膜の中(42日目)

くたびれて何も考える気がしないので、考えずに今日あったことだけを書けばいいのかと思ったが、それはそれですごく難しくないか。
だって1日の中で、あったことは無限にあるのに、どうやって選んで、かつ書けばいいのだろう。
平日はほとんど会社と家の往復しかしていないし、会社のことをここで書く気はほぼ全くないので、日々があまりに「出来事」に欠けている。

でも世の中には、なんでもないような日々を鮮やかに切り取って書ける人がたくさんいる。
出来事を切り取れない自分の目は、世界を見つめる解像度が低いのだろう。
どうも世界と直接触れていないような感覚が子供の頃からずっとあって、磨りガラスみたいにくもった膜の中からぼんやり外を眺めるように生きている気がする。
昨日の記憶の話でいうと、いろんなことを覚えていない要因のひとつはそれでもあるはずだ。
なんでそうなったのかはわからない。
チコちゃんに叱られる要素しかない。

自分が世界の手触りみたいなものを感じられるのは、創作物に触れているときばかりだ。
誰かの目に憑依して初めて、世界の姿がわかる。
たとえそれが自分の属する世界とまったく異なるものであっても。
自分にとってのフィクションは、五感を補う擬似感覚器なのかもしれない。

でも、間接的にしかすべてを感覚できない人間に、その感覚器を作ることなんかできるのだろうか?

まあ、やりようはある。
そういう人間にしかできないことがあるとすれば、その擬似感覚器の精度を確かめることだ。
作って確かめて捨てて、それを延々繰り返して、歩留まりの悪いやり方で作っていくしかないんだろう。
めんどくさいけど。

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