変化の阻害要因:「慣れと成功による満足する心」

「昔のこと」を捨てられない理由

すべてのことが変わるのに、ひとり昔のことに溺れているのなら、深刻な状態でないとはいえません。各自「昔のこと」を捨てずにそのまま置いておいては、「新しいこと」を作ることができません。昔の考え、昔の行ない、あらゆる環境を果敢に捨てることができないのは、一体どんな理由のせいでしょうか?

2種類にその理由を整理してみました。

1つ目、自分自らに浸って、慣れてしまっているからです。

2つ目、昔の考え、昔の行ないを通して、これまで成就してきた小さな成功に満足し、その繰り返しを期待する心のせいです。それなりに成功したと自評するので、過去との完全な決別が困難なのです。

慣れ

「慣れ」というのは実に警戒すべき対象です。一見、楽で良い単語のように聞こえますが、新しい挑戦や学習、成長を成すことができずにいるということです。何か同じ方法で、反復的に生きているということです。

新しい挑戦が始まらず、新しいことに対する学習が停滞することが危険なことだというのを示す警句の中に「人生はまるで水の流れに逆らって上ろうとして櫓を漕ぐようなものだ。」という表現を多く引用します。櫓を漕ぐのを止める瞬間、体が楽になり、現在の状況を維持しているかのように錯覚しますが、事実は櫓を漕ぐのを止めた瞬間から、流されて下りてきてしまいます。

小さな成功が与える満足

過去の小さな成功が与える満足も、同じく警戒すべき対象です。携帯電話端末の世界的ブランドであるモトローラがノキアの前にあっさりと崩れ、世界の携帯電話市場の67%まで占有していたノキアも結局、滅びてしまったのは、すべて以前の成功に対する満足で目が覆われ、「変化」に失敗したためです。

これを「勝者の呪い」と呼びもしますが、自分を勝者に作り上げたという満足心のせいで滅びるようになるということです。光速を超える速度で変化しつつある現代社会では、「変化」すること、あるいは「淘汰」されること以外に道はないでしょう。

毎日自ら変化する必要性

変化を別の表現で「革新」ともいいますが、言葉の通り、革を剥がして新しく着せることを意味するので、「自分自ら変化する」という言葉は簡単なことではないでしょう。しかし、そうだとしても自分自らが昔のことを完全に捨てなければ、他の誰にもできません。今日、自分が競争すべき相手は「昨日の」自分になり、明日の自分の競争相手は「今日の」自分になるように、毎日毎日終わりのない自己否定や自己克服が連続されなければなりません。

毎日死ぬ覚悟を常に新しくしなさい

使徒パウロも、「主キリスト・イエスにあって、日々死んでいる※」といいましたが、このような脈略だったということが分かります。自分が生きれば自分の中のキリストが死ぬということを知っていたので、毎日「死ぬ覚悟」を常に新しくしたのです。このように勤しんで自分を殺す(作る)人には、神様も投資なさるのでしょう。

(参考※コリント人への第一の手紙15章31節)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?