係性。細かいところでいえば、普通の女子高生とアイドルをしている大崎甘奈、歯磨き粉が出なくなったピアスの女性(もちろんこれはやる気が出ないことの隠喩でもある)と歯磨き粉がなくなっていたことを忘れる桑山千雪、表舞台で輝くアイドルと影のままでいることを選んだプロデューサー、などだ。(もちろん他にもあるかもしれない。unknownについてはそれぞれ自由な捉え方があるのでここでは言及を避けておく。)

これらの構造は、物語のカタルシスを得るための要素であったり、それぞれの人物の個性を際立たせる補助となったり、この物語の主題を明らかにする装置となったりしている。例えば、最後に次々と名前が明かされて、無関係と思われた二人が家族の愛を伝えるという演出は、陳腐でありきたりな設定にも関わらず、楽曲の力も合わさって強力なインパクトを残すことに成功しているだろう。

では、この物語の主題とは何なのだろう?

無償の家族愛を伝えることの大切さだろうか?伝えたいことが伝わらなくても伝え続けることの大切さだろうか?ひとりで悩んでいても、他人と関わることで何か救いが得られるかもしれないことだろうか?「名もなき人」だって光が当たり主人公になってもいいということだろうか?

おそらくどれも正しいし、どれでもないというのも正しいのだろう。シャニマスのシナリオはあえて答えを明確に提示しないように作っている。というより、「Anniversary」や「虹の行方」が流れて感動しましたよね、と終わることを是とせずに、コンビニ店員と名前を無くした甘奈を最後に持ってくることにより、それはそれとして、それだけじゃないよということを伝えてくれる。


批判的側面

物語の構成に対比構造がある、ということは前述したとおりだが、主題に対して対比するオチを持ってくる行為はある種の自己批判の側面を持つ。

ここで一つ『トゥルーマン・ショー』(原題:The Truman Show 1998年)という映画を紹介させて欲しい。

離島・シーヘブンで保険会社に勤めるトゥルーマン・バーバンク(ジム・キャリー)は、「おはよう! そして会えない時のために、こんにちはとこんばんは!おやすみ!」が口癖の明るい青年である。彼は生まれてから1度も島から出たことがない。それは子供の頃、父と一緒にヨットに乗って海へ出ていた時に父の警告を無視して船を進め、父を亡くしたことで水恐怖症を患ってしまったことが原因だった。
ある日、彼がいつものように新聞を買った後、雑踏の中で1人のホームレスの老人が現れる。それは海に沈み亡くなったはずの父親だった。しかしその直後、老人は瞬く間に何者かに連れ去られてしまう。トゥルーマンはそのことを母に伝えるが、見間違えだと言って取り合ってもらえない。これをきっかけにトゥルーマンは周囲の様子を不審に感じ始める。
実はトゥルーマンは生まれた時から人生の全てを24時間撮影されており、そのままリアリティ番組『トゥルーマン・ショー』として世界220ヶ国で放送され続けていた。彼の住む“世界”は巨大なドーム状のセットで、太陽や月、星々も機械仕掛けの照明装置に過ぎず、雨や雷鳴などの気象も人為的な演出である。そして何より、トゥルーマン以外の人物は全て俳優であった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部抜粋

そして、色々な番組側の不手際などにより、トゥルーマンは"世界"の異変に気付く。監視カメラの隙を縫って、海に飛び出し、一面の青空が描かれたセットの壁までヨットでたどり着き、最後にお決まりの台詞を言いながら、ドアを開いて脱出する。それを見ている全世界の視聴者はトゥルーマンの選択に感動し、涙を流し、喝采を送り、24時間365日30年近く生放送をしていた超巨大番組が終了する。

そして番組の終了を見届けた後、次に見る番組を探す視聴者がチャンネルを切り替えるシーンでこの映画は終わる。

私はこの映画を初めて見たときに、何て後味の悪い終わり方をするのだろうと感じたことを今でも覚えている。

この映画の背景には、当時流行したリアリティショーへの痛烈な皮肉が込められている。(ストーリーストーリーでも描かれていたが、)番組ではリアリティを謳いながらも、実は全てに脚本があり演出であること。コメディタッチに挿入される宣伝文句(実際にこれがCMとなる)の気味の悪さも制作側への批判を強めるような表現になっている。そして、主人公の人生を見守り、共感し、応援し、愛着を感じる消費者(映画を見ている私たちそのもの)を、感動したと言いながらどうせすぐに次の番組を見るのでしょうと言わんばかりに、最後のシーンで痛烈に批判する。

