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カートリッジのインクが減ってく

年賀状を書く時期になった。

きほん、全部手書きでやってきたのは、万年筆でたっぷりと書くことがゆるされる、全肯定される唯一の機会とおもって差し支えない行事(?)だからだ。
が、今年は住所印刷されているタイプのものをかなりの枚数用意した。
ずっと一枚も捨てずにいた過去の年賀状を、今年はかなりの枚数処分した。

齢を重ねてきて、いろんなことがあやふやになって、わずらわしくなって、所有し続けることの意味とか、思い出のたしかさみたいなものが、視力が低下するようにどんどんどんどんぼやけていってるような。

それでも書くのは書いている。そして、書くはずだ。
たとえ来年の郵便はがき代があがったとしても、書くんじゃないかなって。
紙片にペンを走らせる感触とか、インクの濃淡とか実感がわく。自分のあらわそうとする何かが、出現しているさま。
言葉がわからず、しょうもない羅列かもしれないけれど、なんかSNSよりも濃く反映されるような。
散歩していると、道祖神が私が住んでいる界隈にはたくさん散見されるのだけれど(馬頭観音だの、道祖神だの)、ああいうものってそこへ克明に何かを残そうという土地の記憶(ここ最近『葬送のフリーレン』みてると、過去の記憶ってやっぱり石に刻むのがたいせつなんだなとか)だとおもうのな。
私はそこまではあれなんだけど、まあでもたとえそれが一枚の葉書でも、数枚の封書でもかたちとして残っていれば、そして、そのことを持っている人が見て、また忘れて、歳月がたって何かの拍子にまたその書簡をみたりして、一瞬でも思い返すようなことがあれば、それでいいんじゃないかなって、いう。

それで昨晩書き上げた年賀を出しに散歩に出て、投函。
近くの路地売りでジャガイモを買ってかえって、味噌汁の具にして、早めの今夜の食事をとりました。

世はクリスマスですか、しかし私は本を読み、日記を書き、数日のちのことを思い、noteにこうしてなんだかわからないものをうち込んで、ヒーターを入れて夜が暮れていくのを待ちます。

今年ももうすぐ仕舞い。
過ぎ去っていくなあ。


珈琲と岩茶と将棋と読書と、すこしだけ書くことを愛する者です。