義務感について(6日目)

子供を寝かしつけていたら逆に寝かしつけられて2時間半が経過したところで目覚めてこれを書いている。

たぶんこの毎日書くやつをやっていなかったら、真っ暗な部屋のベッドでいったん目覚めたあと、まあいいか、と二度寝をかまして朝を迎えていたはずだ。
毎日やる、という義務感だけがベッドからおれを引きはがしたわけだが、ひとたびベッドと接すると異様なまでの吸着力を発揮する自分を引きはがすとは、やるな、義務感。
だって目覚めた時にまず思ったのは、あ、ヤバい、やってない、ということだったもの。

今これを書きながら、それがいいことなのか悪いことなのか少し迷っている。

どうにも自分はルールに過適応する傾向がある。
言い方を変えると、自分を動かすもののかなり上位に義務感が来る。
ひとたびルールとして定められるとそれをキッチリ遵守したがるスイッチがばちんと入り、バックグラウンドでそのエンジンが駆動しっぱなしになることがある。

自分が動くエンジンのメインの動力源が義務感っていうのは、時として危険なのではないか。

ルールに対する義務感は、その場の空気に対する従順さにすり替わりやすい。とても。

最近復刊されたクリストファー・R・ブラウニング著『増補 普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』という本がある。
いかにしてごく「普通の人びと」がホロコーストに加担してユダヤ人を大量射殺する極悪へ至ったのかを、タイトルの警察大隊を丹念に追うことで解き明かした一冊だが、この本を知ったのは速水螺旋人先生のツイートがきっかけだった。
該当ツイートがすぐ見つからなかったので不正確な引用だが、彼はこの本を引き合いに、「空気の読めない人がいかに大切か」を語っていた。

まだ読んでいないが、この本は必ず自分にとって必要になる、という予感があった。
たぶんおれはこの時代にこの場所にいてこの大隊に所属していたら、課されたタスクやその場の空気に押し流されて、最終的に虐殺に関与していた人間になっていただろうと思うからだ。

とかなんとか考えてると、この毎日書くルールを守るために起きてなんかいないで1日飛ばしてとっとと寝ろ、という気になってもくる。
いやもちろん毎日更新するのとホロコーストに加担することは、必ずしも同根の話じゃないことはわかってはいるんだけど。

ただまあ、これを義務感でやることのマシな点があるとすればこれは「書くための義務感」だということである。

自分にとって何かを書くということは、そういう己の従順さに対する抵抗の意味合いが強い。
従順であることは、思考を停止することとほぼイコールだ。逆に、書くことは考えることと同じだ。

考えることに義務感を感じるのは、案外悪くないことなんじゃないかとも思うのだ。

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