【YOUR/MY Love letter】においても、批判とはいかないまでも、感動的なラジオ番組の後に、それを知らない、アイドルに興味がない人間を最後に登場させることによって、"すべての人"に向けてのシナリオであることを強調している。これにはいい側面もあるが、悪い側面もある。

アルストロメリア、ひいては大崎甘奈のプロデューサーは複雑な気持ちになることもあるだろう。自分の担当アイドルの魅力が伝わらない存在が描かれることは、仕方ないにせよ、あまり見たくないものだろう。
話の中でも、アルストのポスターを譲ってもらって、興味のなさそうな彼の描写があった。リアリティとしては間違いではないのだが(好きなアーティストを勧めて、興味なさそうな反応を貰うようなものに近い)、譲った方としてはあまりいい気分ではないだろう。

改めて【Catch the shiny tail】においてシャニPから放たれた「みんな特別だし、みんな普通の女の子だ」という言葉の意味の重さを噛みしめている。

我々プロデューサーにとって、アイドルの魅力を"すべての人"に届けたいと思うのは自然なことだが、【YOUR/MY Love letter】の中では届かない人間がリアリティあふれる描写で描かれている。ある人にとって特別な存在が、ある人には普通の存在であるという事実を、自己批判を伴って描かれている。ラジオでお便りを読まれるだけで生きていける人に対して、コンビニの店内放送としてしか認識をしていない人がいる。テレビに映るアイドルを見て妬ましい気持ちになる人がいる人に対して、同年代の女の子に憧れて自分を変えようとしている人がいる。"すべての人"に届けたいと願った結果、"すべての人"には届かないという現実を知るのである。

コンビニの店員だって、甘奈との会話のあと良い方向にいったんだからいいじゃないか、という考えもわかるのだが、名前を出さない演出が、つまり誰でもよかったのではないか、という捉え方もできるのではないかと、思ってしまうのである。


特別であることと普通であること

コンビニの店員の描写を見ているうちに、芥川賞受賞作品である『コンビニ人間』(2016 村田沙耶香)という小説を思い出した。

36歳未婚女性、コンビニエンスストアのアルバイト18年目の主人公が、完璧なマニュアルの存在するコンビニでマニュアル化された生活の中に安らぎを見出していきながら、「普通」とは何かと問う話である。

社会に出たら歯車として働くべき、という一方で、周りの人間と価値観が違う、社会になかなか合わせられないといった人は現代社会に多く存在する。それこそ【YOUR/MY Love letter】のピアスの女性が会社の歯車として存在する自分にうちのめされ、特別でありたいと願っているように。

一方で『コンビニ人間』の主人公は、「普通」の人間という皮を被って、そのマニュアル通りに振る舞えば、ムラ社会を追い出されることもないということに気づき、コンビニ店員という「普通の役」を信仰することになる。

多様化を推奨しながら、実態としては均一化を押し付ける社会の矛盾に晒されながら生きていくには、何かを「信仰」する必要がある。これは『コンビニ人間』と同様に芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』(2020 宇佐美りん)にも描かれている。

大崎甜花のラジオ「グッド・ネムレナイト」でお便りが読まれて限界化してしまう高校教師にとって、大崎甜花は「特別」な存在として描かれている。杜野凛世のコミュでは「凛世ちゃんが早く治るように俺ら拝んどくから」という、とんでもない台詞を言うファンがいる。

アイドルは現代の偶像崇拝である、ということを言いたいわけではない。現代の「信仰」はとても小さなものであり、アイドルが使っている化粧品が欲しいだとか、推しが好きなゲームをやってるのが嬉しいだとか、Youtubeで見たご飯がおいしそうだから食べに行きたいだとか、そういった小さな願望を積み重ねて自己を形成していくという生き方を、シャニマスは如実に描いている。

