根を下ろした真実な人生の演出

米国の社会学者アーヴィング・ゴフマン(Erving Goffman)は、彼の著書『自我演出の社会学』で人間のコミュニケーション方式が演劇と同様だと主張した。俳優が観客を対象として舞台で演技をするように、人は他人を対象として一種の演劇的な意思疎通をするということだ。ところがその演劇の目的は他人に良い印象を与えること。つまり人は演劇を通して自分が見せたい姿を現し、見せたくなかった姿は隠しつつ自分のイメージを創出していくということだ。

ところがこのような演出は、現代人が社会で生き残り成功するために自分の本当の姿を隠して、社会が望む姿だけを見せるようにもさせている。それで心理学者のカールグスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)はこれを自我と関連した「ペルソナ(Persona)」という用語で説明したりもする。ペルソナは、古代の俳優たちが劇で使っていた仮面を示すものであり、現代人らは社会人として行動する際に、自分の本来の姿を隠したまま一種の「仮面」を使って行動するという点を指摘したのだ。

またフランスの哲学者ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard)もこのような姿を模倣という意味の「シミュラークル(simulacre)」と呼び、我々の人生が偽物の支配を受けていると指摘したりもした。実際、私たちの人生を見ると、ひたすら人によく見せることに集中して、自分の本当の姿を隠したまま生きて行く姿を頻繁に発見することができる。

社会はある集団的なイメージに閉じ込められて、その人にその集団に合うイメージを要求することもある。問題はこの場合、一人の個性や特性が抹殺されやすいということにある。ニューヨーク大学の吉野健二教授は、現代社会が非主流的な個性や特性を差別して排除しないが、彼らがある主流に同化されることを望む圧力がいつも存在すると指摘した。

実際、表に見えるイメージは非常に重要だ。しかし自分の本来の姿ではなく、作られたイメージを見せなければならない人生は決して真実の人生であるとは言えない。また多様な個性が鉱炉に溶かされ一つのイメージだけが現れる場合、絶対にシナジー効果が発生しないし、創造の花も咲かないだろう。

「物有本末」という言葉がある。ある事物を見る時、皮相的に見ず、本質的な側面を理解しなければならないという意味だ。本末という単語で、本は木の下に棒が一つ引かれていて根を象徴する言葉で、末は木の上に棒一つが引かれて枝と葉を象徴する言葉だ。木を利用した漢字を通して、外から見える姿より見えない根本である根を見ることができなければならないという意味を示したものである。

このようにすべての事物に根本である根があるように、人類にも根がある。そしてその根を探すのは人間の本能でもある。エジプトで400年間、奴隷として暮らしたユダヤ人が自分たちのルーツを忘れないで最後には故郷に帰ろうとした歴史を見ても、奴隷として拉致されてアメリカに行ったアフリカ少年「クンタキンテ」と彼の子孫らが自分のルーツを探すことを一生の仕事としたアレックス・ヘイリー(Alex Haley)の『根』という作品を見ても、人類にとっては根を探す本能が内在していると言えるだろう。

だから神様は人類の根源である神様に根を下ろそうとする人を最後まで助ける。根を深く下ろして生きて千年、死んで千年、腐って千年の合わせて3千年を生きるというイチイの木のように、神様に深い根を下ろす人生を通して、上辺だけでなく真実な人生を演出できるようになりたい。

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