見出し画像

現象としてのVtuber

最近、よく考えることがある。
Vtuberの本質とは、果たしてどこに存在するのだろうか。
Vtuberの定義が曖昧であり人によって捉え方が異なる以上、それを考えるのはとても難しいけれども、どうしても考えたくなってしまう。

まず、Vtuberには必ず“創造主”がいる。それは、そのVtuberが吸血鬼であろうとエルフであろうとゾンビであろうと異世界の剣士であろうと、皆同じはずだ。
Vtuberやそのフォロワーの間で「企業勢」「個人勢」「IP」「権利」「2Dモデル」「3Dモデル」という言葉が一般に使われ、「デザイン」を担当した者をママ、「モデリング」を担当した者がパパと呼ぶ慣例があることからも、当然、“創造主”に当たる概念は存在していることになる。

創造主はそのVtuberに対するあらゆる権利を保有しており、僕たちが観測するその姿や活動に対して、あまねく全てをコントロールしていると考えていいだろう。
個人勢として自力で「セルフ受肉」した者は自身が創造主であり、自分の身体も行動も全て自分がコントロールできるというわけだ。

では、いわゆる「企業勢」として生まれたVtuberはどうであろうか。
どこで生まれ、どのように育ち、何をして生きているのか。多くの場合、その記憶は創造主によって与えられたものになるだろう。そして、その素性に相応しい姿形がデザインされ、そこに入る魂が選定され付与されることで、Vtuberがこの世に誕生する。
誕生したVtuberは、その魂の意思によって活動し、多くの人に配信や動画を届ける。視聴者は、その声や姿や言動などの調和によってVtuberの魂をより強く感じ取り、さらにそのVtuberに愛着を抱くことになるだろう。

しかし、そのVtuberの誕生に企業を通して多くの人間が関わっている以上、その活動も100%その魂の意思によって成立しているとは言えないだろう。
活動する媒体、好き嫌いなどの好み、やることややらないこと、何を人に見せて何を見せないかに至るまで、全ては“創造主”に当たる企業に認可されたものに他ならない。
つまり、企業に生まれたVtuberの活動は、魂の意思でありながら企業の意思が具現化された現象とも言えるはずだ。

「そんなことはない。その魂こそが重要であり、それによってこそVtuberは愛されるのだ」という気持ちを持つ人がいるかもしれない。しかし、だとしたら、その名前や姿形や記憶が変わったところで誰も悲しがったりはしないだろう。
Vtuberの卒業で悲しむ人は、その時その場所で、その姿や言動で活動しているVtuberを愛しているはずだ。
だとしたら、その権利を買い取って魂に与えればいい、という簡単な話ではなくなる。今まで自分たちが見て愛してきたその活動すらも、実際はその魂に機会を与えたり、姿形や記憶を与えたり、相応しい宣伝をしたり、活動をサポートしたりした、多くの人たちが仕事をした成果の賜物であるからだ。

環境が変われば、それまでとは全く異なる化学反応が起きることも十分あり得る。
もしも。“本好きの図書委員”としてデザインされ、読書が好きなことを公言していたVtuberが、その活動の権利を企業から買い取って自由に使えるようになったとして、ある時から「読書は本当は好きではなかった」と言い出したら、そのVtuberをそれまでと同じように愛せるだろうか。「こんなのは○○ではない」と否定したくはなったりはしないだろうか。

もちろん、これは当事者にしか分からないこともたくさんある。環境や立場が変わったからといって態度が豹変したりする人ばかりではないし、企業が一挙手一投足まで尽くVtuberをコントロールしているというパターンも稀だろう。
それに、たとえ「セルフ受肉」の個人勢だったとしても、その“創造主”がいつどのように意思を変えるかは分からない。その意味で、立場は違えどどのVtuberも「現象としてそこにいる」という部分で大きな差はないのだ。
それ故に、自分が相手のどこが好きで、その相手の何を尊重したいのか、その本質を見誤ってはいけないように思う。
これは、Vtuberに限らず、どんな人間と向き合う時にも同じように言えることかもしれないが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?