「普通」であることを強要される社会において、彼女たちアイドルを「特別」な存在にしているのは無数のファンたちである。ファンが存在しないならば、彼女たちは「普通」の存在なのだ。それはシャニマスが初期から描いてきたことであり、ノクチルの登場でより顕在化し、シーズの七草にちかは「普通」を過剰に強調している。「普通」の女の子が、「特別」になる道のりをシャニPを通して一緒に歩んでいくことが、シャニマスの描く物語だ。

では「特別」な存在であるアイドルは、『トゥルーマン・ショー』のように作られた存在だろうか?答えはイエスである。ではアイドルは批判されるべき存在であろうか?答えはおそらくノーである。

前述した通り、アイドルを「特別」にしているのは、無数のファンの無数の「信仰」なのだ。しかも一つ一つの「信仰」の形は一つとして同じものはなく、それぞれが届くかもわからないのに祈っているのである。

しかし、忘れてはいけないのは彼女たちもまた「普通」の女の子であるということだ。そして「普通」の人だからこそ、「特別」な人が何を望まれているのかを知っているのだ。そして、【YOUR/MY Love letter】において、彼女たちは「普通」の人一人ひとりに向き合う事を決めたのだ。


リアリティを描くこと

さて、「普通」の人と向き合うには「普通」を描く必要がある。【YOUR/MY Love letter】では前述した通り、構成上、そして伝えたいことのために、今まで名前の無かった存在に名前をつけた。そして彼らが「普通」の存在であるというリアリティを出すために、多くの人が共感できるような悩みを持たせ、日常生活のやるせなさを鮮やかに(という表現は少し変だが)表現している。

今までも、共感できるリアリティを伴った苦悩を描いてきたわけだが、それはアイドルの悩みであり、プロデューサーはそれに寄り添いながらアイドルと共に悩み、成長していくことに喜びを感じるというシナリオが大半であった。

それが【YOUR/MY Love letter】においては、プロデューサーの手の届かない、その他大勢の誰かの苦悩となった。そして、それにすごく共感してしまった場合を考えてしまう。

例えば、必死に働いている中「お前の代わりはいる」と言われた経験のある社会人が【YOUR/MY Love letter】を読んだら、一番に共感するのはピアスの女性かもしれない。そして、過去の嫌だった気持ちまで思い出して、辛くなるかもしれない。もっと言えば、その傷が癒えないままこのシナリオを見たら、最後まで読めないかもしれない。

非常に勝手な考えかもしれないが、私はそう思った。

更に言えば、その強い共感性によって、プレイしている我々に向かって「お前たちはモブの一人だ」と言っているようにも聞こえかねない。実際、このシナリオをアルストのプロデューサーとして読んだ人はどれくらいいるのだろうか。
(そもそもシャニPの個性が~云々で自分をプロデューサーと思えないという話は長くなるので後述する)

ご存じのように、最近のシャニマスはいたるところで実在感をアピールするような施策をしている、というのも偶然ではないのだろう。森永製菓とのコラボではシャニマスとではなく283プロのアイドル達とコラボし、実際に宣伝CMや裏話のようなコミュまで作っている。アイドルの誕生日には実在しない広告を背にアイドルが喜ぶ様子をツイートし、Twitterではアイドルが質問にリプライ飛ばしたり、ラジオのようにお便りを読んで曲紹介をした。そしてその質問やお便りは、現実の私たちが送ったものだ。

リプライを貰った私たちはプロデューサーなのだろうか?ファンなのだろうか?現実世界のことなのだろうか?それとも283プロの世界のことなのだろうか?

何かを表現し、伝える際に「ファンのみんな」「プロデューサーのみんな」と伝えるのは簡単だ。しかしリプライパーティでは「みんな」ではなく「ひとり」に向けてアイドルが返事をした。【YOUR/MY Love letter】では一人ひとりの手紙を読み、「あなたの名前を教えてください」と訴えかけた。

無数にある「信仰」だって、どれ一つとして同じものはない。だから一つずつに向き合っていくしかない。というのが今回の主題のように思えてきた。

それこそ、シャニマスがこれまで描いてきたものではないだろうか。個性的でそれぞれの色を持った女の子を、アイドルとして輝かせるために、一人ひとり違ったやり方でプロデュースをする。

なら、「すべての名もなき人たち」にだって向き合えるんじゃないか。そういうことをシャニマスは伝えようとしているのではないだろうか。


私の名は?

