自分の「欲しい」を許すこと

自分が欲しいと思ったもの、欲しいと思いつつ悩む
長い時間悩んだ末に関心が薄くなっていく

自分が欲しいと思ったものを自分で買うことは、自分を許すこと
自分の関心と意思を大事にすること
自分で自分を満たすこと

「欲しい」より「必要」を優先してきたから難しい

それは必要?と問うてしまう

私は昔から、物事を決めるのに時間がかかっていた
毒母はそれに痺れを切らして勝手に決めるようになった
私は自分の意思が分からなくなり、自分で決められなくなった
毒母に「これはどう?」と聞くようになった
悩むくらいならいらないんでしょ、と言われてしまう
今ももちろん、決めるのにはかなりの時間がかかる

自分の意思を尊重されないと、自分で自分の意思を尊重出来なくなってしまう

悩んで決めたものの値段が高くてダメだと言われたこともあった
多くは仕方のないことだろう
自分で決めたことですらダメなのだと感じた

毒兄とも比べられていた
私の育った家には物事に悩む人がいなかった
私を除いて
自分の意思表示をすると嫌がられることが多かったから、自分の存在を無いように扱った
幽霊になりたかった
消えたかった
そこに私は居ないと、息を殺した

こうして書いているものは、ただの私の主観でしかないが、少しでも自分を出していくことは自分を取り戻すための布石になる
この「欲しいものを自分の意思で買う」こともそのひとつ
「必要かどうか」ではなく「欲しい」でいい
自分で自分を許すしかない
本当に虚しい

自分の「欲しい」を優先することは楽しいことのはずなのに
とても苦しい
「どうせすぐいらなくなる」がまとわり付いている
「必要なもの」はちゃんと「必要」だから、あまり悩まない
実態があるものはとても悩む
実態がないものはあまり悩まない
例えばお札とカード、お札はほぼ財布にしまったまま、使わない
使う時は大体交通系ICにチャージする時
カードでなら買い物は易々と出来てしまうけれど、実態のあるものを買うとなると、やはりそこで悩んでしまう

実態があるのに実態感が無い
実態のないものって私のことなんだ
私は自分の実態を感じられない

これも自分の解明を進めていくことで気付けたことだ

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