一つ思うことがあった。このシナリオを見ている私は誰なのだろうか?

普段のプロデュースコミュであれば、高身長白スーツイケメンのシャニP(以後ゲーム内の彼を「シャニP」と言うことにする)の背後霊として、もしくはただの空気として、アイドルを見守り、選択肢を選ぶことによって自分だけのプロデュースをしている、と言えなくもない。実際にW.I.N.G.で敗退してしまったときなどは、「私」の力不足という実感から悔しさが込み上げてくる体験などを皆もしたことがあるだろう。

シャニPの個性が強いから、私はプロデューサーではないという考えには異を唱えたい。確かに私もあなたもシャニPではない。当たり前だ。だが、コミュの選択肢を選び、オーディションの指示を与えているのはあなただ。要は、実際にアイドルと接しているのはシャニPであるが、その行動を支配しているのは私なのだ、という考えでよいのではないだろうか。
(その場合、アイドルに好意を寄せられているのはあなたではなくシャニPということになるが、それはまあ諦めて欲しい。)

ところが、【YOUR/MY Love letter】においては、シャニPは某プ〇フェッショナルの出演依頼を断り、自分は輝くための影でいいなどとクサい、いやかっこいい台詞を吐いただけであり、なおかつ前述した通り、読者に対しては明らかに「名もなき人」に共感できるような演出をしておいて、最後に「あなたの名前を教えてください」と問いかけてくる。

先程のプロデューサーの立場だとしたら、シャニPを裏で操っている〇〇です。と言うことになるが、アイドルが画面の向こう側を認知しているという、ホラーのような設定になってしまう。それどころか、アイドル自身が作られた存在だと言うことに気づいているということになり、それこそ『トゥルーマン・ショー』のようである。

では、私は「名もなき人」なのだろうか。現実世界で言えば、もちろんそうだ。私は有名人でも何でもないし、【YOUR/MY Love letter】の登場人物と同じく、社会の息苦しさに悶えながら、なんとか生きているだけの人間だ。

しかし、現実世界から返事をすることは躊躇われる。それこそ先程と同じ、メタ要素がぬぐえないからである。シャニマスには実在感があると言ったが、それは「感」なのであって実在するわけではない。現実と虚構を混在させるのは危険だというのはSF映画で何度も言われている。オセアニアでは常識なのかもしれない。(これは映画『パプリカ』のセリフを引用したジョークである。あしからず。)

では、実在感を高めるような一連の施策は何なのだろうか。アイドルを現実に顕在させる気なのか、それとも私たちを物語に取り込もうとしているのか。

恐ろしくなってきたのでこれ以上の言及は避けたいと思う。

個人的な結論としては、私は「283世界のアイドルファン」であることにして、思考をいったん放棄することにした。要は千雪ファンの父親や、ラジオネーム「教師は辛いよ」の高校教師と同じ類だ。実際に、【YOUR/MY Love letter】において一番共感し感情移入したのは高校教師の彼女だった。

プロデューサーとファンの立場の両立については、深く考える必要もないだろう。時と場合に応じて、演じ分ければいいのである。


おわりに

以上、色々と思考を垂れ流すだけ垂れ流し、予告通り明確な答えも提示できなかったが、いかがだっただろうか。

私的には、シナリオを見て、色々と考えに耽る行為自体が好きなので、勝手にスッキリしたのだが、やはりシャニマスの実在感へのこだわりについては、気になっているままである。

シナリオにおいて、過去のシナリオとのつながりや、やけに生々しいオタクの登場など、それ自体はユーモアと没入感を高める演出として楽しんでいるものの、それ以上の演出はやや過剰に思ってしまった。

年を重ねるごとに、新しいことを挑戦するシャニマスの姿勢は好きだ。

来週に迫った4thライブも非常に楽しみにしている。幸運なことに両日現地席を確保できたので、思う存分楽しみたいと思う。

プロデューサー兼ファンの一人の私として。

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